第46章
日本という国は、かつてない熱狂と、得体の知れない恐怖の渦に飲み込まれていた。
週刊誌は廃墟と化し、大手新聞社は物理的に沈黙した。
だが、残された最後のメディア王、テレビという最も影響力のある怪物は、恐怖するどころか、その口をさらに大きく開け、史上最高の獲物が現れたことを喜んでいた。
湾岸エリアにそびえ立つ、ガラス張りのモダンな摩天楼。
民放テレビ局「東都テレビ」の本社ビルは、今夜、日本中の視線を一身に集める、巨大な祭壇と化していた。
午後七時。ゴールデンタイムの報道特番が、まさに生放送で始まろうとしていた。
第七スタジオは、無数の照明に照らされ、昼間よりも明るい。
中央に据えられた巨大なモニターには、「緊急特番!謎の少年X vs 日本社会!次なる標的は!?」という、扇情的なテロップが躍っている。
メインキャスターの席には、この局の看板アナウンサーである川村真理と田中亮介が、緊張と興奮が入り混じった表情で座っていた。
彼らの耳につけられたイヤホンからは、副調整室からの指示が、ひっきりなしに飛んでくる。
「CM明け、VTRから入ります!」
「スタジオカメラ、川村さん寄りで!」
「テロップ準備OKです!」
その喧騒を、最上階にある社長室の巨大モニターで、一人の男が、満足げに眺めていた。
東都テレビ社長、大島雄一。
日焼けサロンで焼いた褐色の肌に、イタリア製の派手なダブルスーツ。
その指には、これみよがしに金の指輪が輝いている。
彼は、ソファに深く身を沈め、怪物的な視聴率を叩き出すであろう「番組」の成功を確信していた。
「素晴らしい……! これだよ、これ! 国民が求めているのは、こういう分かりやすいヒーローと、分かりやすい恐怖なんだ!」
彼の隣で、報道局長の山本和也が、冷や汗を拭いながらも、必死に同意の笑みを浮かべている。
「はい、社長。今この瞬間も、視聴率はうなぎ登りです。各SNSのトレンドも、全てこの話題で埋め尽くされています」
「だろうな! このまま、この『橘蒼真』というコンテンツを、骨の髄までしゃぶり尽くしてやれ!」
大島の瞳は、視聴率という神に仕える狂信者の、危険な光を宿していた。
彼にとって、橘蒼真は人間ではない。
数字を稼ぐための、最高の「素材」でしかなかった。
――そして、その「素材」は、彼らの想像を絶する形で、自ら祭壇へと降臨した。
番組が始まり、十分が過ぎた頃だった。
専門家と称されるコメンテーターが、橘蒼真の正体について、したり顔で持論を展開している、まさにその時。
ドンッ!!!
スタジオの天井、その分厚い防音壁を、まるで紙でも突き破るかのように、何かが貫通した。
轟音と共に、照明機材の破片と、天井の残骸が、キャスターたちの頭上に降り注ぐ。
「きゃあああああっ!?」
「な、何だ!? 」
「上だ! 上を見ろ!」
悲鳴と怒号がスタジオを支配する。
カメラマンが、震える手で、カメラを天井へと向けた。
そして、そのレンズが捉えた映像に、スタジオにいた全員が、そして、テレビの前の数千万人の視聴者が、息を呑んだ。
破壊された天井の穴。
その向こうに広がる、東京の夜景を背にして、一人の少年が、静かに、宙に浮いていた。
黒いパーカーのフードを目深に被り、その瞳は、地獄の業火のように、赤く、赤く輝いている。
橘蒼真。
彼らが、安全な場所から、面白おかしく論評していた「怪物」が、今、彼らの聖域の、ど真ん中に、降臨したのだ。
「……す……素晴らしい……!」
社長室で、大島が、興奮のあまり椅子から立ち上がった。
「撮れ! 撮り続けろ! 何があっても中継を切るんじゃないぞ! これは神が与えた、千載一遇のチャンスだ! 視聴率が、跳ね上がるぞぉっ!」
彼の狂的な指示が、インカムを通じて、パニック状態のスタジオに響き渡る。
プロデューサーの吉川が、恐怖で震えながらも、マイクに叫んだ。
「ぜ、全カメラ、橘蒼真を抜け! 音声、マイクを奴に向けろ! これは放送事故じゃない、歴史的瞬間だ!」
蒼真は、ゆっくりと、スタジオの床へと降り立った。
その足元から、ビリビリと、青白い魔力の火花が散る。
彼の周囲だけ、空気が歪み、空間そのものが、彼の存在を拒絶しているかのように、軋んでいた。
腰を抜かしたキャスター、恐怖で硬直するスタッフ。
その地獄絵図のような光景の中、ただ一人、蒼真に向かって、マイクを握りしめたまま、歩み寄る男がいた。
彼の顔は恐怖で引きつっている。
だが、それ以上に、この歴史的スクープをモノにしようという、ジャーナリストとしての業が、彼を突き動かしていた。
「た、橘蒼真さん……! 全国数千万人の視聴者が、あなたを見ています! 今の、そのお気持ちを、一言……!」
震える手で、マイクを蒼真の口元へと突き出す。
それは、あまりにも愚かで、あまりにも命知らずな、最後の質問だった。
蒼真は、初めて、その赤い瞳で、目の前の男を、そして、その向こうにある無数のカメラレンズを、捉えた。
彼の唇が、わずかに、動く。
「――美月を苦しめた、報いだ」
その、静かだが、絶対的な絶望を孕んだ一言。
それが、この国のテレビ史に残る、最後の、生放送の音声となった。
次の瞬間。
蒼真が、ただ、一瞥しただけ。
それだけで、スタジオ内にあった、数十台のテレビカメラ、無数の照明、音響機材、モニター、その全ての電子機器が、一斉に、内側から、破裂した。
バチィッ! バチバチバチッ! という、無数の断末魔のような音と共に、青白い電光がスタジオを駆け巡り、焦げ臭い匂いが、鼻をつく。
それは魔力によって生成された、指向性のない、純粋な破壊の波動。
「あ……あ……」
レポーターが手にしていたマイクも、ただの鉄屑と化していた。
彼は、目の前で起きた、理解不能な現象に、声も出せずに立ち尽くす。
「お前たちが、その目で見てきたものを、面白おかしく、切り貼りしてきたんだろう?」
蒼真は、彼の目の前に立つと、その顔に、そっと手のひらをかざした。
「ならば、もう、何も見るな」
――【ブラインド】
手のひらから、光を吸収する、純粋な闇の魔力が放たれる。
「ぎゃあああああああああっ!」
レポーターの絶叫が響き渡る。
彼の両目から、光が永遠に失われたのだ。
彼は、自らの目を掻きむしりながら、床を転げ回った。
蒼真は、その無様な姿に一瞥もくれず、スタジオの中心へと歩を進める。
パニックに陥り、出口へと殺到するスタッフたち。
だが、その出口は、いつの間にか、分厚い氷の壁によって、完全に塞がれていた。
「誰も、逃がさない」
蒼真は、天に両手を掲げた。
彼の身体から、禍々しいほどの魔力が、奔流となって溢れ出す。
「お前たちが、その声で、誰かを傷つけてきたのなら」
――【サイレンス】
スタジオ全体が、絶対的な無音の空間に包まれた。
アナウンサーたちは、口をパクパクさせるだけで、声が出ない。
悲鳴すら、音にならない。
「お前たちが、その足で、誰かを追い回してきたのなら」
床一面に、紫色の電撃が、蜘蛛の巣のように走り抜ける。
感電したスタッフたちが、次々と痙攣し、その場に崩れ落ちていった。
蹂躙。殲滅。
それは、もはや、報復ですらなかった。
ただ、そこに存在する、不快な害虫を、一匹残らず駆除する、冷徹な作業。
社長室で、その光景を映していたモニターが、砂嵐へと変わった。
「……中継が、切れた……?」
大島の顔から、血の気が引いていく。
その時、彼の背後、社長室の巨大なガラス窓が、内側から、蜘蛛の巣のような亀裂を走らせ始めた。
「ひ……」
彼が振り返ると、そこには、夜景を背にした、魔王の姿があった。
「ま、待て! 話せば、分かる! 金か!? 女か!? 何でも、用意する!」
大島の、見苦しい命乞い。
だが、蒼真は、ただ、静かに首を振った。
「もう、誰も、俺たちを追い回すな」
それが、このビルの人間が聞いた、最後の言葉だった。
蒼真は、夜空へと舞い上がると、眼下に広がる、巨大なテレビ局の本社ビルを、見下ろした。
それは、彼にとって、美月を苦しめた、最後の、そして最大の、悪意の象徴。
彼は、天に、右手を掲げた。
その手のひらに、夜空の雲が、まるで吸い寄せられるかのように、渦を巻いて収束していく。
雲の中で、凄まじいエネルギーが生まれ、紫電が、龍のように蠢く。
そして、左手には、地獄の業火そのもののような、灼熱の炎球が、太陽のように輝き始めた。
「――これで、終わりだ」
雷の槍と、炎の隕石。
二つの、相反する、しかし、等しく絶対的な破壊の力が、同時に、地上へと、振り下ろされた。
轟音。
東京の夜が、一瞬、真昼のように、白く染め上がる。
テレビ局「東都テレビ」の本社ビルは、その一撃で、上層階から、まるで砂の城のように、崩壊を始めた。
炎が鉄骨を溶かし、雷がコンクリートを砕く。
断末魔のような轟音を立てて、現代文明の象徴であった摩天楼が、瓦礫の山へと変わっていく。
週刊誌、新聞社、そして、テレビ局。
メディア三大勢力は、一人の少年によって、完全に、その機能を停止させられた。
その、あまりにも終末的な光景は、偶然、上空を飛んでいた報道ヘリによって、全世界へと、発信され続けていた。
人々は、ただ、呆然と、テレビの画面に映し出される、神の如き、あるいは、悪魔の如き、一人の少年の姿を、見つめることしか、できなかった。
それは国家が、そして世界が、橘蒼真という、抗う術のない「脅威」の存在を、真に認識した、歴史の転換点だった。




