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第45章

 週刊「週刊真実」が、一夜にして沈黙した。

 そのニュースは、暴力という名の衝撃波となって、日本のメディア業界を根底から揺るがした。

 ゴシップ誌の半壊したビルは、まるで現代に現れた古代遺跡のように、静かに、しかし雄弁に、新たな時代の幕開けを告げていた。

 恐怖と憶測が、インクと電波に乗って、光の速さで駆け巡る。

 だが、その混沌の渦の中心で、ただ一社、静かに、しかし、鋼のような意志を持って、その「脅威」と対峙しようと決意した者たちがいた。


 大手新聞社「日本新報」。

 この国の言論を、一世紀以上にわたってリードしてきた、知性の砦。

 その本社ビルは、昨夜の惨劇の舞台から数キロと離れていない場所に、泰然とそびえ立っていた。


 編集局のフロアは、締め切り前の緊張感と、紙とインクの匂いに支配されていた。

 数百人の記者たちが、整然と並べられたデスクに向かい、キーボードを叩いている。

 聞こえるのは、その無機質なタイピング音と、時折響く内線電話の音だけ。

 それは、ゴシップ誌の野蛮な熱気とは対極にある、理性の戦場だった。


 その静寂は、突如として、破られた。


 ガシャン! という、耳をつんざくような破壊音。

 フロアの南側、巨大な一枚ガラスで覆われた窓が、まるで小石を投げ込まれたかのように、中心から放射状の亀裂を走らせ、次の瞬間、内側へと爆散した。


「な、何だ!?」

「テロか!?」


 悲鳴と怒号がフロアを埋め尽くす。

 だが、ガラスの破片が舞う、その開口部に現れた人影を見て、誰もが息を呑んだ。

 そこに立っていたのは、黒いパーカーのフードを目深に被った、一人の少年。

 橘蒼真。

 テレビの画面越しに、日本中を震撼させた、まさしくその少年が、夜風と共に、彼らの砦へと、音もなく降り立ったのだ。


 パニックがフロアを支配する。

 椅子を倒して逃げ惑う者、デスクの下に隠れる者。

 だが、その混乱の中、ただ一人、蒼真に向かって、まっすぐに歩みを進める男がいた。


「――君が、橘蒼真か」


 静かだが、凛とした、よく通る声。

 編集局長の、松井正道だった。

 仕立ての良いグレーのスーツを、ガラス片が散乱する床の上でも、一切乱すことなく着こなしている。

 その佇まいには、長年ジャーナリズムの第一線に立ってきた者だけが持つ、知的な鋭さと、揺るぎない使命感が滲み出ていた。


 彼は、恐怖に震える部下たちを、手で制した。


「私が話す。君たちは、手を出さずに、状況を記録しろ」


 その瞳には、恐怖の色はなかった。

 あるのは、理解不能な現象を前にした、ジャーナリストとしての強い好奇心と、自らが信じる「正義」を貫こうとする、理想主義者の、覚悟の光だった。


 松井は、蒼真から数メートル離れた場所で、足を止めた。


「私は、ここの編集局長をしている、松井という」


 彼は、まるで要人との会見に臨むかのように、丁寧な自己紹介から入った。


「君と、話がしたい。一方的に断罪するつもりはない。君がなぜ、このような行動に出たのか。その理由を、我々に聞かせてはもらえないだろうか」


 その、あまりにも真摯で、あまりにも場違いな申し出に、蒼真は、初めて、フードの奥から、その顔を覗かせた。

 感情の抜け落ちた、能面のような無表情。

 だが、その瞳の奥では、地獄の業火が、静かに燃え盛っている。


「……話?」


 蒼真の声は、冬の夜気のように、冷え切っていた。


「お前たち新聞社も、奴らと同じだろう。俺と美月の過去を、面白おかしく記事にした。俺と彼女の心の傷を、インクで汚れた紙に変えて、売り捌いた」

「……我々の報道が、結果として、白石さんを傷つけたことは、事実だろう。その点については、謝罪する」


 松井は、深く頭を下げた。

 だが、すぐに顔を上げ、その真っ直ぐな瞳で、蒼真を射抜く。


「だが、我々の目的は、ゴシップ誌とは違う。我々は、社会正義の実現のために、報道している。君の持つ、その常識を超えた力が、野放しにされることの危険性を、国民に知らせる義務があるんだ」

「正義……だと?」


 蒼真の口元に、氷のような笑みが浮かんだ。


「お前たちの言う『正義』とは、一体、何だ?  一人の少女が、大勢の大人に囲まれ、心を壊されるまで追い詰められることか?  彼女が、毎晩、悪夢にうなされることが、お前たちの言う『社会の安全』に必要な犠牲なのか?」


 その言葉は、刃となって、松井の理想を突き刺した。

 だが、彼は怯まなかった。


「君の怒りは、理解できる。一人の人間として、君の気持ちは、痛いほど分かる。だが、それでも、暴力では、何も解決しない!」


 松井の声が、熱を帯びる。


「君がやっていることは、ただの復讐だ! それは、新たな憎しみを生むだけで、決して、真の解決には繋がらない! 君の力は、あまりにも危険すぎる。もし、その力が、君の個人的な感情だけで振るわれるなら、それは、もはや、市民にとって、核兵器以上の脅威だ!」


 価値観の、完全な激突。

 個人の幸福を守るという、ミクロな正義。

 社会の秩序を守るという、マクロな正義。

 二つの正義は、決して交わることなく、互いを否定し合う。


「解決?」


 蒼真は、心底、不思議そうに首を傾げた。


「お前らが、美月を苦しめた。その事実を、どう『解決』するんだ?  時間を戻せるのか?  彼女の心から、恐怖を消し去ることができるのか?」

「それは……できない。だが、だからこそ、我々は、二度とこのような悲劇が起きないよう、社会に……」

「――もういい」


 蒼真は、松井の言葉を、静かに遮った。


「お前たちの理屈は、分かった。だが、俺は、お前たちの『正義』とやらに、興味はない」


 彼は、ゆっくりと、一歩、前に出た。


「俺が守りたいのは、たった一つの、小さな世界だ。美月が笑っている、ただそれだけの、小さな世界だ」


 その、あまりにも純粋で、あまりにも独善的な宣言に、松井は息を呑んだ。


「そして、その世界を脅かすものは、それがゴシップ誌だろうが、新聞社だろうが……全部、俺の敵だ」


 対話は、終わった。

 理想主義者と、絶対的な愛に生きる破壊者。

 二人の間には、修復不可能な、絶望的な断絶だけが、横たわっていた。


「……残念だ」


 松井は、静かに呟いた。

 その瞳には、諦めと、そして、最後の矜持が宿っていた。


「ならば、力で止めるしかない、ということか。我々は、言論の自由を、暴力に屈させるわけには、いかない」


 その言葉を合図にしたかのように、フロアの隅に待機していた警備員たちが、一斉に蒼真へと駆け寄る。

 だが、それは、あまりにも、無謀な行為だった。


「――邪魔だ」


 蒼真が、ただ、一瞥しただけ。

 それだけで、屈強な警備員たちの身体は、見えない力に弾き飛ばされ、壁やデスクに叩きつけられ、気を失った。

 蒼真は、最後の抵抗者となった松井の前に、音もなく立つ。


「君は……一体、何なんだ……」


 松井の喉から、絞り出すような声が漏れた。


「俺は、ただ、美月を守りたいだけだ」


 蒼真は、そう言うと、松井の胸に、そっと手のひらを当てた。

 そこから、破壊ではない、しかし、もっと根源的な、冷たい魔力が、松井の体内に流れ込んでいく。


「が……あ……」


 松井の身体から、力が抜けていく。

 熱が、奪われていく。

 彼を、理想主義者として、ジャーナリストとして、突き動かしてきた、あの燃えるような「使命感」が、急速に、冷却されていく。


「お前の『正義』は、もう、誰かを傷つけることはない」


 蒼真が手を離すと、松井は、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。

 彼は死んではいない。

 身体に、目立った外傷もない。

 

 だが、その瞳から、かつて宿っていた、理想主義者の強い光は、永遠に失われていた。

 彼は、ただ生きるだけの、抜け殻になったのだ。


 蒼真は、その亡骸に一瞥もくれず、外へと飛び出した。

 彼の次の目的地は、この新聞社の心臓部、巨大な印刷工場と、配送センターだった。


 そこでは、明日の朝刊が、まさに刷り上がろうとしていた。

 巨大な輪転機が、轟音を立てて回り、インクの匂いを撒き散らしながら、秒間数百部という、驚異的なスピードで、紙の束を吐き出している。

 その紙の上には、「社会の脅威、橘蒼真」という、扇情的な見出しが、黒々と印刷されていた。


「……くだらない」


 蒼真は、その光景を、冷たく一瞥すると、工場の中心で、両手を広げた。

 彼の足元から、黒い亀裂が、蜘蛛の巣のように、コンクリートの床を走り始める。


 ――【アース・シェイカー】


 地を揺るがす、大地の魔法。

 次の瞬間、新聞社の地下構造全体が、震度7の直下型地震に襲われたかのような、凄まじい揺れに見舞われた。

 悲鳴を上げて逃げ惑う作業員たちを意に介さず、蒼真は、さらに魔力を注ぎ込む。


 ゴゴゴゴゴゴ……!


 巨大な輪転機が、土台ごと、ありえない角度に傾ぎ、巨大な鉄の塊となって、互いに衝突し、スクラップへと変わっていく。

 天井が崩落し、刷り上がったばかりの新聞の山が、コンクリートの瓦礫の下へと埋もれていく。

 配送センターでは、駐車されていた数十台のトラックが、地面の隆起によって、まるでミニカーのように、ひっくり返った。


 数分後。

 そこには、もはや、工場の面影はなかった。

 ただ、歪んだ鉄骨と、砕けたコンクリート、そして、誰にも読まれることのなくなった、紙の残骸が、静かに横たわっているだけだった。


 新聞社「日本新報」の、物理的な発信能力は、この夜、完全に、沈黙した。

 蒼真は、その破壊の跡を、満足げに一瞥すると、再び、夜の闇へと、その姿を消した。


 彼の行動は、もはや、単なる報復ではなかった。

 自らの「正義」を脅かす、社会のシステムそのものへの、明確な、宣戦布告だった。

 

 そして、その歪んだ正義観は、彼自身を、もはや後戻りのできない、孤独な魔王への道へと、確実に導いていく。

 

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