第44章
橘蒼真による、メディアへの宣戦布告。
その血塗られた映像が全国に流れた翌日の夜。
東京の中心部にそびえ立つ、インテリジェントビルのひとつに、その編集部はあった。
週刊「週刊真実」。
ゴシップとスキャンダルを貪り喰らい、人々の下世話な好奇心を養分として肥え太ってきた、ハイエナたちの巣窟。
その十二階に位置する編集部は、深夜にもかかわらず、煌々と明かりが灯り、締め切り前の熱気に満ちていた。
カフェインとアドレナリン、そしてインクの匂いが混じり合った淀んだ空気。
鳴り響く電話、キーボードを叩きつける音、飛び交う怒号。
昨日起きた惨劇は、彼らにとって恐怖ではなく、部数を稼ぐための最高の「燃料」でしかなかった。
フロアの壁という壁には、橘蒼真と白石美月の写真が、無数の付箋と共に貼り出され、狂気の相関図を形成している。
その喧騒の中心、編集長の黒田俊介は、巨大なデスクの上で腕を組み、満足げにその光景を眺めていた。
弛んだ腹は、高価だがサイズの合っていないワイシャツのボタンを悲鳴させている。
脂で光る額、その下の分厚いレンズの眼鏡の奥で、小さな瞳が金の匂いを嗅ぎつけた獣のように、ギラついていた。
「いいぞ、もっとやれ! 橘蒼真の過去、女の過去、根こそぎ洗い出して記事にしろ! 今週号で、俺たちは歴史を作るんだ!」
黒田の檄に、記者たちが雄叫びで応える。
誰も気づいていなかった。
自分たちが今、歴史の目撃者ではなく、歴史から抹消される対象になろうとしていることに。
――その「非日常」は、音もなく、窓の外から訪れた。
ドン、と鈍い音が響いたのは、編集部の窓ガラスだった。
残業に疲れた社員の一人が、気晴らしに窓の外を眺め、そして、凍りついた。
「……な……んだ、あれ……」
地上十二階。地上から約五十メートルの高さ。
ありえないはずのその場所に、一人の少年が、ただ、立っていた。
夜の闇よりも深い、黒いパーカーのフードを目深に被り、まるで足場があるかのように、虚空に。
風もないのに、そのパーカーの裾が、禍々しい魔力のオーラによって、不気味に揺らめいている。
「ひ……人が、浮いてる……!?」
その叫び声に、編集部全体の動きが止まった。
誰もが窓際に駆け寄り、その非現実的な光景に言葉を失う。
少年は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
フードの奥で、二つの赤い光点が、地獄の底から彼らを覗くように、ぼんやりと灯る。
橘蒼真。
彼が、そこにいた。
次の瞬間、強化ガラスでできているはずの窓が、一切の抵抗を見せることなく、まるで砂糖菓子のように、音もなく内側へと崩れ落ちた。
蒼真は、ガラスの破片が舞う中を、ゆっくりと一歩、編集部フロアへと足を踏み入れる。
「橘蒼真……!?」
黒田が、椅子から転げ落ちるように立ち上がり、震える指で蒼真を指さした。
その顔は、驚愕と、それを上回る恐怖で、蒼白になっている。
「……お前が、ここの王様か」
蒼真の声は、静かだった。
だが、その静けさは、嵐の前の不気味な静寂そのものだった。
彼は、ゆっくりとフロアを歩き始める。
その足音が響くたびに、周囲のパソコンのモニターが、バチバチと火花を散らしてブラックアウトしていく。
「ま、待て! 話し合おうじゃないか、橘くん! 君の言い分も聞こう! 我々は、決して君を敵視しているわけでは……」
黒田は、必死に命乞いの言葉を紡ぐ。
だが、蒼真の足は止まらない。
「話し合い?」
蒼真は、壁に貼られた美月の盗撮写真の前で、ぴたりと足を止めた。
その、怯えながらも必死に前を向こうとしていた、愛しい少女の顔。
「美月が、お前たちのせいで涙を流した時。彼女が悪夢にうなされていた時。その時に、お前たちは、その言葉を言うべきだったな」
蒼真が、写真にそっと指で触れる。
その、あまりにも優しい仕草と、彼の瞳に宿る絶対零度の殺意のギャップに、その場にいた誰もが、背筋が凍るような悪寒を感じた。
「――まずは、その汚い目からだ」
蒼真が呟いた、その刹那。
「「「ぎゃあああああああああっ!」」」
フロアのあちこちで、カメラマンたちの絶叫が木霊した。
彼らが手にしていた、あるいは首から下げていた一眼レフカメラが、一斉に、内側から爆発したのだ。
高温で溶けた金属とガラスの破片が、彼らの顔面に突き刺さり、その視力を永遠に奪い去る。
「目があああ! 俺の目がぁっ!」
床を転げ回り、自身の顔を掻きむしるカメラマンたち。
それは、美月を無遠慮なレンズで追い回したことへの、あまりにも的確で、あまりにも残忍な報復だった。
「次は、その指だ」
蒼真の視線が、キーボードの上で凍りついている編集者たちへと向けられる。
「その指で、美月の心を傷つける記事を、タイプしたのか?」
次の瞬間、編集者たちが座るデスクの天板が、まるで巨大なプレス機に押し潰されたかのように、一瞬で圧縮された。
ガシャン! という、金属が歪む轟音と共に、デスクの下にあった彼らの両手は、キーボードごと、肉と骨のミンチへと変わる。
「あああああああああっ!」
「うでが! 俺の腕があああ!」
阿鼻叫喚。地獄絵図。
だが、蒼真の表情は、一切変わらない。
彼は、ただ、害虫を駆除するかのように、淡々と、次の獲物へと視線を移した。
「お、お前は……悪魔か……」
腰を抜かした黒田が、床を這って逃げようとする。
その、無様で滑稽な姿を、蒼真は冷たく見下ろした。
「悪魔? 違うな。俺は、ただの復讐者だ」
蒼真は、編集部の奥にある、資料保管室へと、ゆっくりと歩を進めた。
そこには、創刊以来、彼らが暴いてきた、ありとあらゆる人間のプライバシーが、ファイルという名の墓標となって、整然と並べられていた。
「お前たちが、飯の種にしてきた、他人の人生だ。さぞ、愛おしいだろう?」
蒼真は、その部屋の中心で、静かに右手を掲げた。
「ならば、それごと、地獄へ送ってやる」
――【ファイアストーム】
手のひらから、小さな火球が生まれる。
そして、次の瞬間、その火球は、部屋全体を飲み込む、灼熱の炎の渦へと姿を変えた。
ゴオオオオオッ! という轟音と共に、紙の墓標が、一瞬にして業火に包まれる。
炎は、まるで意思を持った獣のように、ファイルからファイルへと燃え移り、他人の秘密を、ゴシップを、悪意を、平等に灰へと変えていく。
スプリンクラーが作動するが、その水は、炎に届く前に蒸発し、意味をなさない。
炎の熱波が、編集部フロアまで流れ込み、生き残った社員たちの肌を焼いた。
「あ……あ……」
黒田は、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
自分たちが長年かけて築き上げてきた、ゴシップの帝国が、今、目の前で、跡形もなく燃え尽きていく。
「二度と、誰かのプライバシーを暴くな」
炎を背にした蒼真の姿は、まさしく、裁きを下す魔王そのものだった。
彼は、再び黒田の前へと戻ると、その体を無慈悲に踏みつけた。
「お、おい……やめろ……金なら、いくらでも……」
「金? 俺が欲しいのは、金じゃない。お前たちの、絶望だ」
蒼真は、黒田の腹部に、ゆっくりと、しかし確実に、体重をかけていく。
ミシミシと、肋骨が軋む音が、黒田自身の耳にも届く。
ゴキッ、と、複数の骨が折れる、鈍い音が響いた。
黒田の口から、カエルが潰れたような悲鳴が漏れ、彼は意識を失った。
二度と、編集長として、その椅子に座ることはないだろう。
蒼真は、目的を果たした獣のように、静かに窓際へと戻った。
眼下には、パトカーや消防車の赤いランプが、無数に集まり始めている。
「……まだ、足りない」
彼は、呟くと、ビルそのものに向かって、両手をかざした。
彼の魔力が、今度は、より巨大な、構造物そのものを対象として、収束していく。
「――全部、潰してやる」
次の瞬間、週刊「週刊真実」が入るビルの、中層階から上層階にかけて、内側から、凄まじい衝撃波が迸った。
バリバリバリッ! という、ビルが断末魔を上げるような轟音と共に、窓ガラスが全て吹き飛び、壁面に、巨大な亀裂が、稲妻のように走る。
ビル全体が、大きく、ぐらりと傾いだ。
夜空へと飛び立った蒼真が振り返ると、そこには、巨大な獣に食い千切られたかのような、無残な姿を晒すビルがあった。
ゴシップの帝国は、物理的にも、組織的にも、この夜、完全に、その機能を停止した。
蒼真の怒りと力は、美月が受けた心の傷の深さに比例して、今もなお、際限なく増大し続けていた。
これは、まだ始まりに過ぎない。
本当の破壊は、これからだった。




