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第43章

 世界から、音が消えた。

 蒼真の意識の中で、耳障りなサイレンも、パニックに陥った人々の悲鳴も、全てが遠いノイズへと変わっていく。

 彼の世界の全ては、今、アスファルトの上に崩れ落ちた、か細い少女の姿、ただ一点に収束していた。


 ――美月。


 思考よりも早く、身体が動いていた。

 ビルの屋上から、彼は影となって舞い降りる。

 

 重力など存在しないかのように、音もなく、アスファルトに着地した。

 その、常識ではありえない登場に、爆発する街灯と揺れるビルに怯えていた記者たちが、一瞬、動きを止める。

 そして、彼らが目の前の少年の正体を認識した瞬間、その場は、新たな熱狂と恐怖の渦に叩き込まれた。


「橘蒼真……!」

「カメラを回せ! 回し続けろ!」


 ハイエナの群れが、新たな獲物を見つけた。

 だが、蒼真は、彼らに一瞥もくれなかった。

 彼の瞳は、ただ、倒れている美月だけを映していた。


 蒼真は、ゆっくりと彼女の傍らに膝をついた。

 過呼吸で浅く喘ぐ、小さな肩。

 苦痛に歪む、青白い顔。

 

 その姿が、彼の心の奥底にある、制御不能な力の引き金を、容赦なく引いた。

 

 彼を中心に、空気が再び歪む。

 ビリビリと、大気が震える。

 周囲の建物の窓ガラスが、一斉に、甲高い悲鳴を上げた。


「大丈夫だ、美月。俺がいる」


 蒼真は、囁くように言うと、そっと彼女の冷たくなった手を握った。

 その瞬間、奇跡が起こる。

 彼の荒れ狂う魔力が、まるで嵐の後の凪のように、すっと静まっていくのが分かった。

 美月の温もり。

 彼女の存在そのものが、彼の力の暴走を抑える、唯一無二の制御装置なのだ。


 魔力は安定した。

 だが、彼の心の奥底で燃え盛る、憎悪の炎は、その勢いを増すばかりだった。

 美月の手の温もりを感じるたびに、彼女をここまで追い詰めた、目の前の害虫どもへの殺意が、純度を高めていく。


「……お前ら」


 蒼真はゆっくりと立ち上がった。

 そして、初めて、ハイエナの群れへと、その顔を向けた。

 その瞳は、もはや人間のそれではない。

 感情という光を一切失った、底なしの暗闇。

 その中心に、地獄の業火のような、赤い点が二つ、ぼんやりと灯っていた。


「……全員、消えろ」


 地を這うような、低い声。

 それは、警告というよりは、死刑宣告に近かった。

 

 その声に含まれた、絶対的な威圧感と殺気に、歴戦の記者たちでさえ、思わず一歩、二歩と後ずさる。

 マイクを握る手が震え、カメラを構える腕が、鉛のように重くなる。

 

 本能が、叫んでいた。

 目の前の少年は、自分たちが理解できる範疇の、どんな生物とも違う、と。


 だが、プロとしての、あるいは、単なる下劣な好奇心が、その恐怖を上回った。

 特に、東都テレビのディレクター、石井麻衣は、その狂気の渦の中心で、恍惚の表情さえ浮かべていた。


「……撮りなさい! これよ! 私が欲しかったのは、この画なのよ!」


 彼女の指示に、カメラマンが、震える手でカメラを蒼真へと向け続ける。

 レンズの向こうで、少年が、静かに微笑んだ。

 それは、慈愛も、喜びも、一切の感情を含まない、ただ、これから始まる饗宴を前にした、捕食者の笑みだった。


「……そうか。まだ、分からないらしいな」


 蒼真が、ふっと息を吐く。


「今度は、俺から『取材』に行く。美月を苦しめた代償を、お前たちのその身体で、きっちりと払ってもらう」


 彼は、ゆっくりと右手を上げた。


「俺の大切な人を傷つける奴らは――全員、敵だ」


 その言葉が、テレビカメラのマイクを通して、全国に生中継された。

 そして、それが、この国が、一人の少年という「魔王」の誕生を、公式に認識した、歴史的な瞬間となった。


 ――宣告は、終わった。


 蒼真が、指を鳴らす。

 パチン、と、乾いた音が響いた、その刹那。


「「「ぎゃあああああああああっ!」」」


 最前列にいた記者たちの手から、マイクとカメラが、一斉に宙を舞った。

 いや、舞ったのではない。

 彼らの「手首から先」が、まるで鋭利なカッターで切り落とされたかのように、切断されていたのだ。

 噴水のように吹き出す鮮血。

 遅れてやってくる、絶望的な激痛。


「か、風が……!?」


 誰かが叫んだ。

 目に見えない、真空の刃。異世界では「風刃ウィンドカッター」と呼ばれる初級魔法。

 だが、蒼真の憎悪によって増幅されたそれは、人体を容易く切り刻む、凶悪な殺戮の嵐と化していた。


「ひ、ひぃぃぃっ!」


 週刊誌の記者、田村美香が、悲鳴を上げて逃げ出そうとする。

 だが、その一歩は、踏み出されることはなかった。

 

 彼女の足元のアスファルトが、一瞬にして、絶対零度の氷塊へと変わる。

 足を取られて転倒した彼女の、その美しい脚は、膝までが、見るも無残な氷の彫刻と化していた。


「いやあああああ! 足が! 私の足がぁっ!」


 自慢の美脚が、死の色である青黒い氷に閉ざされ、壊死していく感覚。

 その絶望的な光景に、彼女は気を失った。


 蒼真は、まるでオーケストラの指揮者のように、優雅に、そして冷酷に、指先を動かしていく。

 その指の動きに呼応して、地獄の釜が開いた。


「ぐわあああっ!」


 新聞社の佐野拓也の身体が、内側から発火した。

 どこにも火元はない。なのに、彼の身体は、松明のように燃え上がった。

 

 人体発火。それは、対象の体内の水分を沸騰させる、極めて残忍な炎の魔法だった。

 断末魔を上げながら、黒い炭と化していく様を、残された者たちは、ただ、呆然と見ていることしかできない。


 テレビレポーターの高橋良太は、そのハンサムな顔を恐怖に歪ませ、腰を抜かしていた。

 その彼に向かって、蒼真は、静かに人差し指を向ける。


 ――ピカッ。


 指先から、一条の紫電が迸った。

 雷の槍は、高橋の心臓を正確に貫き、その身体を内側から破裂させる。

 肉片と血飛沫が、周囲に散らばるカメラのレンズを、赤黒く染め上げた。


 阿鼻叫喚。

 もはや、そこは取材現場ではなかった。

 一方的な、蹂躙。

 人間が、抗う術を持たない、上位存在による、ただの「駆除」だった。


 風が舞い、氷が突き刺さり、炎が焼き、雷が貫く。

 蒼真は、まるで異世界の戦場を再現するかのように、次々と、ハイエナたちを魔法の餌食にしていく。

 その光景は、あまりにも非現実的で、あまりにも残酷で、しかし、どこか神々しいとさえ思える、圧倒的な破壊のスペクタクルだった。


 そして、最後に残ったのは、恐怖でその場に立ち尽くす、ディレクターの石井麻衣と、そのカメラマンだけだった。

 カメラマンは、既に恐怖で意識を失っている。

 だが、石井だけは、腰を抜かしながらも、その瞳に、まだ狂気の光を宿していた。


「……すごい……これこそが、真実……」


 蒼真は、その女の前に、ゆっくりと歩み寄った。


「わ、私は……視聴者に、真実を……」


 その、言い訳ともつかない言葉を聞いて、蒼真は、初めて、心の底から、笑った。

 それは、絶望と、怒りと、そして、途方もない虚無が混じり合った、魔王の笑みだった。


「そうか。そんなに、真実が知りたいか」


 蒼真は、石井の頭を優しく撫でた。


「なら、見せてやる。お前たちが、足を踏み入れた世界の、本当の地獄を」


 蒼真の手のひらから、黒い霧のような魔力が溢れ出し、石井の頭を包み込んでいく。

 それは、相手の精神を直接破壊する、闇魔法だ。


「あ……あ……ああ……あああああああああああああああああああ!」


 石井の瞳から、理性の光が消えた。

 口からは涎が垂れ、意味のない言葉を繰り返し呟きながら、狂ったように笑い始める。

 

 彼女は、死ぬよりも辛い罰を与えられたのだ。

 生きながらにして、永遠に、終わらない悪夢を見続けるという、罰を。


 蒼真は、最後に、まだ回り続けている一台のテレビカメラへと、その血のように赤い瞳を向けた。

 レンズの向こうにいる、この国の、全ての人間たちに向かって。


「――全部、潰してやる」


 その、静かだが、絶対的な絶望を孕んだ宣戦布告は、夕方のニュース番組を通じて、日本全土に、そして、世界へと発信された。

 本格的な、メディアとの、そして、社会全体との戦争の幕が、今、切って落とされた。

 

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