第42章
神崎零士への制裁から、三日が過ぎた。
その三日間は、まるで嘘のような、嵐の前の静けさだった。
蒼真は、以前にも増して白石美月の傍に寄り添い、彼女の心を蝕む影を、その存在だけで振り払おうと努めていた。
だが、彼らはまだ知らなかった。
一匹のハイエナの血の匂いは、さらに巨大で、さらに飢えた、無数の獣の群れを呼び寄せていたことを。
◇
その日、美月は下校の途についていた。
夕暮れ前の商店街は、買い物客や学生たちで賑わい、日常の穏やかな空気に満ちている。
美月の表情はまだ硬く、時折、何かに怯えるように周囲を見回している。
神崎の執拗なストーキングが残した傷跡は、まだ癒えてはいなかった。
それでも、蒼真の存在が、彼女にとって唯一の心の支えであることは間違いなかった。
彼が傍にいてくれる。
その事実だけが、美月をかろうじて日常に繋ぎとめていた。
――異変は、突然、前触れもなく訪れた。
商店街の角を曲がった瞬間、それまで雑踏に紛れていたはずの「何か」が、一斉に動き出したのだ。
まるで、号令でもかかったかのように。
「――白石美月さんですね!」
低い、それでいて有無を言わさぬ声と共に、行く手を阻むように、人垣が形成された。
スーツ姿の男たち、ラフな格好の若者、そして、その誰もが手にしているもの。
黒光りするカメラのレンズ。銀色に輝くマイクの先端。
それらが、一斉に、たった一人の少女に向けられた。
「な……!?」
美月の息が、ヒュッと音を立てて止まる。
目の前に突きつけられたのは、十数本のマイクと、それ以上の数のカメラレンズ。
それは、もはや取材機材ではなかった。
銃口だ。無数の銃口が、彼女の心臓を、そのプライバシーを、寸分の狂いもなく狙っている。
カシャ! カシャカシャカシャ!
焚かれるフラッシュの閃光が、嵐の中の稲妻のように、彼女の視界を白く焼き尽くす。
耳元では、異なる声、異なる質問が、意味の塊をなさずに、不協和音となって叩きつけられた。
「橘蒼真くんとの関係について一言お願いします!」
「神崎氏への襲撃事件について、何か知っていることは!?」
「美月ちゃん、橘くんは今どこに!?」
声、声、声。
レンズ、レンズ、レンズ。
無数の目が、無数の声が、彼女という一人の人間を、「情報」という名の獲物として、貪ろうとしていた。
「や……やめて……ください……」
美月は、後ずさろうとするが、背後からも新たな記者たちが現れ、完全に退路を断たれていた。
四方八方を、好奇心と悪意で構成された、分厚い壁に囲まれてしまったのだ。
「美月ちゃん、こっち向いて!」
「橘くんは、やはり暴力的な人間なんですか!?」
その群れの中から、一人の女性が、巧みに美月のすぐ傍まで潜り込んできた。
週刊「週刊真実」の記者、田村美香だった。
親しみやすい笑顔を浮かべ、心配そうな表情を作っているが、その瞳の奥は、獲物の弱点を冷静に分析する、爬虫類のような冷たさを宿している。
「大丈夫? 怖かったわよね。お姉さん、あなたの味方だから」
田村は、美月の肩に、馴れ馴れしく手を置いた。
「蒼真くんのこと、心配してるの。彼、今、とても危険な状況にいるわ。あなたが、彼のことを話してくれれば、彼を救えるかもしれないのよ?」
甘い言葉。同情を装った、巧妙な罠。
だが、今の美月には、その嘘を見抜く余裕はなかった。
「橘くんは、本当に、神崎さんをあんな目に遭わせたの? あなたは、その時、一緒にいたの?」
新聞社「日本新報」のエース記者、佐野拓也が、鋭い質問を投げかける。
痩せ型の身体、鋭い目つき。
彼の言葉には、週刊誌のような下世話さはない。
だが、その分、事実という名の刃で、相手の心を容赦なく切り刻む、冷徹な切れ味があった。
「答えてください、白石さん。これは、社会全体の安全に関わる問題です。あなたの証言が、新たな被害者を生まないために、必要なのです」
正義。その言葉が、美月の心をさらに追い詰める。
私が話さないから、誰かが不幸になる?
蒼真くんは、社会の脅威なの?
違う、そんなはずはない。
彼は、私を救ってくれた、たった一人の……。
「美月ちゃーん! 東都テレビです! 橘くんの素顔について、国民は知りたがっています!」
ひときわ大きな声で、軽薄な美貌のレポーター、高橋良太が、マイクを彼女の唇に押し付けんばかりに突き出す。
彼の背後では、カメラマンが、美月の怯える表情を、最高の「画」として、余すところなく撮影していた。
「ひっ……あ……」
美月の呼吸が、浅く、そして速くなっていく。
空気を吸っても、酸素が脳に届かない。
視界が、ぐにゃりと歪み始めた。
人々の顔が、声が、熱気が、まるで粘度の高い液体のように、彼女に絡みついてくる。
その、地獄のような状況に、最後の一撃を加えたのは、テレビ局「東都テレビ」のディレクター、石井麻衣だった。
年は二十九歳。若く、野心に燃えるその瞳は、視聴率という結果のためなら、どんな非人道的な手段も厭わない、狂信者の光を宿していた。
「白石美月さん」
石井は、記者たちの壁を押し分け、まるで女王のように、美月の眼前に立った。
「単刀直入に言うわ。私たちの番組に出演して。あなたが知っている、橘蒼真の全てを、カメラの前で話しなさい」
「……いや……です……」
「嫌? これは、あなたのワガママで済む問題じゃないの」
石井の口調が、一気に冷酷なものに変わる。
「いい? あなたには、義務があるのよ。彼が引き起こした事件の真相を、彼に隠された本性を、この国の全ての人々に伝える、重大な義務が。あなたが彼を庇うことは、新たな犯罪への加担と同じなの。分かる?」
義務。責任。加担。
その、正義の仮面を被った言葉の暴力が、美月の心の最後の砦を、粉々に打ち砕いた。
「あ……ぁ……」
もう、何も聞こえない。
何も、見えない。
世界が、白と黒のノイズだけで構成されていく。
「……そう……ま……くん……」
助けを求めるように、彼女の唇から、愛する人の名前が、か細く漏れた。
その瞬間、だった。
――ゴゴゴゴゴゴゴ……!
突如、足元の地面が、低い唸りを上げて震動した。
それは、地震とは明らかに違う、もっと内側から響くような、不気味な振動。
「な、なんだ!?」
「地震か!?」
記者たちが、一瞬、動揺する。
その、ほんの僅かな隙に、美月の身体は、糸が切れた人形のように、ゆっくりと前へ傾いでいった。
過呼吸。極度のストレスによる、身体の拒絶反応だった。
彼女が、アスファルトに崩れ落ちる、その刹那。
世界から、一瞬、光が消えた。
昼と夜の境界が曖昧になるような、奇妙な薄闇。
まるで、太陽が、ほんの一瞬だけ、巨大な何かの影に覆われたかのような、ありえない現象。
空を見上げた者たちは、言葉を失った。
そして、次の瞬間。
バァン! バン! バン! バン!
商店街を照らしていた街灯が、まるで示し合わせたかのように、内側から次々と爆発した。
ガラスの破片が、悲鳴を上げる人々の頭上に降り注ぐ。
周囲のビルというビルが、ミシミシと、軋むような音を立てて震え始めた。
窓ガラスに、蜘蛛の巣のようなヒビが、一斉に走る。
それは、天変地異ではなかった。
数百メートル離れた場所で、ただ一点、愛する者の苦痛を感知した、一人の少年の、制御を失った怒り。
その、魔力と呼ぶにはあまりにも禍々しい力が、世界そのものを歪ませ、破壊の序曲を奏で始めた、最初の兆候だった。
恐慌状態に陥る記者たちの中で、石井麻衣だけが、その異常現象の先に、新たなスクープの匂いを嗅ぎつけ、震える唇に、狂気の笑みを浮かべていた。
そして、その全ての光景を、通りの向かいのビルの屋上から、橘蒼真が、血のように赤い瞳で見下ろしていることには、まだ誰も気づいていなかった。




