第41章
週刊「週刊真実」の編集部は、朝から硝煙とカフェイン、そしてむき出しの闘争心の匂いで充満していた。
フロア中に鳴り響く電話のコール音、キーボードを叩きつけるようにタイプする音、そして怒号。
その喧騒の中心で、編集長の黒田俊介は、まるで玉座に鎮座する暴君のように、巨大なデスクにふんぞり返っていた。
年は四十八歳。弛んだ腹回りは、高価だがサイズの合っていないワイシャツのボタンを悲鳴させている。
脂で光る額、その下の分厚いレンズの眼鏡の奥で、小さな瞳が獲物を見つけた肉食獣のようにギラついていた。
彼の前に置かれたタブレットには、病院の集中治療室で、生命維持装置に繋がれた神崎零士の無残な姿が映し出されている。
「……面白いじゃねえか」
黒田の口から漏れたのは、同情ではなく、歪んだ歓喜の声だった。
集められた編集者や記者たちが、固唾を飲んで彼の次の言葉を待つ。
「神崎の奴、とんでもねえ爆弾を、自らの体で抱えて帰ってきやがった。両手両足複雑骨折、内臓破裂寸前……。これは、俺たちメディアに対する、明確な『挑戦状』だ」
黒田はデスクを拳で叩き、その巨体を揺らした。
「記者がペンでなく、暴力で潰されるだと? 前代未聞だ! こんな面白いネタ、見過ごせるか! 全員、聞け! これより『橘蒼真』案件は、編集部の総力を挙げて叩く! 総力戦だ!」
黒田の檄に、飢えたハイエナの群れのように、記者たちの目が光る。
彼らにとって、神崎への同情は二の次。
これは、年末のボーナスを、そして己の名を上げるための、千載一遇のチャンスだった。
「ターゲットは『橘蒼真』、15歳の中学生。だが、奴の正体はまだ分からん。海外の特殊部隊で育成された少年兵か? それとも、政府が秘密裏に進める超能力者開発計画の失敗作か? どっちに転んでも、最高のスクープだ!」
憶測が熱を帯びてフロアを飛び交う。
「田村!」
黒田が、編集部の一角で静かに成り行きを見守っていた女性記者を指名した。
田村美香、三十二歳。一見すると、親しみやすい笑顔と柔らかな物腰が印象的な女性だが、その瞳の奥には、ターゲットの懐に巧みに入り込む、計算高い光が宿っている。
「お前は、橘蒼真の女……白石美月をマークしろ。お前なら、女の武器を最大限に使えるだろ?『心配してるお姉さん』として近づき、奴の情報を根こそぎ引きずり出してこい!」
「……お任せください、編集長」
田村は、にこりと人の良い笑みを浮かべたまま、深く頭を下げた。
「中川、小野! お前らは学校関係者を洗え! 過去のいじめ、家庭環境、どんな些細な情報も見逃すな! カメラマンの森と橋本を連れて行け! 奴の部屋の隠し撮りでも何でもいい、ビジュアルを押さえろ!」
「「はいっ!」」
指示が飛ぶたびに、編集部全体のボルテージが上がっていく。
黒田は、椅子に深く身を沈め、満足そうに煙草の煙を吐き出した。
神崎の悲劇は、今や、部数を稼ぐための最高の燃料と化した。
真実などどうでもいい。
ただ、世間が飛びつく、センセーショナルな物語を創り上げる。それが、週刊「週刊真実」の唯一の正義だった。
◇
大手新聞社「日本新報」の編集局は、静謐な緊張感に支配されていた。
紙とインクの匂いが漂う広大なフロアでは、数百人の記者たちが、整然と自身のデスクに向かっている。
聞こえるのは、キーボードのタイピング音と、時折響く内線電話の音だけ。
その静寂の中心、ガラス張りの編集局長室で、松井正道は、厳しい表情でモニターに映し出された資料を睨んでいた。
年は四十五歳。仕立ての良いグレーのスーツを隙なく着こなし、その佇まいには、長年ジャーナリズムの第一線に立ってきた者だけが持つ、知的な鋭さと使命感が滲み出ている。彼は、社会正義の実現を固く信じる、古き良きタイプの理想主義者だった。
「……信じがたい」
松井の呟きに、向かいに座る男が頷いた。
佐野拓也、三十五歳。
痩せ型で、神経質そうに尖った顎、獲物を探すような鋭い目つきが特徴の、調査報道を専門とするエース記者だ。
「神谷組の壊滅、そして神崎氏への襲撃。警察は内部抗争や個人的な怨恨としていますが、我々の調査では、全ての事件の背後に、橘蒼真という一人の少年の影が浮かび上がっています」
「一人の少年が、この国の裏社会を根底から揺るがしている、と……。にわかには信じられんが、状況証拠がそれを指し示している」
松井は、深くため息をついた。
「この異常事態を、ゴシップ誌のネタにして終わらせてはならない。これは、我々が社会に警鐘を鳴らすべき、重大な事件だ」
彼の声には、重い責任感が宿っていた。
「市民社会のすぐ隣に、法も秩序も通用しない、絶対的な暴力が存在する。我々はその『社会の脅威』から、市民を守らねばならない。それが、ジャーナリズムに課せられた使命だ」
「同感です、局長」
佐野の目も、真実を追求する者の光を帯びていた。
「橘蒼真の正体について、現場では様々な憶測が飛んでいます。新種の薬物による超人的な力の獲得、あるいは、ある種の集団催眠を操るカルト教団の教祖……。いずれにせよ、彼の存在は、現代社会の常識を逸脱している」
松井は、決意を固めたように顔を上げた。
「佐野くん、君に特命を与える。橘蒼真に関する、徹底的な調査報道チームを編成してくれ。学校での過去、家庭環境に至るまで、彼の人間性を形成した全ての要素を洗い出すんだ。感情的な憶測ではなく、客観的な事実を積み重ね、この異常事態の本質を、国民に提示するんだ」
「承知しました」
佐野は、静かに、しかし力強く頷いた。
「デスクの鈴木と岡田には、私から話を通しておこう。宮田くんや長谷川くんもチームに加え、多角的にアプローチしろ。ただし、一つだけ。取材対象者のプライバシーには、最大限の配慮を怠るな。我々はハイエナではない。社会の公器としての矜持を忘れるな」
「肝に銘じます」
佐野が退室した後、松井は、窓の外に広がる都会のビル群を眺めた。
彼の理想主義と正義感は、本物だった。
だが、その純粋さが、結果として、橘蒼真という一人の少年を、逃げ場のない場所へと追い詰めていくことになるという皮肉に、彼はまだ気づいていなかった。
◇
湾岸エリアにそびえ立つ、ガラス張りのモダンなビル。
民放テレビ局「東都テレビ」の社長室は、その最上階にあった。
イタリア製の高級家具、壁に飾られた現代アート、そして、眼下に広がる東京のパノラマビュー。
その全てが、この部屋の主の成功を物語っていた。
「――面白い! これは、近年稀に見る最高のコンテンツじゃないか!」
革張りの社長椅子に深く身を沈め、大島雄一社長は、足を組んで高笑いした。
五十二歳。日焼けサロンで焼いた褐色の肌に、派手なブランドスーツ。
成功者としての自信と、視聴率という神に仕える者特有の軽薄さが、その全身から溢れ出ている。
彼の前には、報道局長の山本和也が、緊張した面持ちで立っている。
テレビ映えする端正な顔立ちと、アナウンサー上がりの流暢な弁舌を持つ、四十三歳のキレ者だ。
「神谷組壊滅から、謎の少年、そしてジャーナリスト襲撃……。物語の要素が完璧に揃っている。これは、ただのニュースじゃない。一大エンターテイメントだ!」
「は、はあ……」
「山本くん、すぐに緊急特番の編成を指示しろ!『独占スクープ!日本を震撼させる謎の少年Xの正体に迫る!』みたいな、視聴者が食いつくタイトルでな!」
大島の瞳は、金の匂いを嗅ぎつけた投資家のように輝いていた。
「この少年は、ヒーローか? それとも悪魔か? あるいは、宇宙から来た新人類か? 専門家と称する連中をスタジオに集めて、好き勝手に議論させろ! その方が、断然面白くなる!」
山本は、社長の意図を即座に理解した。
真実の報道ではない。
視聴率を稼ぐための、「ショー」の制作だ。
「承知いたしました。早速、ワイドショーのチームに指示を出します。プロデューサーの吉川と藤田に、番組制作を……」
「うむ。ディレクターには、あの若くて野心のある……石井くんを起用しろ。彼女なら、面白い画を撮るためなら、手段を選ばんだろう」
大島は、まるでドラマのキャスティングでもするかのように、楽しげに語る。
「特に、あの少女だ。白石美月。悲劇のヒロインとして、最高の画になる。彼女に独占インタビューを取り付けろ。ハンサムな高橋レポーターに、涙ながらのレポートをやらせろ。視聴者は、そういう分かりやすい『可哀想な少女』の画が大好きなんだ」
「……しかし、人権上の問題が」
山本が、わずかに躊躇いを見せる。
だが、大島は、それを一笑に付した。
「視聴率の前では、人権など二の次だ。我々が、この国の『話題』を作るんだよ。分かったかね?」
「……はい。社長」
社長室を後にした山本は、足早に報道フロアへと向かった。
彼の頭の中では、既に、センセーショナルなテロップと、劇的なBGM、そして、涙を流す美月のアップ映像が、完璧な番組構成として完成していた。
週刊誌は、部数のために。
新聞社は、正義のために。
そして、テレビ局は、視聴率のために。
三者三様の、しかし、等しく巨大な悪意が、今、橘蒼真という一点に向かって、動き出した。
メディアという名の怪物は、一度獲物を見つければ、その相手が骨の髄までしゃぶり尽くされるまで、決してその牙を離さない。
蒼真と美月が望んだ、ささやかな平穏は、この日を境に、完全に過去のものとなった。




