第40章
蒼真はここ数日、夜は美月のそばにいた。
その夜もベッドで眠る美月は、またしても悪夢にうなされていた。
「……いや……こないで……」
月明かりが、苦痛に歪む美月の青白い顔を照らし出している。
額には脂汗が滲み、閉じられた瞼が小刻みに震えていた。
きつく握りしめられたシーツは、彼女の心の安らぎが、今この瞬間も、何者かによって奪われ続けていることを示していた。
ここ数日、美月の笑顔は、まるで陽の光を失った花のように、急速に萎れていった。
原因は分かっている。
神崎零士。
あの、ハイエナのような目をしたジャーナリスト。
蒼真が何度警告しても、あの男の執拗な追跡は止まらなかった。
美月が一人になる瞬間を狙い、物陰から、雑踏の中から、粘りつくような視線を投げかけ続ける。
直接的な危害を加えるわけではない。
だが、そのやり口は、人の精神をじわじわと、しかし確実に蝕んでいく、陰湿な毒薬のようだった。
「大丈夫だよ、美月。俺が、ここにいる」
蒼真は彼女の隣に膝をついた。
震える肩を、壊れ物に触れるように優しく撫でる。
彼の体温が伝わったのか、彼女の呼吸が、少しだけ穏やかになった。
その寝顔を見つめながら、蒼真の腹の底で、マグマのように熱く、そして重い何かが、静かに沸騰していくのを感じていた。
怒り。
それは、異世界で敵を前にした時の、闘争本能に根差した感情とは全く違う。
もっと冷たく、もっと深く、そして、もっと破壊的な衝動だった。
彼の世界は、白石美月という一点の光によって、かろうじて成り立っている。
彼女の笑顔が、彼の魔力の暴走を抑える唯一の制御装置だった。
彼女の温もりが、彼を人間としてこの世界に繋ぎとめる、最後の錨だった。
神崎零士は、その光を、無遠慮な手で掻き消そうとしている。
蒼真から、この世界に存在する意味そのものを、奪おうとしている。
――許せるはずが、なかった。
美月の呼吸が完全に落ち着いたのを確認すると、蒼真は静かに立ち上がった。
音もなく部屋を出て、夜の闇へと溶け込んでいく。
今夜、全てを終わらせる。
あの男が二度と、美月の心を曇らせることができないように。
◇
都心から離れた、古い木造アパート。
月光だけが頼りの薄暗い階段を、蒼真は音もなく上っていく。
染みついたカビと埃の匂いが、鼻をついた。
目的の部屋は、二階の突き当り。
「神崎」と掠れた文字で書かれた表札が、申し訳程度にぶら下がっていた。
ドアノブに手をかける。
鍵はかかっていた。
だが、そんなものは、彼にとって意味をなさない。
魔力をわずかに流し込むと、カチリ、と無機質な音を立てて、シリンダー錠の内部構造が破壊された。
蒼真は、まるで自分の家に入るかのように、静かにドアを開けた。
部屋の中に満ちていたのは、狂気そのものを凝縮したような、濃密な悪臭だった。
飲みかけで腐敗した栄養ドリンク、コンビニ弁当の容器、そして、何日も風呂に入っていない男の体臭。
だが、そんな物理的な不快さよりも、蒼真の神経を逆撫でしたのは、この部屋の異様な光景だった。
壁一面。
そこは、無数の写真、地図、新聞の切り抜きが、まるで巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
中心には、蒼真と美月の、盗撮された写真。
そこから引かれた無数の赤いマジックの線が、神谷組の壊滅現場、半グレのアジト、彼が過去に通っていた中学校へと、執拗に伸びている。
ここは、奴の編集室であり、そして、二人の平穏を解体するための、実験室だった。
その狂気の祭壇の前で、部屋の主が、ゆっくりと振り返った。
神崎零士。
ヨレヨレのトレンチコートを、部屋の中でも脱ごうとしない。
脂ぎった髪の下で、その瞳だけが、蒼真と対峙した時とは違う、爛々とした光を放っていた。
恐怖と、それを上回る歓喜。
究極の獲物が、自ら罠にかかりに来たことへの、倒錯した悦びの色だった。
「わざわざ来てくれるなんて、嬉しいじゃないか。橘蒼真くん」
その薄い唇が、歪んだ笑みを形作る。
蒼真は、無言でドアを閉め、ゆっくりと奴との距離を詰めた。
床に散らばった資料の山が、彼の足元で、カサリと乾いた音を立てる。
「美月に、何をした?」
蒼真の声は、彼自身が驚くほど、冷たく、そして平坦だった。
感情の波は、もはや怒りの沸点を超え、絶対零度の静寂に達していた。
「何って……ただ、取材をさせてもらっただけさ」
神崎は、机の上のマグカップを手に取り、ぬるくなったコーヒーを一口すする。
その、あくまで余裕を装う仕草が、蒼真の逆鱗に、最後の一滴を垂らした。
「彼女は、君という『社会の脅威』に最も近い人間だ。彼女の証言は、国民の『知る権利』に応えるために、必要不可欠なものなんだよ。ジャーナリストとして、当然の……」
――ゴッ!
神崎の言葉は、肉が潰れる鈍い音によって、途中でかき消された。
蒼真の拳が、寸分の狂いもなく、奴のみぞおちにめり込んでいた。
常人には目で追うことすら不可能な速度。
蒼真は、ただ、そこに在ったはずの空間に、拳を置いただけだった。
「が……はっ……!?」
神崎の身体が、「く」の字に折れ曲がる。
手にしたマグカップが床に落ち、けたたましい音を立てて砕け散った。
肺から全ての空気が強制的に絞り出され、胃の内容物が、血の混じった泡となって、その口から溢れ出す。
「……権利、だと?」
蒼真は、奴の脂ぎった髪を鷲掴みにし、その顔を無理やり引き起こした。
恐怖と苦痛に見開かれた瞳が、至近距離で彼を映す。
「美月を、俺たちの世界を、土足で踏み荒らす権利。美月の笑顔を奪い、彼女を悪夢にうなされるまで追い詰める権利。そんなものが、お前にあるとでも思っているのか?」
言葉を発するたびに、蒼真の魔力が呼応する。
部屋の電灯が激しく明滅し、壁の相関図が、まるで意思を持ったかのように、ざわざわと揺れた。
この瞬間、蒼真の瞳が一瞬、血のような赤色に染まったのを、神崎は確かに見た。
それは、人間が浮かべていい色ではなかった。
慈悲も、情けも、理解も、一切を拒絶する、絶対的な破壊者の光。
「ひ……」
神崎の喉から、意味をなさない、獣のような悲鳴が漏れた。
「答えてみろ」
蒼真は、奴の右腕を掴んだ。
「ぐ……ぎ、あああああああああああああっ!」
骨が砕ける、湿った、嫌な音が、部屋に響き渡る。
ありえない方向に曲がった腕。
皮膚を突き破り、剥き出しになった骨の先端。
神崎の絶叫が、アパートの古い壁を震わせた。
「この腕で、記事を書くのか? 美月の心を、切り刻む記事を」
次に、左腕を掴む。
「あああああっ! や、やめ……」
ゴキリ、と、さらに鈍い音が響く。
これで、神崎はもう、二度とペンを握ることも、キーボードを叩くこともできない。
「お前のその足は、美月を追い詰めるためにあるのか?」
蒼真は、床に蹲り、芋虫のようにのたうつ神崎の、右足首を、靴の上から踏み砕いた。
肉と骨が、ぐちゃりと潰れる、不快な感触が足の裏に伝わる。
「い……ぎ……が……」
もはや絶叫すら上げられず、神崎は、床に転がって泡を吹いていた。
失禁によって、ズボンの股間部分が、じわりと黒く染まっていく。
蒼真は、その無残な姿を、何の感情もなく見下ろした。
憎しみは、もうない。
怒りも、鎮まっていた。
ただ、そこには、害虫を駆除した後のような、空虚な静寂があるだけだった。
「二度と、俺たちの前に現れるな」
最後の警告を吐き捨て、蒼真は、その狂気の城を後にした。
部屋には、壊れた人間と、砕け散ったジャーナリストの矜持だけが、生ゴミの悪臭の中に、取り残されていた。
◇
蒼真の報復は、しかし、全く予想外の結果を招くことになる。
翌朝、神崎零士が、自身の部屋で瀕死の状態で発見されたというニュースは、瞬く間にメディア業界を駆け巡った。
両手両足の複雑骨折、内臓の深刻な損傷。
それは、明確な殺意と、制裁の意思を感じさせる犯行だった。
だが、神崎は死ななかった。
病院のベッドの上で、かろうじて意識を取り戻した彼は、駆け付けた同業者たちに、震える声で、しかし、狂気に満ちた恍惚の表情で、こう告げたという。
『……撮れ。これが……本物だ。橘蒼真は……神だ。いや、悪魔だ。俺は、その真実を、白日の下に……』
神崎への残忍な報復は、彼の口を封じるどころか、逆に、彼の言葉に、戦慄すべき信憑性を与えてしまった。
一個人が、ジャーナリストをここまで徹底的に破壊する。
その異常性が、彼が追いかけていた「超常的な力を持つ少年」という、荒唐無稽な物語の、何よりの物証となったのだ。
一人のハイエナを潰しても、その血の匂いを嗅ぎつけて、新たなハイエナの群れが、押し寄せてくる。
彼の、美月を守るためだけの戦いは、皮肉にも、メディアという、より巨大で、より厄介な敵を、呼び覚ます結果となった。
蒼真と美月の平穏な日常は、この日を境に、音を立てて崩れ始めていく。




