第39章
橘蒼真という存在は、彼が通う中学校において、一種の都市伝説と化していた。
かつて、教室の隅で埃を被っていた置物のように、誰の記憶にも残らなかった少年。
その彼が、ある日を境に、絶対的な恐怖の象徴へと変貌した。
クラスの王であった工藤竜也を、まるで赤子の手をひねるように叩きのめし、この地域の不良の頂点に君臨していた黒川雅人を病院送りにした。
その噂は、尾ひれがつき、瞬く間に校内を駆け巡った。
『橘は、実は海外の暗殺組織で訓練を受けていたらしい』
『いや、裏社会の大物の隠し子で、最強のボディーガードがついているんだ』
『触れただけで、人が吹き飛んだのを見た。あれは、超能力だよ』
生徒たちは、恐怖と好奇の入り混じった目で、廊下を歩く蒼真の姿を遠巻きに眺める。
しかし、誰一人として、彼の半径二メートル以内に近づこうとはしなかった。
蒼真は、そんな周囲の変化を、まるで他人事のように感じていた。
彼の心は、もはや学校という小さな箱庭にはない。
彼の世界の全ては、白石美月という一点に収束し、それ以外の全ては、色を失った背景に過ぎなかった。
◇
その日の放課後。
蒼真が帰宅中の時だった。
「――君が、橘蒼真くんだね?」
背後から、粘りつくような、それでいて妙に馴れ馴れしい声がかけられた。
蒼真がゆっくりと振り返ると、そこには、見慣れない一人の男が立っていた。
神崎零士だった。
ヨレヨレのトレンチコートは、季節外れの暑さの中で、汗と脂の匂いを微かに放っている。
何日も洗っていないかのように脂ぎった髪は、無造作に掻き上げられ、その下から覗く顔は、不健康に痩せこけていた。
深い隈が刻まれた目元は、彼が常人とは違う時間の流れの中で生きていることを示唆している。
だが、そのだらしない外見の中で、瞳だけが、異常なまでの光を放っていた。
それは、真実という名の獲物に対する、病的なまでの執着と、飢餓感。
一度噛みついたら、相手が骨になるまで離さない、ハイエナの瞳だった。
「神谷組の事件について、少し、話を聞かせてくれないかな?」
神崎は、薄い唇に、人の悪い笑みを浮かべた。
蒼真は、その男を一瞥すると、何の興味も示さずに、再び前方へと向き直った。
関わる価値もない。
彼の直感が、そう告げていた。
「無視、かい。つれないな」
神崎は、しかし、食い下がった。
彼は、蒼真の数歩後ろを、まるで影のように付いてくる。
「半グレ集団の全滅、田所組の壊滅、そして神谷組の崩壊。君は、その中心にいる。違うかい?」
その言葉に、蒼真の足が、ぴたりと止まった。
彼の表情は変わらない。
だが、その身から放たれる空気が、一瞬で、絶対零度の冷たさを帯びた。
神崎は、その変化を肌で感じ、ごくり、と喉を鳴らした。
なんだ、この威圧感は。
今まで、数々の裏社会の大物や、凶悪犯と対峙してきた。
だが、目の前の少年から放たれるプレッシャーは、それらとは全く異質だった。
まるで、人間ではない、何か別の、上位の生命体と対峙しているかのような、原始的な恐怖。
神崎の背筋を、悪寒が駆け抜けた。
彼の本能が、これ以上踏み込んでは危険だと、けたたましく警鐘を鳴らしている。
だが、彼の好奇心は、その恐怖を、いとも容易く凌駕した。
「……面白い。実に、面白い」
神崎は、震えを押し殺し、さらに言葉を続けた。
「君は、一体、何者なんだ」
「――失せろ」
蒼真は、振り返ることなく、地を這うような低い声で、それだけを告げた。
それは、警告だった。
これ以上、俺の世界に踏み込むな、という、最後の。
神崎は、一瞬、言葉に詰まった。
だが、すぐに、いつもの不敵な笑みを取り戻す。
「……いいだろう。今日のところは、退散するとしよう。だが、また会いに来るよ。君という、最高の『ネタ』を、俺が逃がすはずがないからね」
神崎はそう言い残すと、まるで何事もなかったかのように、その場を立ち去っていった。
蒼真は、その男が完全に気配を消すまで、立ち尽くしていた。
胸の奥が、ざわついている。
あの男の瞳。それは、ただのゴシップ記者のものではない。
真実のためなら、手段を選ばない、狂信者の瞳だ。
そして、その狂気の矛先が、今、自分に、向けられている。
◇
その日、美月は一人で自宅のアパートへと向かっていた。
ここ数日、感じていた、あの粘つくような視線。
彼女の心には、一抹の不安が影を落としていた。
人通りの少ない路地に差し掛かった、その時だった。
「――白石美月さん、だね?」
背後から、男の声がした。
美月の心臓が、大きく跳ねる。
振り返ると、そこには、神崎零士が、薄笑いを浮かべて立っていた。
「……どちら様、でしょうか」
美月は、恐怖を押し殺し、できるだけ冷静に問い返した。
「俺は、神崎。フリーのジャーナリストだ。橘蒼真くんについて、君に聞きたいことがある」
「お答え、できません」
美月は、きっぱりと断り、その場を立ち去ろうとした。
だが、神崎は、巧みに彼女の進路を塞ぐように、回り込む。
「まあ、そう言わずに。橘蒼真くんのことだよ。君は、彼の恋人、なんだろ? 彼が、どんな人間なのか、少し教えてくれるだけでいい」
その、馴れ馴れしく、品定めするような視線に、美月は強い嫌悪感を覚えた。
「お答えすることは、何もありません。通してください」
「つれないな。だが、君も、薄々気づいてるんじゃないのか?」
神崎の瞳が、獲物を追い詰める猟犬のように、鋭く光った。
「……彼は、君にとって、ヒーローなんだろ? だが、そのヒーローの正体は、本当に、君が信じているような、ただの『優しい人』なのかな?」
その時だった。
「――それ以上、美月に近づくな」
地獄の底から響くような、低い声が、路地に響き渡った。
いつの間にか、蒼真が、神崎の背後に、音もなく立っていた。
その瞳は、もはや何の感情も映さず、ただ、目の前の害虫を駆除するためだけの、絶対零度の光を宿していた。
「……やあ、橘くん」
神崎は、一瞬、その殺気に気圧されながらも、すぐに、いつもの不敵な笑みを取り戻した。
「今日のところは、退散するとしよう。だが、またすぐに会いに来る。君の『秘密』は、必ず、俺が白日の下に晒してやるからね」
神崎は、蒼真の横を通り過ぎる瞬間、挑発するように、彼の耳元で囁いた。
「――楽しみにしているよ、『ヒーロー』さん」
神崎の気配が完全に消え去った後、路地には、蒼真と、恐怖に震える美月だけが残された。
蒼真は、何も言わずに、美月の冷たくなった手を、そっと握った。
その、不器用だが、確かな温もりに、美月の目から、堪えていた涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。




