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第38章

 猟犬は、一度獲物の匂いを嗅ぎつければ、決してそれを離さない。

 神崎零士という男にとって、橘蒼真という少年は、ジャーナリスト人生の全てを懸けるに値する、究極の獲物だった。


 神谷組壊滅から一週間。

 神崎は、そのほとんどの時間を、一人の少女の追跡に費やしていた。

 白石美月。

 橘蒼真という謎の中心に最も近い場所にいる、唯一の存在。

 神崎の猟犬の嗅覚が、そう告げていた。


 ◇


 神崎は橘蒼真という少年を取り巻く、過去の事件の洗い直しを進めていた。

 彼の次のターゲットは、かつて蒼真にいじめを行っていた、工藤竜也の取り巻きたちだった。

 神崎は、学校帰りの工藤の取り巻きの生徒を、ゲームセンターの薄暗い路地裏で待ち伏せた。


「よう」


 神崎が声をかけると、二人は、まるで蛇に睨まれた蛙のように、その場で凍りついた。

 彼らは、あの日の教室での惨劇以来、すっかり牙を抜かれ、クラスの中でも息を殺して過ごす、ただの臆病な少年に成り下がっていた。


「……なんですか」

「橘蒼真のことで、ちょっと話を聞きたいんだけど」


 その名前が出た瞬間、二人の顔から、サッと血の気が引いた。

 

 彼は、懐から数枚の写真を取り出し、二人の眼前に突きつける。

 それは、病院のベッドで、未だに意識が戻らない工藤竜也と、全身に包帯を巻かれた黒川雅人の、無残な姿だった。


「ただの喧嘩で、こうはならねえよなァ?」


 神崎の瞳が、鋭く光る。


「本当のことを話してくれないかな」


 堰を切ったように、二人は、あの日の恐怖を語り始めた。


「あいつは……化け物だ……」

「そうだよ……俺たちが殴りかかったら、いきなり、風が……! 竜巻みてえな風が吹いて、俺たちは……!」

「触れてもいねえのに、吹き飛ばされたんだ! あれは、人間じゃねえ!」


 神崎は、その、常識ではありえない証言を、ボイスレコーダーに録音しながら、冷静に相槌を打つ。


「風、ねえ。他には?」

「魔法……そう、まるで、魔法みたいだった……!」


 魔法。

 また、その言葉が出てきた。

 神崎は、礼も言わずに、震える二人をその場に残し、次の獲物の元へと向かった。


 次に彼が訪れたのは、場末の安アパートの一室。

 ドアを開けると、酒と汗の酸っぱい匂いが、彼の鼻をついた。

 

 部屋の隅の布団の上で、腕に包帯を巻いた男が、昼間から安酒を煽っている。

 蒼真に壊滅させられた、半グレ集団の、数少ない生き残りの一人だった。


「……何の用だ」


 男は、虚ろな目で神崎を見上げた。

 彼の瞳には、かつての凶暴な光はなく、ただ、深い絶望と恐怖だけが澱んでいる。


「橘蒼真に、何をされた?」


 神崎の問いに、男の身体が、びくりと震えた。


「……あいつは、人間じゃねえ」


 証言は、いじめられっ子の中学生たちと、完全に一致していた。


「俺たちは、十人がかりで、あいつを囲んだんだ。なのに……あいつは、指一本動かさずに、俺の仲間を……燃やしたんだ。炎なんて、どこにもなかった。なのに、仲間は、燃えながら吹き飛んだ……」


 男は、まるで悪夢を思い出すかのように、頭を抱えた。


「……地面が、一瞬で凍りついた……。金属バットが、手で握り潰された……。あいつは、悪魔だ……。いや、それ以上だ……」


 神崎は、その支離滅裂だが、妙なリアリティを持つ証言を、全て記録した。

 炎、氷、怪力。

 証言者も、状況も違う。だが、そこで語られる現象の「パターン」は、不気味なほどに一致していた。


 ◇


 神崎のアパート。

 ボードの中心に、橘蒼真の、無表情な写真が貼られている。

 その写真から、無数の赤い線が、他の事件へと伸びていた。


「……面白い」


 神崎は、壁一面の狂気を眺めながら、恍惚の表情で呟いた。

 全ての証言が、一つの、ありえない結論を指し示している。

 

 橘蒼真は、超常的な力を持つ。

 それは、現代科学では説明のつかない、「魔法」としか呼びようのない力だ。


「だが、証拠がねえ。物証が、何一つ……」


 その時だった。

 彼のスマートフォンが、静かに震えた。

 

 彼が、裏社会の情報屋に依頼していた、ある調査の結果が届いたのだ。

 その内容を見て、神崎の目が、大きく見開かれた。


「……白石美月……か」


 彼は、獲物を見つけた猟犬のように、獰猛な笑みを浮かべた。

 橘蒼真を動かす鍵は、この少女、白石美月。

 彼女を揺さぶれば、必ず、化け物はその尻尾を現す。


 ◇


 夕暮れ時の商店街。

 美月は下校の途についていた。

 その表情は、数週間前の事件が嘘のように明るく、年頃の少女らしい無邪気な光に満ちている。

 蒼真という絶対的な守護者の存在が、彼女の心の傷を癒し、本来の輝きを取り戻させていたのだ。

 だが、彼女はまだ気づいていない。

 その平和な日常が、粘りつくような悪意の視線に、常に晒されていることを。


 数十メートル離れた、雑踏の中。

 神崎は、まるで風景の一部であるかのように、その気配を完全に消して、美月の姿を追っていた。

 手にしたスマートフォンで、彼女の行動パターン、立ち寄る店、会話する相手、その全てを、音もなく記録していく。

 獲物を追い詰めるには、まず、その縄張りと習性を、完璧に把握する必要がある。

 それが、彼の狩りの流儀だった。


 初日、二日目と、美月は何も気づかなかった。

 だが、三日目の朝。

 通学路の角を曲がった時、ふと視界の端に、見覚えのあるトレンチコートの男が立っていることに気づいた。

 男は、ただ煙草を吸っているだけだったが、その瞳が、一瞬、自分に向けられたような気がした。

 

 気のせいだろう。

 美月はそう思い過ごした。

 

 しかし、その日の放課後。コンビニに立ち寄っている時、ガラス窓の向こうに、また、あの男の姿を見た。

 偶然だろうか?

 胸騒ぎが、彼女の心を微かに揺らす。


 五日目。

 その「偶然」は、もはや偶然ではありえない、という確信に変わっていた。

 朝のバス停。昼休みの校舎の窓から見える向かいのビル。

 そして、帰り道の商店街。

 

 男は、必ず、彼女の視界のどこかにいた。

 

 決して話しかけてはこない。近づいてもこない。

 ただ、そこにいる。

 その事実が、じわじわと、しかし確実に、美月の精神を蝕み始めていた。

 

 見られている。常に、どこかから。

 その、粘着質な視線は、かつて彼女が味わった、半グレたちに監禁された時の恐怖とは、また質の違う、陰湿な恐怖を呼び覚ましたのだった。

 

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