第37章
神谷組本家が、一夜にして地図から消えた。
そのニュースは、裏社会だけでなく、表の世界をも、震源の浅い地震のように揺るがした。
半世紀以上にわたり、この国の闇に君臨してきた巨悪の、あまりにも唐突で、あまりにも不可解な終焉。
警察は「大規模な内部抗争」と発表したが、その言葉を鵜呑みにする者は、この世界の裏側を少しでも知る者の中には、一人もいなかった。
そして、その「嘘」の匂いを、誰よりも敏感に嗅ぎつけた男がいた。
規制線が張られた神谷組屋敷跡。
その向かいの歩道に、一人の男が立っていた。
男の名は、神崎零士。
年の頃は三十代半ば。
安物のヨレヨレのトレンチコートを羽織り、寝癖のついた無造作な髪は、何日も洗っていないかのように脂ぎっている。
痩せこけた頬、隈の刻まれた目元は、彼が慢性的な睡眠不足と不摂生な生活を送っていることを物語っていた。
だが、そのだらしない外見とは裏腹に、彼の瞳だけは、獲物を狙う猟犬のように、鋭く、そして飢えた光を宿していた。
彼は、フリーのジャーナリスト。
大手出版社をスキャンダルで追われながらも、その病的なまでの執念と調査能力で、数々のスクープをモノにしてきた、ゴシップ週刊誌のトップ屋だった。
「……内部抗争、ねえ」
神崎は、手にした安煙草の煙を、あざけるように吐き出した。
彼の視線の先には、もはや「屋敷」とは呼べない、巨大な残骸が広がっている。
焼け落ちた梁、崩れ落ちた壁、そして、まるで巨大な竜巻にでも蹂躙されたかのように、根こそぎなぎ倒された庭園の木々。
だが、神崎の興味を引いたのは、その破壊の規模ではなかった。その「質」だ。
「……妙だな」
彼は、ポケットから取り出した高性能のデジタルカメラで、現場の細部を次々と撮影していく。
――壁の一部が、まるで巨大な熱線で溶かされたかのように、ガラス化している。
――庭の池が、真夏にもかかわらず、分厚い氷で覆われている。
――地面には、まるで雷にでも打たれたかのような、奇妙な焦げ跡が点在している。
「そもそも、これは人間の仕業なのか?」
神崎のジャーナリストとしての本能が、警鐘を鳴らしていた。
これは、ただのヤクザの抗争ではない。
もっと異質で、もっと根源的な、理解を超えた何かが、この場所で起こったのだと。
彼は、現場を撮影する警察官の輪の中に、旧知の顔を見つけると、何気ないふりで近づいていった。
「よう、山岸さん。ご苦労なこった」
「……神崎か。嗅ぎつけるのが早いな、ハイエナが」
山岸と呼ばれた中年刑事は、露骨に嫌な顔をしたが、神崎は意に介さない。
「内部抗争って話だけど、本当なのかい?」
「……お前には関係ない。さっさと失せろ。ここは立ち入り禁止だ」
「まあ、そう言わずに。一つだけ教えてくれよ」
神崎は、山岸の耳元で、囁くように言って、懐から出した封筒を山岸の手に握らせた。
山岸は封筒の中身から数枚の万札を確認する。
「屋敷の防犯カメラ、いくつか生きてたんだろ? そこに、一体、何が映ってたんだ?」
彼は、周囲に他の警官がいないことを確認すると、吐き捨てるように、しかし、声は震えていた。
「……信じられんものが、映ってた」
「ほう?」
「……ガキが、一人だ。たった一人の、中学生くらいのガキが、あの神谷組を……。まるで、魔法でも使ってるみたいだった……。炎が、氷が、雷が……。俺は、何を言ってるんだ……」
山岸刑事は、自らの言葉が信じられないとでも言うように、頭を振ってその場を立ち去った。
だが、神崎にとっては、それで十分だった。
魔法。中学生。
常識的に考えれば、薬物でもやっている人間の戯言だ。
だが、神崎の脳裏で、バラバラだったパズルのピースが、カチリ、と音を立ててはまっていく。
◇
その夜。
都心から離れた、古い木造アパートの一室。
そこが、神崎零士の住処であり、編集室であり、そして、彼の狂気の城だった。
六畳一間の部屋は、足の踏み場もないほど、資料の山で埋め尽くされている。
床には、飲みかけの栄養ドリンクの瓶や、コンビニ弁当の容器が散乱し、異臭を放っていた。
だが、その部屋で、唯一、異様なまでの秩序を保っている場所があった。
壁の一面。
そこは、無数の写真、地図、新聞の切り抜き、そして手書きのメモで、巨大な相関図が構築されていた。
「……ここだ」
神崎は、壁の中心に、今日撮影してきた神谷組屋敷の写真を、画鋲で突き刺した。
そして、赤いマジックで、その写真から、別の事件へと線を引いていく。
数週間前に起こった、田所組の壊滅事件。
その少し前に起こった、半グレ集団の壊滅事件。
そして、その発端となった、名もなき中学生たちの、傷害事件。
「……全て、繋がっている。犯行の手口、目撃証言、そして、その異常性。全て、同一犯の可能性が、極めて高い」
神崎の目は、獲物を見つけた猟犬のように、爛々と輝いていた。
壁の隅には、彼が過去に手掛けた記事のスクラップが、勲章のように貼られている。
『政界を揺るがした10億円汚職の真相』
『迷宮入りした少女誘拐殺人事件、真犯人の顔』
彼は、警察が匙を投げた、あるいは権力が揉み消した「未解決事件」を暴くことに、病的なまでの執着を燃やす男だった。
彼にとって、真実とは、暴かれ、白日の下に晒されるために存在する、至上の獲物なのだ。
翌日から、神崎の、執念の聞き込み調査が始まった。
彼は、事件現場の周辺で、聞き込みを続ける。
ほとんどの住民は、ヤクザ絡みの事件に恐怖し、口を閉ざした。
だが、神崎は諦めない。
何日も、何日も、同じ場所に通い続け、住民たちの警戒心が解けるのを、辛抱強く待った。
そして、ついに、最初の糸口を掴んだ。
半グレ集団が壊滅した路地裏の近くで駄菓子屋を営む老婆が、重い口を開いたのだ。
「……そういや、最近、見かけない顔の、中学生くらいの男の子が、あの孤児院に出入りしてたかねえ……」
孤児院。
その単語が、神崎の脳内で、新たな線を結んだ。
彼は、ターゲットを孤児院――「ひだまりの家」に絞り、周辺での聞き込みを、さらに執拗に続けた。
そして、ついに、その名前を手に入れた。
近所の主婦が、恐る恐る口にした、その名前。
「……橘さんちの、蒼真くん……だったかしら。あの子、昔から、ちょっと暗い感じの子で……。でも、最近、急に雰囲気が変わったって、もっぱらの噂で……」
橘蒼真。
神崎は、その名前を、手帳に、まるで聖なる呪文でも刻むかのように、何度も書き付けた。
神崎の口から、乾いた笑いが漏れた。
ありえない。中学生一人が、この国の裏社会を根底から揺るがすような大事件を、立て続けに引き起こすなど。
だが、複数の証言が、点と点となって、その少年を指し示している。
状況証拠が、常識ではありえない「真実」の輪郭を、おぼろげに描き出し始めていた。
「……面白い」
神崎の瞳が、狂気と歓喜の入り混じった、危険な光を放った。
「面白いネタが、向こうから転がり込んできたじゃねえか……!」
これは、ただのスクープじゃない。
この国の、いや、この世界の常識そのものを覆しかねない、究極の「真実」。
神崎零士は、その、あまりにも甘美で、あまりにも危険な獲物の匂いに、身も心も震わせていた。
彼の、ジャーナリストとしての、そして一人の人間としての全てを懸けた、最後の狩りが、今、静かに始まろうとしていた。




