第36章
蒼真はいつものように「ひだまりの家」を訪れていた。
孤児院は穏やかで温かい日常を取り戻している。
庭では子供たちの無邪気な笑い声が響き、リビングからはシチューのいい匂いが漂ってくる。
その光景を眺めながら、蒼真は心の奥底で、これが永遠に続けばいい、と切に願っていた。
復讐の炎がどれほど彼の心を焼こうとも、この場所だけが、彼に人間としての温もりを思い出させてくれる、唯一無二の聖域だったからだ。
縁側で子供たちと折り紙をしていた二人の元へ、院長の高田が、少し硬い表情でやってきたのは、そんな穏やかな時間が流れていた時だった。
「蒼真さん、美月ちゃん。少しだけいいかしら」
その声には、普段の温厚さとは違う、何かを決断した者だけが持つ、静かだが揺るぎない響きがあった。
蒼真と美月は顔を見合わせ、黙って頷くと、院長に促されるまま、彼女の執務室へと向かった。
院長室は、建物の二階の奥まった場所にあった。
古い木製の机と、壁一面を埋め尽くす本棚。
そして、窓際には、子供たちが描いたであろう、色とりどりの絵が大切に飾られている。
部屋全体が、院長の子供たちへの深い愛情で満たされているようだった。
院長は、二人に使い古されたソファを勧めると、自らはその向かいに、背筋を伸ばして腰を下ろした。
「……まず、改めてお礼を言わせてください」
重い沈黙を破ったのは、院長だった。
「蒼真さん。あなたが来てくださらなければ、この家も、子供たちも、どうなっていたか分かりません。本当に、ありがとうございました」
深く、深く、頭を下げる院長。
その姿に、蒼真はかける言葉を見つけられなかった。
「顔を上げてください。俺は、ただ……」
「分かっています」
院長は、ゆっくりと顔を上げると、慈愛に満ちた、しかしどこか悲しげな瞳で、蒼真を真っ直ぐに見つめた。
「蒼真さんが、心の底から優しい方だということは、私にもよく分かっています。美月ちゃんを助けてくださった。そして、うちの子たちにも、本当のお兄さんのように、優しく接してくださった。子供たちの、あなたを見る目が、それを何よりも雄弁に物語っています」
その温かい言葉に、蒼真の胸が、チクリと痛んだ。
優しい、と彼女は言う。
だが、その優しさを守るために、自分はどれだけの血を流してきたのか。
「でも……」
院長の表情が、ふっと曇った。
「だからこそ、お話しなければならないことがあります。このままでは、いけないのです」
「院長先生……?」
美月が、不安そうに呟く。
院長は、窓の外に視線を移した。
その先では、心愛たちが、何も知らずに、無邪気に鬼ごっこをして遊んでいる。
「私には、この子たちを守る責任があります。あの子たちの笑顔を、未来を、どんな犠牲を払ってでも守り抜かなければならない」
その声は、母親としての、絶対的な覚悟に満ちていた。
彼女は、再び蒼真に視線を戻す。
「先日、ヤクザの方たちがここを襲撃しました。そして昨日、その大きな組が、一夜にして壊滅したと聞きました。警察も動いているそうですが、犯人は分からず、まるで神隠しにでもあったかのようだ、と……」
蒼真は、何も答えなかった。
院長は、彼を責めているのではない。
ただ、事実を、静かに確認しているだけだった。
「蒼真さん。あなたなら、分かってくださいますよね? 私たちが、あの子たちを、これ以上危険な目に遭わせるわけにはいかない、ということを」
その言葉は、蒼真の心臓を、冷たい手で鷲掴みにするかのようだった。
分かっている。痛いほどに。
自分がここにいる限り、この場所は聖域ではいられない。
自分の力が、自分の存在そのものが、新たな敵を呼び寄せ、この温かい日常を戦場に変えてしまう。
守りたいと願えば願うほど、その守るべき対象を、危険の渦の中心に引きずり込んでしまう。
それが、この圧倒的な力の、あまりにも残酷な代償だった。
蒼真は、自分の膝の上で、強く、強く拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、血が滲む。
「……はい。俺がいると……この場所は、危険になる」
その、血を吐くような告白に、院長は、悲しそうに目を伏せた。
「……私の実家が、少し遠い地方にあるのです。そこも、同じような施設を運営しておりまして……。先日、連絡を取り、あの子たち全員を、そちらで受け入れてもらうことになりました」
それは、彼女が下した、苦渋の決断だった。
この、思い出の詰まった場所を捨ててでも、子供たちの安全を最優先するという、究極の選択。
その言葉を聞いた瞬間、美月が、はっと息を呑んだ。
「そんな……! 院長先生……!」
「ごめんなさい、美月ちゃん。あなたにも、辛い思いをさせてしまうわね」
美月は、蒼真の手を、両手で、ぎゅっと握りしめた。
そして、迷いのない、強い瞳で、院長に向き直る。
「……私は、ここに残ります。蒼真くんと、一緒にいます」
その、あまりにも真っ直ぐな宣言に、今度は蒼真が目を見開いた。
院長は、驚かなかった。
まるで、そう言うことが分かっていたかのように、優しく、そして少しだけ寂しそうに、微笑んだ。
「……そう、ですね。あなたたちには、あなたたちの道がある。分かりました。美月ちゃんの想いを、尊重します」
その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音と共に、院長室のドアが、そっと開かれた。
「院長せんせー、おやつまだー?」
ひょっこりと顔を覗かせたのは、心愛だった。
彼女は、部屋の中に蒼真がいるのを見つけると、ぱあっと顔を輝かせた。
「あ! お兄ちゃん!」
心愛は、何の屈託もなく部屋に入ってくると、まっすぐに蒼真の元へ駆け寄り、その膝に、ぽすんと頭を乗せた。
蒼真は、込み上げてくるどうしようもない愛しさと切なさを押し殺し、その小さな身体を、そっと抱き上げる。
「心愛、元気だったか?」
「うん! 今日ね、みんなでお絵かきしたの! お兄ちゃんの絵も、描いたんだよ!」
そう言って、心愛は、大事そうに持っていた画用紙を広げて見せた。
そこには、クレヨンで描かれた、蒼真と、美月と、そして子供たち全員が、手をつないで笑っている絵があった。
太陽が、虹色の光を放っている。
その、あまりにも幸せな光景の絵に、蒼真の胸が、ナイフで抉られるように痛んだ。
心愛に続いて、他の子供たちも、次々と院長室に集まってきた。
みんな、蒼真を「お兄ちゃん」と慕い、その周りに、当たり前のように集まってくる。
院長は、その光景を、一瞬、愛おしそうに眺めた後、覚悟を決めたように、子供たちに向かって語りかけた。
「みんな、よく聞いてちょうだい。来週から、私たちは、新しいお家に、お引越しすることになりました」
「おひっこし?」
「新しいおうち?」
子供たちの顔に、困惑の色が浮かぶ。
「大丈夫よ。新しいお家も、とっても広くて、素敵なところ。でもね……」
院長は、そこで一度、言葉を切った。
「……お兄ちゃんと、美月お姉ちゃんは、こっちに残るの。一緒には、行けないのよ」
その言葉が、部屋の空気を、一瞬で凍りつかせた。
子供たちの顔から、笑顔が消える。
「……え?」
心愛が、信じられないというように、蒼真の顔を見上げた。
「お兄ちゃん……一緒に、来ないの……? なんで……?」
大きな瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。
その、純粋な問いかけが、蒼真の心を、容赦なく抉った。
なんて答えればいい? お前たちを守るためだ、と? それが、この幼い心に、理解できるだろうか。
「……お兄ちゃんには、お兄ちゃんの、やらなきゃいけない仕事があるんだ」
蒼真は、声を絞り出すように、そう答えるのが精一杯だった。
「お姉ちゃんも……? 寂しいよ……いやだよ……!」
別の女の子が、美月にしがみついて泣きじゃくる。
美月も、涙を必死に堪えながら、その子の頭を優しく撫でた。
「ごめんね……。ごめんね……。でも、絶対に、みんなのこと、忘れないから……」
やがて、それは、嗚咽の合唱になった。
子供たちが、次々と蒼真と美月に抱きつき、行かないで、と泣き叫ぶ。
それは、蒼真が、自らの手で、再び「家族」を失う、儀式のようだった。
◇
一週間後。引っ越しの日。
玄関の前には、一台の小さなマイクロバスが停まっていた。
荷物は、すでに全て積み込まれている。
空は、まるで彼らの別れを悲しむかのように、どんよりと曇っていた。
院長が、最後に蒼真の前に立った。
「蒼真さん。あなたは、本当に優しい人です」
その声は、母親のように、温かかった。
「でも、覚えておいてください。優しさだけでは、守れないものもあるのです。時には、非情にならなければならない時も来るでしょう。……美月ちゃんを、そして、何よりも、あなた自身を、大切になさってください」
その言葉は、まるで未来を予見しているかのように、蒼真の心に深く、重く響いた。
「……はい。院長先生も、お元気で。本当に……ありがとうございました」
蒼真は、生まれて初めて、誰かに、心の底からの敬意を込めて、深く、深く頭を下げた。
バスが、ゆっくりと動き出す。
窓からは、泣き腫らした顔の子供たちが、必死に手を振っていた。
蒼真と美月も、声にならない声で彼らの名前を呼びながら、見えなくなるまで手を振り返す。
「お兄ちゃーーーーん! 絶対に、会いに来てねーーーーーっ!」
心愛の叫び声が、遠ざかっていく。
蒼真は、唇を噛みしめ、力強く頷いた。
やがて、バスは角を曲がり、完全に見えなくなった。
後に残されたのは、がらんとした孤児院と、胸が張り裂けそうなほどの、静寂だけだった。
美月が、蒼真の冷たくなった手を、そっと握った。
その温もりが、唯一の救いだった。
守るべき世界が、また一つ、狭くなった。
いや、違う。
守るべき世界の全てが、今、隣にいるこの少女一人に、集約されたのだ。
蒼真は、美月の手を固く握り返しながら、心に誓った。
もう、何も失わない。
この手にある温もりだけは、命に代えても、守り抜く、と。




