第34章
東京の喧騒から隔絶された高級住宅街の一角に、その屋敷は、まるで闇夜に君臨する巨大な獣のように鎮座していた。
神谷組本家。
日本の裏社会を牛耳る組織の頂点に立つ男、神谷龍二が住まう城である。
高い塀は、外部からの視線を完全に遮断し、その上には鋭い忍び返しが月光を鈍く反射している。
重厚な門構えは、選ばれた者以外を決して通さぬという、絶対的な拒絶の意思を示していた。
屋敷を囲むようにして広がる広大な日本庭園は、闇に沈み、その静寂の中には、数え切れぬほどの殺気が潜んでいる。
その、鉄壁の要塞の前に、蒼真は、ただ一人、静かに立っていた。
夜の闇に溶け込むような、黒い学生服。
その手には、鞘に収められた一振りの刀。
田所から受け継いだ、魂の武器。
彼は、門を迂回し、高い塀の前に立つと、一度だけ、守るべき場所――「ひだまりの家」の方向を見やった。
美月、心愛、子供たち、そして院長。
彼らの笑顔が、脳裏に浮かぶ。
――この戦いが終われば、あの温かい場所に帰れる。
その想いが、彼の心を鋼鉄の覚悟で満たした。
蒼真は、軽く膝を曲げ、次の瞬間、その身体は鳥のように軽やかに宙を舞った。
高さ五メートルはあろうかという塀を、音もなく飛び越え、手入れの行き届いた庭園の芝生の上に、猫のように静かに着地する。
その瞬間、屋敷の至る所から、無数の気配が彼に集中した。
蒼真は、鞘からゆっくりと刀を抜き放った。
月光を浴びた刃が、妖しいほどに美しく輝く。
彼は、その刀身に、自らの魔力を静かに注ぎ込んだ。
すると、鋼の刃が、まるで呼吸を始めたかのように、淡い青白い光を帯び始めた。
庭園の木々の陰から、闇に溶け込むようにして、黒服の男たちが次々と姿を現す。
その数、およそ三十。
手に持つのは、ドスや拳銃。
彼らは、田所組のチンピラとは明らかに練度が違う、神谷組の精鋭たちだった。
「死ね」
誰かの号令と共に、男たちが一斉に蒼真に襲いかかる。
前方からは銃弾の嵐。
左右からは、煌めく刃。
常人であれば、一瞬で蜂の巣にされていただろう。
だが、蒼真は、その殺意の渦の中心で、静かに目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、異世界の戦場。
「【アース・ウォール】」
彼がそう意図した瞬間、目の前の芝生が、轟音と共に隆起した。
分厚い土の壁が、盾となって銃弾を全て受け止める。
その壁を蹴り、蒼真は宙を舞った。
「なっ!?」
男たちが、空中の蒼真を見上げて驚愕する。
その隙を、彼は見逃さない。
「【ライトニング・ウェブ】」
蒼真の手から、蜘蛛の巣状に広がった雷の網が放たれる。
それは、庭園にいた男たち全員を、一瞬にして包み込んだ。
「「「ぎゃあああああああっ!」」」
激しい電撃に身を焼かれ、男たちは悲鳴を上げながら次々と地面に崩れ落ちていく。
蒼真は、その惨状を一瞥もせず、屋敷の玄関へと向かった。
屋敷の内部は、静まり返っていた。
だが、その静寂は、死の匂いを濃密に含んでいる。
長い廊下の先、襖の向こうから、さらに強い複数の気配が感じられた。
蒼真は、廊下を歩きながら、刀を正眼に構えた。
次の瞬間、左右の襖が、同時に勢いよく開け放たれる。
「「死ねやあああああッ!!」」
左右から、二つの巨体が、蒼真に襲いかかった。
神谷の側近。この屋敷の、最強の番人たち。
右から迫るのは、身長二メートルはあろうかという、熊のような巨漢だった。
スーツの上からでも分かる、異常なまでに発達した筋肉。
その手には、人の頭ほどもある巨大な鉄槌が握られている。
左から迫るのは、対照的に、痩身で蛇のような男だった。
その動きは、目で追うのが困難なほどに速く、両手には、逆手に持った短刀が、毒蛇の牙のように煌めいている。
剛の「鬼瓦」。速の「夜叉」。
神谷組の中でも、武闘派として名を馳せる、最凶の兄弟分だった。
鉄槌が、空気を引き裂き、蒼真の頭上から振り下ろされる。
同時に、短刀が、影の中から蒼真の心臓を狙って突き出される。
完璧な、必殺の連携攻撃。
だが、蒼真は、その殺意の交差点で、静かに思考を巡らせていた。
――エリーナなら、この状況をどう切り抜ける?
――ああ、そうか。彼女なら、きっと……。
「【ミラー・イメージ】」
蒼真の身体が、陽炎のように揺らぎ、三体に分身した。
鉄槌は、残像の一つを空しく叩き割り、床に巨大なクレーターを作る。
短刀もまた、別の残像の胸を貫くが、手応えはない。
「なっ!? 分身だと!?」
鬼瓦と夜叉が、一瞬、動揺する。
その、コンマ数秒の隙。
本物の蒼真は、すでに彼らの死角に回り込んでいた。
青白く光る刀が、闇夜を切り裂く一筋の流星のように、閃いた。
最初に、夜叉の両腕が、肘から先を失った。
次に、鬼瓦の両足が、膝から下を断ち切られる。
悲鳴を上げる間もなかった。
二人の巨体は、だるまのように崩れ落ち、おびただしい量の血を廊下に撒き散らした。
蒼真は、その二人を一瞥もせず、廊下の最奥、一際大きな襖の前に立った。
この先に、元凶がいる。
彼は、刀で襖を切り裂き、中へと踏み込んだ。
そこは、百畳はあろうかという、広大な和室だった。
床の間には、見事な掛け軸と生け花。
部屋の中央には、巨大な一枚板の座卓。
そして、その上座に、一人の老人が、静かに座っていた。
神谷龍二。
年の頃は、七十をとうに超えているだろう。
皺だらけの顔、雪のように白い髪。
高級な黒紋付に身を包んだその姿は、一見すれば、ただの隠居した好々爺にしか見えない。
だが、その穏やかな表情の奥に宿る瞳は、千の死線を越え、万の裏切りを乗り越えてきた者だけが持つ、底なしの深淵を湛えていた。
彼こそが、この国の裏社会に、半世紀以上にわたって君臨してきた、生ける伝説だった。
「……見事なものだな、小僧」
神谷は、動じることなく、静かに茶をすすった。
「まさか、ワシの部屋まで、一人でたどり着くとは。その歳で、一体、どんな修羅場をくぐってきた?」
「お前には関係ない」
蒼真は、刀の切っ先を、神谷に向けた。
「ひだまりの家に手を出した。その落とし前を、つけてもらう」
神谷は、湯呑を置くと、ゆっくりと立ち上がった。
老齢とは思えぬ、しっかりとした足取り。
その身体からは、未だ衰えを知らぬ、強大な覇気が放たれている。
「ワシの若い衆、百人以上を、たった一人でほふったか。もはや、人間業ではない。お前、一体、何者だ?」
「……ただの、守護者だ」
その答えに、神谷は、初めて心底から楽しそうに、カカ、と笑った。
「守護者、か。良い響きだ。ならば、ワシを倒してみせろ。この国そのものを裏から守ってきた、このワシをな」
神谷は、何の武器も持たない。
ただ、無手で、蒼真の前に立ちはだかった。
その瞬間、彼の周囲の空気が、重力が増したかのように、重く、濃密に変化する。
蒼真は、刀を握りしめ、一気に間合いを詰めた。
神速の踏み込みから放たれる、必殺の突き。
だが、神谷は、その一撃を、まるで柳に風と受け流すように、最小限の動きでいなした。
合気道か、あるいは、それ以上の何か。
神谷の瞳が、ギラリと光る。
それは、裏社会の頂点に君臨し続けた男の、王者の覇気。
蒼真は、初めて、この世界で「脅威」と呼べる存在に遭遇していた。
だが、彼の心は、揺るがなかった。
彼の背後には、守るべき者たちがいる。
蒼真は、刀を手放し、両の手のひらを神谷に向けた。
右手には、全てを焼き尽くす灼熱の炎。
左手には、全てを凍てつかせる絶対零度の氷。
そして、彼の額に、第三の魔力――紫電が、角のように形成されていく。
「な……に……!?」
神谷の、老獪な顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。
「お前のような存在がいては、この世界の秩序が狂う……!」
神谷が、最後の抵抗として、渾身の掌底を放つ。
だが、それは、蒼真が放った、炎と氷と雷の奔流に飲み込まれ、跡形もなく消え去った。
「ぐ……あああああ」
神谷龍二の断末魔が、屋敷を震わせた。
日本の裏社会に半世紀以上君臨した巨星は、こうして、一人の少年によって、その歴史に終止符を打たれた。
蒼真は、静まり返った部屋の中央に立ち、ゆっくりと息を吐いた。
彼は、屋敷の屋根を突き破り、飛行魔法で夜空へと舞い上がる。
眼下には、彼の力によって半壊した神谷の屋敷が、まるで巨大な墓標のように横たわっていた。
そして、その向こうには、煌めく街の夜景が、無限に広がっている。
――この世界の秩序が、狂う……か。
神谷の最後の言葉が、脳裏に蘇る。
――狂わせるのは、俺じゃない。俺の大切な場所に手を出した、お前たちだ。
蒼真は、孤児院のある方角を見つめた。
彼の戦いは、まだ終わらない。
この世界の全ての脅威から、あの温かい場所を守り抜くまで。




