第33章
田所組を壊滅させてから、一週間が過ぎた。
その間に訪れた束の間の平穏は、まるで嵐の前の静けさのように、どこか張り詰めた空気を孕んでいた。
蒼真は、そのほとんどの時間を「ひだまりの家」で過ごしていた。
子供たちの無邪気な笑い声と、美月の優しい笑顔。
それらに囲まれている時だけが、彼の心を蝕む虚無感と、未だ終わらぬ復讐の衝動を忘れさせてくれる、唯一の時間だった。
その日の午後も、蒼真は孤児院の庭で、子供たちとボール遊びに興じていた。
初夏の太陽が、芝生の上に楽しげな影を落とす。
心愛が蹴ったボールが、ころころと蒼真の足元に転がってきた。
「お兄ちゃん、パス!」
栗色の髪を二つに結んだ少女が、太陽のような笑顔で手を振っている。
その姿に、蒼真は無意識のうちに、異世界の妹――ルナの面影を重ねていた。
彼は、ボールを優しく蹴り返す。
その動作には、かつての彼が持っていた、人を拒絶するような硬さはない。
「蒼真くん、上手だね」
縁側でその光景を眺めていた美月が、嬉しそうに微笑む。
彼女の笑顔を見るたびに、蒼真の胸の奥に、温かい何かが灯る。
この光景を、この温かい場所を、永遠に守り続けたい。
その想いが、彼の新たな力の源泉となりつつあった。
だが、その穏やかな時間は、唐突に終わりを告げた。
「蒼真さん、少しよろしいでしょうか」
リビングから出てきた院長の高田花子が、深刻な面持ちで蒼真を手招きしていた。
その顔には、隠しきれない不安の色が浮かんでいる。
蒼真は、子供たちに断りを入れると、院長の元へと向かった。
「院長先生、どうしました?」
建物の中に入ると、院長は、まるで誰かに聞かれるのを恐れるかのように、声を潜めて話し始めた。
「……実は、ここ数日、どうも様子がおかしいのです」
「様子が、おかしい?」
院長の目は、怯えるように窓の外に向けられていた。
「ええ。黒い服を着た、いかにも柄の悪い人たちが、この家の周りをうろついているんです。ただ通り過ぎるだけじゃない。まるで、中の様子を窺うかのように……じっと、こちらを見ていることがあって……」
その言葉に、蒼真の表情から、子供たちといる時の柔和さが消え、守護者としての鋭い光が宿った。
彼の研ぎ澄まされた感覚は、院長が気づくよりもずっと前から、その「視線」の存在を捉えていた。
ただ、それが何なのか、確信が持てずにいただけだ。
「蒼真くん……」
話を聞いていた美月も、不安そうに蒼真の服の袖を掴んだ。
「また、誰かが私たちを狙ってるのかな…… 」
蒼真は、窓に近づき、何気ないふりをして外の様子を窺った。
商店街へ続く道、向かいの住宅、公園。
一見、何も変わらない平和な日常の風景が広がっている。
だが、彼の視線は、常人が気にも留めない一点に吸い寄せられた。
孤児院の向かいに立つ、三階建ての雑居ビル。
その屋上の、給水タンクの影。
夕陽の反射で、何かが、キラリと光った。
レンズの光だ。
蒼真の瞳が、常人には見えないはずの距離と暗がりを、いとも容易く貫く。
そこにいる。
黒いスーツを着た男が一人、高性能の望遠鏡を三脚に据え、こちらの様子を、まるで標的を観察する狙撃手のように、じっと監視していた。
「……美月」
蒼真の声は、冬の空気のように冷たく、静かだった。
「子供たちを、奥の部屋へ。何があっても、ここから出すな」
「え……? 蒼真くん、どこへ……」
美月の問いに答えることなく、蒼真は窓から身を乗り出した。
そして、次の瞬間。
彼の身体は、重力の法則を完全に無視して、ふわりと宙に浮き上がった。
「きゃっ!?」
その非現実的な光景に、美月が息を呑む。
蒼真は、まるで透明な階段を駆け上がるかのように、音もなく、一直線に向かいのビルの屋上へと飛翔していく。
初級の飛行魔法。この世界では、神の御業に等しい。
屋上の男は、まだ蒼真の接近に気づいていない。
彼は、望遠鏡のレンズを覗き込み、孤児院の内部――特に、子供たちの姿を執拗に追っているようだった。
その事実が、蒼真の怒りの温度を、さらに数度引き上げた。
蒼真は、男の背後に、羽音一つ立てずに着地した。
「――何を見ている?」
氷のように冷たい声が、男の耳元で響く。
「ひっ!?」
偵察員の男は、心臓が口から飛び出すかと思うほどに驚愕し、悲鳴を上げて飛び退いた。
振り返った彼の目に映ったのは、ありえない光景だった。
つい先程まで、望遠鏡のレンズ越しに見ていたはずの少年が、なぜか、自分の背後に立っている。
男は、訓練されたプロだった。
一瞬の混乱の後、即座に懐の拳銃に手を伸ばし、同時にインカムに指をかけようとする。
だが、その全ての行動は、あまりにも遅すぎた。
「動くな」
蒼真は、男が拳銃を抜き切る前に、その手首を万力のような力で掴み上げていた。
ミシミシ、と骨が軋む音が、男の腕から響く。
「ぎ……あああああああっ!」
プロの矜持も忘れ、男は苦痛に絶叫した。
蒼真は、その腕を容赦なく捻り上げ、男を屋上のコンクリートに叩きつける。
「誰の命令だ」
蒼真は、うめき声を上げる男の背中に膝を乗せ、完全に動きを封じながら尋ねた。
その声には、一切の感情が乗っていない。
だからこそ、男は底知れない恐怖を感じた。
「い……言えねえ……! 言ったら、殺される……!」
「言わなくても、ここで死ぬだけだ」
蒼真は、掴んだ男の腕に、さらに力を込めた。
ゴキッ、と関節が外れる鈍い音が響く。
「あああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
男の絶叫が、夕暮れの空に虚しく響いた。
「次はない。誰の命令だ」
「わ、わかった! 言う! 言うから! 頼む、腕を……!」
蒼真が、ほんの少しだけ力を緩める。
男は、脂汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、途切れ途切れに白状し始めた。
「か……神谷組の……組長……神谷龍二さんの、命令だ……!」
神谷組。神谷龍二。
蒼真の知らない名前だった。
「田所組とは、どういう関係だ」
「た、田所組は……神谷組の傘下だったんだ……。田所組長がやられたってんで、神谷組長が、直々に……」
そういうことか。
「神谷組は、田所組とは、規模が違う……日本の裏社会を牛耳ってる……」
男は、恐怖に駆られて、聞いてもいないことまで喋り始めた。
「神谷組長は、容赦がねえ……。逆らう奴は、家族だろうが、赤ん坊だろうが、根絶やしにする……。あの孤児院も、もう時間の問題だ……」
その言葉に、蒼真の瞳が、再び冷たい光を宿した。
「……神谷は、どこにいる」
蒼真の、地を這うような低い声に、男はびくりと身体を震わせた。
「そ、それは……」
「教えろ」
蒼真は、男のもう片方の腕を掴んだ。
「俺の方から、挨拶に行ってやる」
その瞳は、もはや人間のそれではない。
自らの巣を脅かす外敵を、根絶やしにせんと欲する、守護者の、そして魔王の瞳だった。
夕日が完全に沈み、街に夜の闇が訪れようとしていた。
それは、これから始まる、より大きく、より熾烈な戦いの幕開けを告げる、不吉な闇だった。




