第32章
平和は、陽光の下で輝くシャボン玉のように、美しく、そしてあまりにも脆い。
その事実を、蒼真は再び、骨身に染みて理解させられることになった。
その日の夕暮れ時、蒼真は子供たちにせがまれて買ったばかりの新しい絵本を手に、いつものように「ひだまりの家」へと続く道を歩いていた。
角を曲がれば、あの温かい建物が見えてくる。
子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。
美月の優しい笑顔が、彼を迎えてくれるはずだった。
そんな、当たり前になりつつあった幸福な光景を思い浮かべていた彼の耳に、突如として、けたたましい怒号と、ガラスの割れる甲高い音が飛び込んできた。
「――ッ!?」
蒼真の足が止まる。
心臓が、氷の手に鷲掴みにされたかのように、嫌な音を立てて脈打った。
彼は絵本を落とすのも構わず、全力で角を曲がった。
そして、彼の視界に飛び込んできたのは、地獄のような光景だった。
孤児院の門前。
先日、彼が叩きのめしたはずの地上げ屋たちが、今度は明らかに質の違う男たちを大勢引き連れて、暴虐の限りを尽くしていたのだ。
安物のスーツを着崩し、腕や首筋に禍々しい刺青を覗かせる男たち。
ヤクザだ。その数は十人を超えている。
彼らは院長の制止を振り切り、子供たちが大切に育てていた花壇を軍靴で踏み荒らし、建物の窓ガラスを次々と叩き割っていた。
下劣な罵声が、平和だった午後の空気を汚していく。
高田院長が、震える身体で必死に子供たちを庇って立ちはだかっていた。
「やめてください! ここは子供たちの家です! どうか……!」
「うるせえ!」
男の一人が、院長の肩を突き飛ばす。
よろけた院長を、美月が必死に支えた。
その時だった。
「やめて!」
一番年少の子供を庇おうと前に出た心愛の小さな身体が、別の男の無慈悲な一撃によって、いとも容易く吹き飛ばされた。
軽い身体が宙を舞い、花壇を囲むレンガの角に、体を打ち付ける。
「きゃっ!」
絹を引き裂くような、短い悲鳴。
心愛の白いブラウスの袖が、じわりと赤く染まっていく。
その光景を見た瞬間、蒼真の世界から、音が消えた。
時間が、粘性を帯びた液体のように、引き伸ばされて流れていく。
腕を押さえて泣き叫ぶ心愛の顔。
血の気のない顔で駆け寄る美月と院長の姿。
そして、己の所業に気づきもせず、下品な笑いを続ける男たちの、醜く歪んだ顔。
蒼真の内側で、張り詰めていた何かが、ブツリ、と音を立てて切れた。
それは、美月の優しさによってかろうじて繋ぎ止められていた、理性の最後の糸だった。
ゴオオオオオオオオオオオオッ!
彼の身体から、もはやオーラなどという生易しいものではない、目に見えるほどの濃密な魔力が、黒い嵐となって噴き出した。
周囲の気温が急激に低下し、地面のアスファルトに薄氷が張る。
抜けるような青空だったはずが、にわかにかき曇り、まるで蒼真の怒りに共鳴するかのように、ゴロゴロと乾いた雷鳴が轟き始めた。
「な……なんだ、これ……!?」
「天気が……急に……」
ヤクザたちが、その異常現象に気づいて蒼真の方を振り返る。
そこに立っていたのは、もはやただの中学生の少年ではなかった。
瞳は憎悪の炎で血のように赤く輝き、全身からはこの世のものとは思えないほどの純粋な殺気が、陽炎のように立ち上っている。
「……殺す」
地獄の底から響くような、重く、低い声が、蒼真の唇から漏れた。
ヤクザたちは蒼真のただならぬ気配を感じて、一目散に逃げていく。
彼が、その無限の怒りに身を任せ、目の前の全ての生命を駆逐しようと、右手を振り上げた、その時。
「蒼真くん!」
柔らかな、しかし芯の通った声が、彼の名を呼んだ。
温かい手が、彼の震える拳に、そっと触れる。
美月だった。
彼女は、泣きじゃくる心愛を院長に任せ、蒼真の元へ恐怖を乗り越えて駆け寄ってきていたのだ。
「ダメ……! 蒼真くんダメだよ!」
美月の、温かい体温が宿った手が触れた瞬間、奇跡が起こった。
荒れ狂う黒い魔力の嵐が、まるで彼女の清らかな優しさに浄化されるかのように、すうっと静まっていく。
赤く染まっていた瞳から、憎悪の炎が消え、元の静かで深い黒色へと戻っていく。
「……美月……」
彼は、深く、深く息を吸い、自らの内に渦巻く破壊衝動を、守護の力へと無理やり変換していく。
そして、美月の手を、そっと握り返した。
「……行ってくる」
「え……?」
「ここで待っていてくれ。すぐに、終わらせる」
蒼真は、美月の手を離すと、ヤクザたちが去っていった方角に視線を向ける。
そして、一言も発さずに、その場を去っていった。
◇
ヤクザのアジトは、街の歓楽街にそびえる、ネオンの光さえ届かない古びたテナントビルだった。
彼は街に繰り出すとチンピラをかたっぱしから痛めつけ、このビルを探しあてた。
蒼真は、そのビルの前に立つと、躊躇なく中へと足を踏み入れる。
一階。ロビーで見張りをしていた組員たちが、侵入者に気づいてドスを抜く。
「なんだ、てめえ!」
「ガキが何の用だ!」
蒼真は、静かに手をかざした。
「【フレイム・ウォール】」
男たちの目の前に、瞬時に灼熱の炎の壁が出現する。
高さ三メートル、幅五メートルの炎のカーテンが、彼らの退路と視界を完全に遮断した。
「うわっ、熱っ!」
「なんだこりゃあ!」
熱波に怯んだ彼らの背後に、蒼真は影のように回り込む。
そして、一人一人の首筋に、寸分違わぬ的確さで手刀を叩き込み、その意識を闇に沈めた。
二階。賭博場として使われているフロアで、十数人の組員が鉄パイプや角材を手に一斉に襲ってくる。
蒼真は、床に手を触れた。
「【アイス・フロア】」
彼の足元から、絶対零度の冷気が放射状に広がる。
タバコの吸い殻や酒瓶が散乱する床が一瞬で凍りつき、鏡のような氷原へと変貌した。
「うおっ!?」
「足が、滑る!」
勢い込んで駆け出してきた組員たちは、完全に足元をすくわれ、無様にバランスを崩して次々と転倒する。
蒼真は、その上から、無数の氷の槍を降らせた。
手足の四肢に突き刺さった氷の槍が、彼らの戦闘能力と、二度と悪事ができなくなるほどの恐怖を、その身に刻み込んだ。
三階。銃を持ち出した組員たちが、階段の上から弾丸の雨を降らせてきた。
パン、パン、パン! と乾いた発砲音が、狭い階段に木霊した。
蒼真は、右手をかざす。
「【ライトニング・シールド】」
彼の前に、バチバチと激しい音を立てる、半透明の雷の盾が展開される。
鉛の弾丸は、その高圧電磁シールドに触れた瞬間、融解し、無力化されていく。
蒼真は、その盾を前面に押し立てながら、悠然と階段を駆け上がった。
そして、一人一人に的確な電撃を浴びせ、昏倒させていく。
そして、最上階。
そこは、組長の執務室だった。
豪華な調度品が並ぶ、悪趣味なほどに広い部屋。
その中央で、一人の男が、静かにただずんでいた。
田所鉄也。
この地域に根を張る、広域指定暴力団・田所組の組長。
年の頃は五十代半ば。白髪混じりの髪を短く刈り込み、その顔には歴戦の記憶が深い皺となって刻まれている。
着流しの和装の下には、鍛え上げられた鋼のような肉体が隠されているのが、その佇まいから見て取れた。
彼は、パニックに陥る部下たちとは対照的に、まるで嵐の前の静けさのように、落ち着き払っていた。
その瞳には、死線を幾度も越えてきた者だけが持つ、揺るぎない覚悟と、蒼真という規格外の存在の力を品定めするような、鋭い光が宿っていた。
「見事な手際だ、小僧」
田所は、不敵に笑った。
「噂には聞いていたが、これほどの『化け物』だったとはな」
蒼真は、静かに告げた。
「俺の家族に手を出した落とし前はつけてもらう」
「ククク……面白い」
田所が、床に立てかけられていたものを蹴り上げた。
それは、黒い鞘に収められた、一振りの見事な日本刀だった。
彼は、その刀を抜き放つと、流れるような動きで正眼に構える。
磨き上げられた刃が、部屋の照明を反射して、妖しい光を放った。
その構えには、一切の隙がない。
蒼真は、魔法で一瞬にして決着をつけることもできた。
だが、目の前の男が放つ、純粋な武人としての気迫が、それを許さなかった。
蒼真は、魔法を使うことなく、ただ静かに、田所との間合いを詰めていく。
先に動いたのは、田所だった。
踏み込みは、老練な獣のように鋭く、速い。
刀の切っ先が、まるで吸い込まれるように、蒼真の心臓を寸分違わず捉えにくる。
蒼真は、その神速の一撃を、半身になって紙一重でかわした。
そのまま田所の懐に潜り込み、無防備な胴体に掌底を叩き込む。
だが、田所は驚異的な反応速度で、刀の柄でその掌底を受け止めていた。
田所は千変万化の老練な剣術を繰り出し、蒼真は超人的な身体能力ですべてかわす。
蒼真は、田所の渾身の袈裟斬りを素手で受け止めた。
田所は驚愕し、一瞬の隙ができる。
蒼真はその隙を突き、右拳をくりだす。
それは田所のがら空きになった鳩尾に、深く、深くめり込んでいた。
「ぐ……はっ……!」
田所の手から、刀がカランと音を立てて滑り落ちる。
彼は、大量の血を吐きながら、その場にゆっくりと膝をついた。
「俺の、負けだ……」
田所は、悔しがるでもなく、どこか満足そうに笑っていた。
「小僧……お前には、守るべきものがあるようだな。その目……昔の俺に、よく似ている……」
彼は、震える手で、床に落ちた刀を指さした。
「そいつを持って行け……俺からの餞別だ……」
田所は、そう言い残すと、前のめりに倒れ、二度と動かなくなった。
蒼真はその刀を手に取った。
ずしりと重い。鉄の冷たさと、今しがたまで人の命を奪おうとしていた、生々しい血の匂いが、手のひらに伝わってくる。
その、重厚な刀を握りしめた、瞬間。
蒼真の脳裏に、閃光のような、そしてあまりにも鮮明な記憶が蘇った。
――もう少し腰を落として! 剣先がブレてるぞ!
――俺たちは仲間だ。どんなことがあっても、一緒に乗り越えていく。
アルフレッド。
異世界の、緑豊かな訓練場で、彼から剣術の基礎を教わった、あの日々の記憶。
汗の匂い。土の匂い。そして、親友の、力強く、どこまでも温かい声が、幻聴となって耳元ではっきりと響いた。
――あなたなら、きっとできるわ。その力は、人を守るためにあるのだから。
――お兄ちゃん、みんなを守って!
エリーナとルナの声も聞こえる。
蒼真の目から、一筋の熱い涙がこぼれ落ち、刀身を濡らした。
「……みんな……」
彼は、握りしめた刀に、自らの内に眠る膨大な魔力を、祈りを込めて注ぎ込んだ。
すると、無骨な鉄の塊だった刀身が、まるで主の意志に応えるかのように、脈動を始めた。
淡い青白い光が、刃紋に沿って走り、刀全体が神々しいオーラを放ち始める。
刃はより鋭く、より硬質に、そして、持ち主の「守護」の意志に応える、この世で唯一無二の、最強の魔導武器へと変貌を遂げた。
◇
孤児院に戻った時、時計の針は、深夜を指していた。
玄関の扉を開けると、リビングのソファで、美月が心愛を膝の上で寝かせながら、蒼真の帰りを、ただ一人、静かに待っていた。
心愛の腕には、綺麗な包帯が巻かれている。
「……おかえりなさい」
美月が、心底から安堵したような、優しい笑顔で彼を迎えた。
その言葉に、蒼真の胸の奥で、何かが、じんわりと温かくなった。
帰る場所がある。
待っていてくれる人がいる。
それは、彼が異世界で手に入れ、そして無慈悲に失ったはずの、かけがえのない宝物だった。
蒼真は、初めて、その言葉を、心の底から口にした。
「……ただいま」
その一言に、全ての想いが込められていた。
彼は、手にした刀を静かに壁に立てかけると、ソファの前に膝をついた。
――俺にはまた、守るべき家族ができた。
――今度こそ、絶対に、この手で守り抜く。
蒼真は、すやすやと眠る心愛の頭を、そっと撫でた。
その手つきは、どこまでも優しかった。




