第30章
あの夜から、三日が過ぎた。
蒼真は、放課後の喧騒を背に、一人、白石美月が入院している総合病院へと向かっていた。
この三日間、彼の日常に変化はなかった。
学校では相変わらず誰からも距離を置かれ、家に帰れば、もぬけの殻となった静寂が彼を迎えるだけ。
だが、その心の片隅に、あの夜出会った少女の姿が、ずっと引っかかっていた。
恐怖に怯えながらも、決して折れることのなかった、強く澄んだ瞳。
消毒液の匂いがツンと鼻をつく、真っ白な廊下を歩く。
蒼真は「白石美月」と書かれた病室のプレートの前で一度足を止め、短く息を吸ってから、控えめにドアをノックした。
「……はい」
中から、鈴が鳴るような、しかし少しだけか細い声が聞こえる。
ドアを引くと、西日の差し込む明るい病室が目に飛び込んできた。
白いシーツ、白い壁、白いカーテン。
無機質な空間の中で、窓際のベッドに座る少女の存在だけが、鮮やかな色彩を放っているように見えた。
「蒼真……くん」
美月が、驚いたように目を見開いて蒼真を見つめた。
彼女は、病院が用意した淡い水色のパジャマに着替えていた。
身体的な外傷はほとんどなかったらしく、治療の跡は見られない。
しかし、その華奢な肩は、時折、思い出したように小さく震えていた。
心的外傷は、まだ彼女の内に深く根を張っているのだろう。
それでも、彼女は蒼真の姿を認めると、ふわり、と花が綻ぶように微笑んだ。
「来てくれたんだね」
その笑顔を見た瞬間、蒼真の胸の奥で、凍てついていた何かが、じんわりと溶けていくような感覚があった。
それは、復讐を遂げた時の乾いた満足感とは全く違う、温かくて、少しだけくすぐったいような感情だった。
「……具合は、どうだ」
蒼真は、ぎこちなく尋ねながら、ベッドのそばに置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。
「うん。身体はもう大丈夫。ただ……時々、あの時のことを思い出すと、少しだけ」
美月はそう言うと、自分の肩を抱くようにして、小さく震えた。
その姿に、蒼真の胸がチクリと痛む。
彼の内で渦巻く魔力が、彼女の恐怖に呼応するように、わずかに揺らいだ。
「……そうか」
かける言葉が見つからない。
人を慰める方法など、彼は知らない。
異世界では、いつも仲間たちがその役目を担ってくれていた。
気まずい沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは、美月の方だった。
「蒼真くんは、いつも一人なの?」
その問いは、何の悪意もない、純粋な疑問だった。
だからこそ、蒼真の心に深く突き刺さる。
「……ああ」
「ごめんなさい。変なこと聞いちゃった」
「いや……いい」
蒼真は、首を横に振った。
「君の家族は? 心配しているんじゃないか」
その言葉に、今度は美月の表情が曇った。
先程までの儚い笑顔が消え、窓の外を眺めるその横顔に、深い哀しみの影が落ちる。
「……両親は、三年前に。事故で……私、今は施設で暮らしてるの」
美月は、無理に笑顔を作ろうとして、しかし失敗し、悲しそうに俯いた。
その姿に、蒼真は自分自身の姿を重ねていた。
「……俺も、ずっと一人だった」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。
「母親は俺が小さい頃に死んで、父親は……いたけど、いないのと同じだった。いや、いない方がマシだったな」
自嘲するような笑みが、蒼真の口元に浮かぶ。
美月が、驚いたように顔を上げた。
二人の視線が、静かな病室で交差する。
互いの瞳の奥に、同じ色の孤独を見出したかのように。
言葉はなかった。
だが、その沈黙の中で、二人の魂は確かに共鳴し、一つの絆が静かに結ばれようとしていた。
◇
退院の日、空は抜けるように青かった。
蒼真は、美月の荷物を持ち、彼女と共に孤児院へと向かっていた。
「本当に、ありがとう。あなたが来てくれなかったら、私……」
「気にするな。俺が、勝手にしたことだ」
ぶっきらぼうに答えながらも、蒼真の足取りは、彼自身が気づかないうちに、少しだけ軽やかになっていた。
やがて、二人は閑静な住宅街の一角に佇む、一軒の建物の前にたどり着いた。
そこは、蒼真が育った荒んだ家とは全く違う、温かい空気に満ちた場所だった。
少し古びた二階建ての洋風建築。
壁には蔦が優しく絡まり、手入れの行き届いた小さな花壇には、色とりどりのパンジーが風に揺れている。
「ひだまりの家」と手書きされた、温かみのある木の看板が、二人を迎えていた。
玄関のドアを開けると、中から子供たちの賑やかな声と、シチューのいい匂いがふわりと漂ってきた。
「美月お姉ちゃん、お帰りなさい!」
リビングから、数人の子供たちが駆け寄ってくる。
その奥から、エプロンをかけた、人の良さそうな女性が顔を覗かせた。
「美月ちゃん! よかった、本当に……!」
その女性は、この「ひだまりの家」の院長、高田花子だった。
年の頃は五十代後半。白髪の混じった髪を後ろで一つに束ね、その顔には、子供たちを慈しむ深い愛情が、笑い皺となって刻まれている。
彼女は、まさに「母性」という言葉を体現したような、温かく、大きな存在だった。
「院長先生、ご心配をおかけしました」
「いいのよ、無事でさえいてくれれば……。それで、こちらの方は?」
花子の優しい視線が、蒼真に向けられる。
蒼真は、どう挨拶すればいいか分からず、少しだけ身構えた。
大人からの、特に善意に満ちた視線には、どうにも慣れていない。
「この人は、私を助けてくれた、橘蒼真くんです」
美月の紹介を受けて、花子は深々と蒼真に頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。この子がどんなに恐ろしい目に遭ったか……。あなたがいなければ、今頃どうなっていたことか。感謝してもしきれません」
その、何の裏もない、純粋な感謝の言葉に、蒼真は戸惑い、居心地の悪さを感じてしまう。
そのとき時だった。
「お兄ちゃん!」
蒼真のズボンの裾を、小さな手が、きゅっと掴んだ。
見下ろすと、そこに、天使のような笑顔を浮かべた一人の少女が立っていた。
年の頃は十歳くらいだろうか。
肩まで伸びた栗色の髪を二つに結び、大きな瞳をキラキラと輝かせている。
その屈託のない笑顔は、見る者の心を一瞬で解かすような、不思議な魅力を持っていた。
この孤児院で暮らす、一番人懐っこい少女、桜井心愛だった。
「お兄ちゃんが、美月お姉ちゃんを助けてくれたヒーローなの?」
その無邪気な問いかけと、太陽のような笑顔。
その姿が、蒼真の脳裏に、鮮烈なデジャヴを呼び起こした。
――お兄ちゃん、私がいつでも守ってあげるからね!
異世界で、いつも彼の背中を押してくれた、赤髪の獣人の少女。
ルナ。
心愛の笑顔が、ルナの笑顔と、寸分違わず重なった。
蒼真の心臓が、ドクン、と大きく脈打った。
彼の内で、常に不安定に揺れ動いていた魔力が、その瞬間、ぴたりと静止した。
まるで、荒れ狂う嵐が過ぎ去り、鏡のような凪が訪れたかのように。
彼から放たれていた、人を寄せ付けない冷たいオーラが霧散し、代わりに、春の陽だまりのような、穏やかで温かい気が周囲に満ちていく。
その変化に、子供たちは無意識のうちに安心感を覚えたのだろう。
心愛だけでなく、他の子供たちも、次々と蒼真の周りに集まってきた。
「お兄ちゃん、強いの?」
「ねえねえ、お名前は?」
子供たちの純粋な好奇心に囲まれ、蒼真はどうしていいか分からず、立ち尽くしていた。
その様子を見て、美月がくすりと笑う。
「みんな、蒼真くんが困ってるでしょ」
美月の声も、心なしかいつもより明るく、リラックスしているように聞こえた。
この孤児院の温かい空気と、蒼真から発せられる穏やかな気が、彼女の心の傷をも、少しだけ癒しているのかもしれない。
その日の午後、蒼真は、いつの間にか子供たちの輪の中心にいた。
絵本を読んでやり、拙いキャッチボールの相手をし、少女たちのままごとに付き合わされる。
最初は戸惑っていた彼も、子供たちの無垢な笑顔に触れるうち、忘れていたはずの感情が、心の奥底から蘇ってくるのを感じていた。
楽しい。温かい。そして、愛おしい。
夕暮れ時、帰ろうとする蒼真を、美月が玄関まで見送りに来た。
「……また、来てもいいかな」
蒼真は、自分でも驚くほど素直な言葉を口にしていた。
美月は、一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに、今日一番の美しい笑顔を見せた。
「……うん。ぜひ、来てほしいな」
その言葉に、リビングから顔を出した子供たちが、わっと歓声を上げる。
「やったー!」
「お兄ちゃん、また来てくれるの!?」
「今度はサッカーしようよ!」
子供たちの歓声と、美月の優しい笑顔に包まれて、蒼真の胸に、確かな希望の光が灯った。
それは、異世界で仲間たちと育んだ絆とは、また少し違う、現実世界に根差した、ささやかだが、確かな希望。
――また、家族が、できるかもしれない。
今は、この温かい光を、もう少しだけ信じてみたい。
蒼真は、そう強く思った。




