第29章
静寂が、死のようにアジトを支配していた。
先程までの怒号と悲鳴、破壊の轟音が嘘のように、今は何も聞こえない。
ただ、焦げ付いた肉の匂いと、オゾンが混じったような雷の残滓が、濃密な死の気配となって空気に溶け込んでいるだけだった。
床には、人の形を失った肉塊が転がり、壁や天井には無数の亀裂と血痕が生々しく刻まれている。
その惨状の中心に、蒼真は静かに佇んでいた。
こんな一方的な蹂躙をやったところで、心は満たされない。
むしろ、異世界で仲間たちと分かち合った温かい記憶が蘇るたびに、胸の空洞はより一層、その虚しさを増していく。
この連鎖の果てに何があるのか。
答えのない問いが、彼の思考を冷たく支配しようとした、その時だった。
「……助けて……」
声を聞いた気がした。
部屋の奥から聞こえてくる、か細く、震えるような声。
それは、この地獄のような空間にはあまりに不釣り合いな、澄んだ少女の声だった。
蒼真は、声がした方へ、ゆっくりと視線を向けた。
部屋の最奥、重厚な鉄の扉。
彼は、床に転がる肉塊を無造作に踏み越え、その扉へと歩み寄った。
ドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。
ギィ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げる。
扉の先に広がっていたのは、物置として使われているらしい、狭く埃っぽい小部屋だった。
窓はなく、天井から吊るされた裸電球が一つ、頼りなく空間を照らしている。
そして、その薄明りの中。
部屋の隅で、一人の少女がうずくまっていた。
息を、呑んだ。
年の頃は、蒼真と同じくらいだろうか。
手足を荒々しいロープで固く縛られている。
着ていたであろう清楚な制服は、獣に引き裂かれたかのように無残に破られ、下着と白い肌が痛々しく覗いていた。
床に流れるように広がる、長く艶やかな黒髪は乱れ、美しい顔は恐怖と絶望に汚されている。
頬には、乾いた涙の跡が幾筋も走っていた。
しかし、その瞳は、まだ死んでいなかった。
恐怖に怯えながらも、その奥に、決して消えない芯の強さを宿した、大きく澄んだ瞳。
その瞳が、扉を開けた蒼真の姿を、驚愕と警戒の色を浮かべて捉えた。
「……!」
少女の肩が、びくりと大きく跳ねる。
その怯えた小動物のような反応を見た瞬間、蒼真の心に、今まで感じたことのない、奇妙な感情が雷のように突き抜けた。
異世界で仲間たちとの温かい慈しみとも違う。
もっと、根源的で、抗いがたい衝動。
――守らなければ。
理屈も、理由も、思考さえも介さず、魂の核から直接響いてくるような、絶対的な命令。
目の前の、今にも壊れてしまいそうなほど儚く、そして気高い存在を、この世の全ての不条理から守らないと、そう思った。
蒼真は、自分でも気づかないうちに、一歩、部屋の中へ足を踏み入れていた。
その動きに、少女の身体が再び硬直する。
「大丈夫だ」
蒼真は、自分の中から自然と紡ぎ出された声に、内心で驚いていた。
それは、復讐者としての冷たい声ではなかった。
異世界の仲間たちと話していた時のような、意識して作った優しさでもない。
ただ、目の前の存在を安心させたい一心から生まれた、穏やかで、温かい響きを持っていた。
「もう、大丈夫だから」
彼はゆっくりと少女に近づき、その前に膝をついた。
少女は、恐怖で小刻みに震えている。
だが、至近距離で見た蒼真の瞳に、彼女は戸惑っていた。
この部屋に満ちる暴力と狂気とは全く異質な、深く、静かで、そしてどこか悲しい優しさを宿した瞳。
その瞳が、ただ純粋に自分を案じていることを、少女は本能的に感じ取っていた。
蒼真は手足を縛るロープに手をかけた。
異世界で得た力を使えば、一瞬で引きちぎることもできる。
だが彼は、そうしなかった。
少女を驚かせないように、一つ一つの結び目を丁寧に解いていく。
その、あまりに優しい手つきに、少女の瞳から警戒の色が少しずつ薄れていった。
全ての拘束から解放されると、蒼真は黙って自分が着ていた上着を脱ぎ、そっと少女の肩にかけた。
彼の体温が残る上着が、震える身体を温かく包み込む。
「……ありがとう……」
ようやく、少女の唇から、震えるような感謝の言葉が紡がれた。
その声を聞き、その顔を改めて見て、蒼真の脳裏に、銀髪の魔法使いの姿が重なった。
エリーナ。
その知的で気高い美しさとは違う、雨に濡れた白い花のような、儚く、清らかな美しさ。
その清楚な佇まいに、蒼真は無意識のうちに、失った仲間への思慕を重ねていた。
――そして、同時に。
これほど美しい少女が、こんな悍ましい目に遭わされていたという事実が、彼の内で新たな怒りの炎を燃え上がらせた。
それは、自分自身に向けられた理不尽への復讐心とは全く質の違う、純粋な義憤だった。
「どうして君は、ここに?」
蒼真は、できるだけ穏やかな声で尋ねた。
「……帰り道で……突然、黒い車に……押し込まれて……」
少女は、途切れ途切れに説明する。
その瞳に、再び恐怖の色が甦る。
「……気づいたら、ここに……」
その言葉を聞きながら、蒼真は自分の心の中に、確かな変化が起きているのを感じていた。
目の前のこの少女を、守りたい。
彼女が二度とこんな目に遭わない世界を、この手で作り上げたい。
復讐とは違う、明確な目的。
守護という名の、新たな衝動が、彼の心を支配し始めていた。
「立てるか?」
少女は頷こうとしたが、恐怖と衰弱で足に力が入らないようだった。
それを見た蒼真は、一瞬の躊躇もなく、その華奢な身体を横抱きに抱き上げた。
「きゃっ……!」
少女が驚きの声を上げる。
想像以上に軽い身体。まるで羽のようだった。
腕の中に伝わる、か細い体温と、怯えた心臓の鼓動。
その瞬間、蒼真は不思議な感覚に包まれた。
今まで、彼の内側で常に荒れ狂っていた膨大な魔力が、まるで凪いだ湖面のように、すうっと穏やかになっていく。
憎悪や悲しみに呼応して暴走しかけていた力が、腕の中の少女を守るという一点に収束し、静かで、しかし揺るぎない守護の力へと変質していくのを感じた。
蒼真は、少女を抱えたまま、静かに立ち上がった。
そして、一度も振り返ることなく、地獄と化したアジトから、光の差す外の世界へと歩き出す。
ビルの外に出ると、夜の冷たい空気が二人を包んだ。
蒼真は、少女をゆっくりと地面に下ろす。
「あの……お名前は……?」
腕の中から解放された少女が、蒼真の上着をぎゅっと握りしめながら、上目遣いに尋ねてきた。
「橘蒼真だ。君は?」
「……白石、美月」
橘蒼真。白石美月。
二人の名前が、夜の静寂の中で交わされる。
その瞬間、蒼真の胸の奥に、ぽっと小さな温かい灯火が宿ったような気がした。
それは、復讐の炎とは全く違う、優しくて、穏やかな光だった。
「近くの病院まで送るよ」
「……はい」
美月は、こくりと頷いた。
蒼真は、再び彼女を抱き上げようとしたが、美月はそれをそっと制した。
「歩けます。……あなたと、一緒に」
その言葉に、蒼真はわずかに目を見開いた。
美月は、まだ足元がおぼつかないながらも、自分の足でしっかりと立ち、蒼真の隣に並んだ。
二人は、並んで夜の道を歩き始めた。
病院へ向かう、短い道のり。
どちらからともなく、言葉はなかった。
しかし、その沈黙は、少しも気まずいものではなかった。
やがて、病院の明かりが見えてきた頃。
美月が、ぽつりと呟いた。
「あなたは……とても、強い人なんですね」
蒼真は、答えずに前を見つめたままだった。
「でも……」
美月は、そこで一度言葉を切り、蒼真の顔をじっと見上げた。
その瞳には、もう恐怖の色はなかった。
「悪い人じゃない……私には、わかる」
その言葉は、蒼真の心の最も深い場所に、静かに、しかし確かに届いた。
異世界から戻ってきて、初めてだった。
彼の力や、彼が為した行為の結果ではなく、彼の「本質」を見て、それを肯定してくれたのは。
アルフレッドでも、エリーナでも、ルナでもない。
この、出会ったばかりの少女が、彼の凍てついた魂に、救いの光を投げかけてくれたのだ。
蒼真の胸に、熱いものが込み上げてくる。
それは、復讐を遂げた時の乾いた快感とは全く違う、心の芯から震えるような、深い感動だった。
彼は、美月の方を見ることができなかった。
ただ、夜空を見上げ、奥歯を噛みしめる。
零れ落ちそうになる感情を、必死に堪えながら。




