第28章
夜の帳が下りた街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、ネオンの光だけがアスファルトをまだらに濡らしていた。
蒼真は、スマートフォンに表示された地図を頼りに、目的のビルの前に立っていた。
雑居ビルが密集する、街の裏通り。
ここは、光の当たらない人間たちが蠢く場所だ。
目的のビルは、その中でも一際古びていた。
外壁のタイルは所々剥がれ落ち、コンクリートの無機質な地肌を晒している。
一階にはシャッターが下りたままのスナックの看板が錆びつき、二階から上は窓に明かり一つ灯っていない。
まるで街に見捨てられた廃墟のようだった。
しかし、蒼真の研ぎ澄まされた感覚は、この死んだようなビルの中に、複数の人間の気配と、澱んだ悪意が渦巻いているのを明確に捉えていた。
蒼真はビルの入り口である、錆びた鉄製のドアに、何の躊躇もなく手をかけた。
ギィ、と耳障りな音を立ててドアが開く。
内部は、カビと埃、そして安煙草のヤニが混じり合った、息の詰まるような匂いで満たされていた。
薄暗いエントランスホールには、二人の男が見張りとして立っていた。
安物のジャージを着て、壁にもたれながらスマートフォンをいじっている。
「誰だてめえ」
一人が、蒼真の姿に気づいて気だるそうに顔を上げた。
だが、それが彼の最後の言葉となった。
蒼真は、返事の代わりに、ただ無音で距離を詰める。
見張りの男が異変に気づき、腰を上げようとした瞬間には、蒼真はすでにその懐に潜り込んでいた。
トン、と軽い音。
蒼真の手刀が、男の首筋に吸い込まれる。
男は「え?」と声を漏らす間もなく、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「おい、どうし――」
もう一人の見張りが異変に気づいて振り返る。
しかし、彼の視界に映ったのは、目の前まで迫った蒼真の冷たい瞳だけだった。
蒼真は、崩れ落ちる男の身体を足で支えながら、もう一方の手で二人目の顎を打ち上げる。
ゴツン、という鈍い音と共に、二人目の意識も闇に沈んだ。
ほんの数秒の出来事。
二人の見張りを無力化した蒼真は、彼らの身体を物のように隅に転がすと、一切の感情を見せずに奥の階段へと向かった。
二階へ続く階段を、足音を殺して上る。
フロアに近づくにつれて、複数の男たちの下品な笑い声や、音楽の重低音が聞こえてきた。
蒼真が二階のフロアに足を踏み入れた瞬間、音楽が止んだ。
ワンフロアをぶち抜いた薄汚れた空間。
壁にはスプレーで意味不明の落書きがされ、床には酒の空き瓶やゴミが散乱している。
その中央で、七、八人の男たち、その全員が侵入者である蒼真に気づき、一斉に立ち上がった。
「なんだ、このガキは……」
男たちが、ナイフや鉄パイプを手に取る。
路地裏で遭遇した連中よりも、幾分か場慣れしているようだった。
「ガキ、迷い込んだのか? ここがお前の来るとこじゃねえぞ」
「さっさと失せな」
下卑た笑い声が響く。
蒼真は、その挑発に答えることなく、ただ静かに右足を一歩、踏み出した。
そして、コンクリートの床に、軽くつま先で触れる。
「【グラウンド・ライズ】」
次の瞬間、床が、生きてるかのように脈動した。
ゴゴゴゴゴッ!
コンクリートの床が、まるで巨大な獣の背中のように、凄まじい勢いで隆起する。
男たちは、何が起こったのか理解する間もなかった。
「う、うわああああ!?」
「床が……床がぁっ!」
隆起した床は、さながら津波のように男たちを飲み込み、そのままの勢いで天井や壁に叩きつけた。
ゴシャッ! という、肉と骨が砕ける生々しい音が連続して響き渡る。
悲鳴はすぐに途切れ、隆起した床が元の高さに戻った時、そこには手足をありえない方向に曲げ、完全に沈黙した男たちの骸が転がっているだけだった。
蒼真は、その惨状を一瞥もせず、三階へと続く階段を上り始めた。
彼の心は、静かだった。
ただ、目的の場所へ向かう機械のように、淡々と障害を排除していく。
三階のフロアの前に立つ。
ここまでの騒ぎで、さすがに中の人間も気づいているはずだ。
ドアの向こうからは、複数の殺気が漏れ出ている。
その数は、およそ二十といったところか。
蒼真は、ドアノブに手をかけることなく、そのまま扉を蹴り破った。
バァン! という轟音と共に、鉄製のドアが蝶番から吹き飛ぶ。
ドアの先に広がっていたのは、この廃ビルの最上階に不釣り合いなほど、趣味の良い空間だった。
壁はシックなダークブラウンで統一され、床には深紅の絨毯が敷かれている。
間接照明が、高価そうな革張りのソファや、ガラスのローテーブルを柔らかく照らし出している。
そして、その部屋の奥。
窓を背にして、一人の男が静かに立っていた。
竜崎慎也。
年の頃は二十代半ば。スマートな黒のセットアップスーツを、まるでモデルのように着こなしている。
綺麗に整えられた黒髪、知的な光を宿す切れ長の瞳、そして、その顔には常に薄い笑みが貼り付けられていた。
一見すれば、IT企業の若手経営者か、あるいはホストクラブのナンバーワンにでも見えそうな、洗練された容姿。
しかし、そのスマートな外見とは裏腹に、彼から放たれる殺気は、そこらのチンピラとは比較にならないほど濃密で、残虐性に満ちていた。
「お前が、噂の『化け物』のガキか」
竜崎は、少しも動揺した様子を見せず、面白そうに蒼真を観察している。
彼の周りには、屈強な部下たちが二十人近く、武器を手に蒼真を囲んでいた。
「殺せ」
竜崎の冷たい命令が響く。
蒼真は、四方八方から迫る刃と鈍器の嵐の中心で、静かに息を吸った。
――アルフレッドだったら、こんな卑怯な連中をどう倒すだろう。
一瞬、異世界の親友の姿が脳裏をよぎる。
――いや、あいつなら正面から、正々堂々と打ち破るだろうな。だが、こいつらにその価値はない。
蒼真は、両手を広げた。
「【テンペスト・ダンス】」
彼の身体を中心に、凄まじい旋風が巻き起こった。
それは、ただの風ではない。
意思を持った、魔力の刃の嵐。
「「「ぎゃあああああああっ!」」」
部下たちの身体が、木の葉のように宙を舞う。
竜巻は、彼らを容赦なく切り刻み壁や天井に叩きつけ、高価な調度品を巻き込みながら、部屋中を破壊し尽くしていく。
数秒後、風が止んだ時、立っているのは蒼真と、そして――。
「……なるほどな」
竜崎だけだった。
彼は、部下たちが作り出すわずかな死角を利用し、竜巻の威力が最も弱い場所を瞬時に見極め、巧みに回避していたのだ。
竜崎は、蒼真の背後に、音もなく回り込んでいた。
その手には、いつの間にか、黒く濡れたような光を放つ、特注のサバイバルナイフが握られている。
「手品じゃなく、本物の化け物だったとはな!」
竜崎のナイフが、蒼真の首筋を狙って閃光のように突き出される。
しかし、蒼真は振り返らなかった。
「【アイス・ウォール】」
カキン! という硬質な音。
竜崎のナイフは、蒼真の背後に突如として出現した、分厚い氷の壁に阻まれていた。
「なっ!?」
竜崎が驚愕に目を見開く。
その隙を、蒼真は見逃さない。
振り返りざま、右手には灼熱の炎を、左手には絶対零度の氷塊を同時に生成する。
蒼真は、炎と氷の弾丸を、雨あられと竜崎に浴びせかけた。
床は焼け焦げ、壁は凍りつき、部屋は地獄のような様相を呈していた。
「この、化け物がぁっ!」
追い詰められた竜崎が、最後の抵抗として、手にしたナイフを蒼真めがけて投げつけた。
高速で回転しながら迫る凶刃。
蒼真は、それを避けることすらしなかった。
ただ、人差し指を、ナイフに向ける。
「【ライトニング・ニードル】」
バチッ!
指先から、眩いばかりの雷の針が放たれた。
雷は、飛来するナイフに命中すると、一瞬でそれを融解させ、真っ赤な鉄の滴に変えてしまう。
ナイフを溶かした雷は、勢いを失うことなく、そのまま彼の身体に突き刺さった。
「ぎ……が……ッ……」
竜崎の全身を激しい電撃が駆け巡り、痙攣しながら、白目を剥いて床に倒れた。
焦げ臭い匂いが、部屋に立ち込める。
アジトは、完全な静寂に包まれた。
蒼真は、部屋の中央に立ち、ゆっくりと息を吐く。
高揚感も、達成感もない。
ただ、作業を終えた後のような、空虚な静けさだけが心を支配していた。




