第27章
黒川を叩きのめしてから、一週間が過ぎた。
蒼真の学校生活は、奇妙な静けさに包まれていた。
誰も彼に近づかない。
誰も彼と目を合わせようとしない。
かつてのいじめっ子たちは、蒼真の姿を認めるだけで怯えたように道を譲る。
恐怖による支配は、より絶対的な恐怖によって完璧に上書きされたのだ。
だが、蒼真の心に平穏はなかった。
教室の窓から見える平和な日常。
仲間と笑い合うクラスメートたちの姿。
その一つ一つが、彼が失った異世界での温かい日々を想起させ、胸の奥の空洞を冷たい風が吹き抜けるような虚無感を増幅させるだけだった。
◇
その日も、蒼真は誰と話すこともなく、一人で下校の途についていた。
夕暮れ時の商店街は、一日のうちで最も活気づく時間帯だ。
威勢のいい八百屋の呼び込みの声、香ばしい匂いを漂わせる惣菜屋、学校帰りの学生たちで賑わうファストフード店。
人々の笑い声、雑踏の音、様々な食べ物の匂いが混じり合い、生きている世界のエネルギーに満ち溢れていた。
蒼真は、その喧騒をまるで分厚いガラス越しに眺めているかのように、何の感慨も抱かずに通り過ぎていく。
近道である、ゲームセンターとパチンコ店の間の薄暗い路地裏へ足を踏み入れた、その時だった。
路地の出口を、複数の人影が塞いでいた。
振り返ると、入り口にも同じように男たちが立ちはだかり、退路は完全に断たれている。
その数、およそ十人。
学生ではない。一目で分かる、暴力の匂いを纏った男たちだった。
「お前が橘蒼真か?」
出口を塞ぐ集団の中から、一人の男が前に進み出た。
年の頃は二十代前半。ブリーチで痛めつけられた金髪を、ワックスで雑に逆立てている。
耳や指にはこれ見よがしに金ピカのアクセサリーが輝き、派手なロゴの入ったブランドもののTシャツを着ているが、その安っぽさは隠せていない。
細身の身体に、蛇のような執念深い瞳。
黒川ほどの威圧感はないが、より陰湿で計算高い雰囲気を漂わせていた。
「黒川がヤキ入れられたって聞いて来てみりゃあ……なんだ、ただのガキじゃねえか」
リーダー格の男が、面白くなさそうに舌打ちする。
どうやら先日痛めつけた黒川の仲間のようだ。
「ガキ一匹のために、俺らが出張るハメになるとはな。竜崎さんも人が良すぎるぜ」
彼の言葉に、周囲の男たちが下卑た笑みを浮かべた。
だぶついたスウェットやジャージ姿の者、派手な柄シャツを着た者。
その服装はバラバラだが、共通しているのは、他人の不幸を蜜の味とする、腐った瞳の色だった。
「大人しくついて来い。痛い目に遭いたくなけりゃな」
リーダー格の男が顎をしゃくる。
それに呼応するように、男たちが懐やポケットから得物を取り出した。
キラリ、と夕陽を反射して光るバタフライナイフ。
ジャラリ、と不気味な音を立てる自転車のチェーン。
そして、鈍い銀色に光る金属バット。
生ゴミの腐臭と、安い香水の匂いが混じり合う路地裏の空気が、一気に殺伐としたものに変わる。
蒼真は、ただ無表情に彼らを見つめていた。
その瞳には、恐怖も、焦りも、一切の色が浮かんでいない。
その静けさが、逆に男たちの苛立ちを誘った。
「なんだその目は、ビビって声も出ねえか?」
「ナメてんじゃねえぞ、コラァ!」
リーダー格の男の合図と共に、十人の男たちが一斉に襲いかかってきた。
狭い路地裏を埋め尽くす、暴力の津波。
金属バットが風を切り、ナイフの切っ先が蒼真の喉元を狙う。
常人であれば、一瞬で肉塊に変えられていただろう。
しかし、蒼真は動じなかった。
――異世界での戦闘を思えば、これはただの児戯に等しい。
彼の心は、絶対零度の静けさを保っていた。
そして、その身体の内側で、膨大な魔力が脈動を始める。
「……燃やすか」
蒼真が小さく呟くと同時に、彼の身体から、陽炎のような薄青いオーラが立ち上った。
それは夕暮れの薄明りの中ではほとんど視認できない、ごく微かな光の揺らめき。
しかし、そのオーラが発散された瞬間、路地裏の気温が数度、上昇した。
蒼真は、正面から迫る三人の男たちに向け、右の手のひらを突き出した。
「【ファイア・インパルス】」
詠唱ではない。ただの、力の名称。
彼がそう意図した瞬間、手のひらから不可視の熱波が爆発的に放射された。
ゴッ!
それは炎の形をしていなかった。
ただ、空間そのものが灼熱の塊となって、前方の男たちを飲み込んだのだ。
「「「ぐわあああああっ!?」」」
三人の男たちは、まるで巨大な壁に叩きつけられたかのように、悲鳴と共に後方へ吹き飛んだ。
衣服の表面が焦げ、髪がチリチリと音を立てて燃え上がる。
彼らは受け身も取れずに地面に叩きつけられ、そのまま意識を失った。
一瞬の出来事だった。
残りの七人は、何が起こったのか理解できず、その場で足を止める。
「な……なんだ、今のは……!?」
彼らが動揺している隙を、蒼真は見逃さない。
今度は、左の手のひらを地面に向けた。
「【フリーズ・フィールド】」
カッ、と蒼真の足元から冷気の波が放射状に広がる。
生ゴミから染み出した汚水が、パキパキと音を立てて瞬時に凍りつき、アスファルトの表面は、見る間に白く分厚い霜で覆われていった。
路地裏は、一瞬にして真冬のスケートリンクへと変貌する。
「うおっ!?」
「足が……滑る!」
勢いよく駆け込もうとしていた男たちは、完全に足元をすくわれた。
バランスを崩し、次々と派手な音を立てて転倒する。
頭を打ち、肘を擦りむき、手にした武器がカランカランと虚しい音を立てて地面を滑っていった。
わずか数秒で、十人の集団は半壊していた。
その異常事態に、ようやくリーダー格の男が蒼真の危険性を理解した。
「お、お前は……何なんだ……!」
男は恐怖に顔を引きつらせながらも、虚勢を張って金属バットを握り直す。
「化け物め……!」
彼は絶叫と共に、凍った地面を慎重に踏みしめながら、蒼真に殴りかかってきた。
渾身の力で振り下ろされる金属バット。
しかし、蒼真はその一撃を、素手で、こともなげに受け止めた。
左手で、バットの先端を鷲掴みにする。
キィン! という甲高い金属音。
全ての運動エネルギーが、蒼真の手のひらの中で完全に吸収される。
「なっ……!?」
リーダー格の男の顔が、絶望に染まった。
蒼真は、掴んだバットを、ただ、握りしめた。
ミシミシ……バキィッ!
硬質な金属バットが、粘土のように歪み、軋み、そして最後には無数の破片となって砕け散った。
「ひっ……!」
男が恐怖に息を呑む。
そのがら空きになった顔面に、蒼真の右拳が、音もなく叩き込まれた。
ゴッ、という肉が潰れる鈍い音。
リーダー格の男は、一言の悲鳴も上げることなく、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
残った数人の男たちは、その光景を目の当たりにして、完全に戦意を喪失した。
彼らの頭にあるのは、ただ一つ。「逃走」の二文字だけ。
「に、逃げろぉ!」
「こいつ人間じゃねえ!」
彼らは武器を放り出し、我先にと路地の入り口に向かって走り出した。
凍った地面に足を取られ、無様に転びながらも、必死に逃げようとしている。
蒼真は、彼らを追うことすらしなかった。
その必要はない。
だが、逃げていく男の一人が、震える声で叫んだ言葉を、彼の耳は聞き逃さなかった。
「竜崎さんに報告しなきゃ……! こんな化け物がいるって!」
その男は、慌てふためくあまり、ポケットからスマートフォンを落としたことにも気づかずに走り去っていく。
「……竜崎?」
蒼真の口から、その名前が漏れた。
おそらく、そいつが、こいつらのボスなのだろう。
蒼真は、地面に落ちていたスマートフォンを拾い上げた。幸い、ロックはかかっていない。
通話履歴の一番上には、「竜崎さん」という名前。
そして、メッセージアプリには、アジトと思われる住所が記された地図の画像があった。
「ご丁寧にどうも」
蒼真の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
初めて、この世界で魔法の力を本格的に振るった。
異世界での戦闘とは違う、圧倒的な力の差。
それは、ある種の爽快感をもたらした。
もっと強い奴はいないのか。
俺のこの渇きを、この虚無を、一瞬でも忘れさせてくれるような、手応えのある相手は。
蒼真はスマートフォンの画面を消すと、それをポケットにしまった。
「こっちから、行ってやるよ」
夕闇が迫る路地裏に、意識を失った十人の男たちを残し、蒼真は竜崎のアジトがあるという方向へ、迷いなく歩き出した。
彼の背後では、魔法によって生じた氷が、カラン、と音を立てて溶け始めていた。




