第26章
放課後のチャイムが、校舎に響き渡った。
蒼真は、誰に話しかけるでもなく、誰に話しかけられるでもなく、静かに自分の席を立ち、昇降口へと向かう。
教室に残された生徒たちは、まるで猛獣が檻から出ていくのを見送るように、息を殺して彼の背中を見つめていた。
教室での惨劇が、彼らの網膜に焼き付いて離れないのだ。
靴を履き替え、校門を出る。
西に傾いた太陽が、アスファルトに長い影を落としていた。
部活動に励む生徒たちの掛け声や、吹奏楽部が奏でる拙いメロディーが風に乗って聞こえてくる。
それは、蒼真が永遠に失ってしまった、平和な日常の音だった。
彼は、いつも使っている帰り道――住宅街を抜ける、人通りの少ない路地を選んで歩いていた。
予測はしていた。工藤竜也という男は、あれくらいで心が折れるほど単純ではない。
プライドをズタズタに引き裂かれ、衆人環視の中で屈辱を味わわされたのだ。
必ず、報復に来る。
予想通り、その時はすぐに訪れた。
三つ目の角を曲がった、古びた自販機がぽつんと置かれた路地の先。
五人の人影が、行く手を塞ぐように立ちはだかっていた。
その中心にいるのは、昼間とは打って変わって、蒼真よりも背の高い男たちの影に隠れるように立つ工藤竜也だった。
彼の顔は怒りと屈辱で赤く腫れ上がり、鼻には乱暴に詰められたティッシュが見える。
制服は汚れ、恐怖に濡れたズボンはまだ乾いていない。
しかし、その瞳には恐怖と共に、より強い者への依存からくる浅ましい復讐の光が宿っていた。
「黒川さん、こいつです」
工藤が、震える指で蒼真を指さした。
その声は、虎の威を借る狐そのものだった。
工藤の前に立つ男が、ゆっくりと蒼真の方へ向き直る。
黒川雅人。
この地域の中高生の間では、その名を知らない者はいない。
近隣の工業高校に通う三年生で、喧嘩の実力はもはや伝説の域に達している。
数々の中学を締め上げ、他校の番長格を病院送りにした武勇伝は枚挙に暇がない。
彼こそが、この一帯の不良ヒエラルキーの頂点に君臨する「最強」の存在だった。
身長は百八十センチを優に超え、学ランの上からでも分かるほど、その身体は鋼のような筋肉で武装されていた。
短く刈り込んだ髪、日焼けした肌、そして何より、獲物を品定めするような冷酷な光を宿した細い目が、見る者に原始的な恐怖を抱かせる。
「へえ……」
黒川が、値踏みするように蒼真を上から下まで眺めた。
その口元に、残酷な笑みが浮かぶ。
「こいつか? 竜也をコケにしてくれたってのは。ただのヒョロいガキにしか見えねえが」
黒川の後ろには、彼と同じ高校の制服を着た三人の取り巻きが控えている。
いずれも体格が良く、見るからに場数を踏んでいることが分かる、暴力に慣れた目をしていた。
蒼真は、何も言わずにただ彼らを見つめていた。
その静かな態度が、黒川の神経を逆撫でしたらしい。
「竜也は俺のかわいい後輩でな。そいつに恥かかせたってことは、俺の顔に泥を塗ったってことと同じなんだよ。分かるか? ガキ」
黒川が、ゴキリ、と指の関節を鳴らす。
空気が一気に緊張し、路地を吹き抜ける風が止まったように感じられた。
「まあ、安心しろ。半殺しで許してやる。二度と生意気な口が利けないように、歯を全部へし折って、土下座の仕方を身体で教えてやる」
黒川が、ゆっくりと蒼真に歩み寄る。
一歩、また一歩。その威圧感は、工藤の比ではなかった。
本物の暴力が持つ、粘りつくような重圧が蒼真の全身にのしかかる。
取り巻きの一人が、面白そうに口笛を吹いた。
「黒川さんのマジギレ、久しぶりに見れるぜ」
「あのガキ、一発で沈むんじゃねえの?」
彼らの目には、蒼真はすでにサンドバッグにしか映っていない。
黒川が、蒼真の目の前で立ち止まった。
見下ろすその瞳には、絶対的な自信と、弱者への侮蔑が渦巻いている。
「最後の言葉はなんだ?」
蒼真は、初めて表情を変えた。
ほんのわずかに、口の端を吊り上げる。
それは、嘲笑だった。
「……お前ごときが、俺に触れられるとでも?」
その言葉が、引き金だった。
「上等だああああッ!!」
黒川の怒声と共に、岩のような拳が蒼真の顔面に叩き込まれた。
速い。工藤の比ではない。
アスファルトを削る勢いで踏み込み、体重の全てを乗せた一撃。
並の人間なら、顎の骨が砕け、意識を刈り取られていただろう。
工藤の顔に、勝利を確信した歪んだ笑みが浮かんだ。
だが、その笑みは次の瞬間、驚愕と混乱に変わる。
バシッ!
黒川の必殺の拳は、蒼真がこともなげに突き出した左手の手のひらによって、寸前で受け止められていた。
衝撃は、ない。
まるで、剛速球が吸い込まれるキャッチャーミットのように、全ての威力が蒼真の手のひらの中で霧散していた。
「な……に……?」
黒川の目が見開かれる。
信じられない、という表情。
自分の最強の一撃が、まるで子供のパンチのように止められた。
その事実が、彼の脳の処理能力を超えていた。
「この程度か?」
蒼真の声は、感情の起伏がない、平坦な響きだった。
「期待外れもいいところだ」
次の瞬間、蒼真は黒川の手を掴むでもなく、ただ、受け止めた手のひらで、軽く前へ押し出した。
それは、まるで邪魔なものをどけるかのような、本当に些細な動作だった。
しかし。
「がっ……!?」
黒川の巨体が、まるで大型トラックにでも撥ねられたかのように、数メートル後方へ吹き飛んだ。
彼は空中で無様に体勢を崩し、背中から地面に叩きつけられ、そのままアスファルトの上を数回転がって、ようやく自販機に激突して止まった。
ガシャン! と自販機が大きく揺れる。
「くろ……かわ、さん……?」
工藤も、三人の取り巻きも、目の前で起こったことが理解できずに呆然と立ち尽くしていた。
物理法則を完全に無視した光景。
軽く押しただけで、百キロ近い大男が紙くずのように飛んでいくなど、ありえない。
その異様な光景に、蒼真の怒りが静かに燃え上がっていくのを感じた。
――弱い。弱すぎる。
アルフレッドなら、こんな攻撃、笑って受け止めるだろう。
エリーナなら、指一本でいなせる。
ルナでさえ、軽やかに避けて反撃できる。
俺が愛した仲間たちの強さに比べれば、こいつらは虫けら同然だ。
その怒りに呼応するように、路地に吹き込む風が、にわかに勢いを増した。
ザアアアアッ!
地面の砂埃が舞い上がり、落ち葉が竜巻のように渦を巻く。
まるで蒼真の感情が、天候にまで影響を及ぼしているかのようだった。
「な、なんだこの風……!」
取り巻きの一人が怯えた声を上げる。
しかし、彼らが恐怖の根源に気づく前に、蒼真は動いていた。
「て、てめえええ!」
我に返った三人が、同時に蒼真に襲いかかる。
一人は右から、一人は左から、もう一人は正面から。
完璧な挟み撃ちの体勢だ。
だが、蒼真は彼らに視線を向けることすらなかった。
ただ、吹き荒れる風の中で、静かに目を閉じる。
そして、三人が蒼真に触れる寸前。
ドンッ! ドンッ! ドンッ!
三つの鈍い打撃音が、ほぼ同時に響いた。
何が起こったのか、誰にも見えなかった。
ただ、三人の高校生が、それぞれ異なる方向へ、まるでボールのように弾き飛ばされたという結果だけが残った。
一人は路地の壁に叩きつけられ、白目を剥いて崩れ落ちる。
一人は空中のゴミ箱を巻き込みながら地面に転がり、動かなくなった。
最後の一人は、工藤の足元まで転がってきて、うめき声を一つ上げたきり沈黙した。
一瞬。
ほんの一瞬の出来事だった。
路地には、意識を失った四人の不良と、恐怖に腰を抜かして動けない工藤、そして、その中心に静かに立つ蒼真だけが残された。
あれほど吹き荒れていた風が、嘘のようにぴたりと止む。
蒼真は、自販機にもたれかかり、震えながら自分を見上げる黒川の方へ、ゆっくりと歩み寄った。
「ば……化け物……」
黒川が、恐怖に引きつった声で呟いた。
最強の名を欲しいままにしてきた男の瞳に浮かぶのは、生まれて初めて味わう、純粋な恐怖だった。
蒼真は、その目の前で足を止め、冷たく見下ろした。
そして、初めて、心の底から楽しそうに、不敵に笑った。
「次は何人連れてくる? 」
その笑みは、かつての仲間たちに見せた温かいものではない。
全てを破壊し尽くす笑みだった。
「全部、相手してやるよ」
蒼真はそう言い残すと、倒れた不良たちを一瞥もせず、その場を立ち去った。
夕日が、彼の孤独な影を長く、長くアスファルトに伸ばしていく。
残されたのは、絶対的な恐怖と、自分たちが手を出してはいけない領域に触れてしまったという、取り返しのつかない後悔だけだった。




