表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

25/104

第25章

 昼休み。三分の一の生徒が弁当を広げ、残りが購買へ走る喧騒に満ちた教室。

 友達同士で昨日のテレビ番組について語り合う弾んだ声、弁当のおかずを交換する微笑ましいやり取り、廊下を走り抜けていく足音。

 それらが混じり合い、学校特有の活気あるノイズとなって空間を満たしている。


 窓から差し込む初夏の陽光が、机の上の埃をきらきらと照らし、教室の隅々まで明るく染め上げていた。

 しかし、その光の輪の中心にありながら、蒼真の周囲だけは、まるで温度が数度低いかのように、冷たい空気が澱んでいた。


 彼は自分の席で、ただ静かに窓の外を眺めている。蒼真の雰囲気は一変していた。

 以前の、常に何かに怯え、教室の隅で気配を殺していた少年の面影はない。

 背筋はまっすぐに伸び、俯きがちだった顔は常に正面を向いている。

 その瞳は、底なしの深淵を思わせるほどに静かで、暗い光を宿していた。


 クラスメートたちは、その変化に戸惑っていた。

 以前のように彼を無視することも、からかうこともできず、まるで未知の生物を観察するかのように、遠巻きに視線を送るだけだ。

 蒼真が動くたびに、教室の空気が微かに緊張する。

 その異常な静けさを、誰もが肌で感じ取っていた。


 だが、その静寂を、無遠慮に破る者たちがいた。


「よお、蒼真くん」


 下品な笑い声と共に、三人の影が蒼真の机を囲んだ。

 中心に立つのは、工藤竜也。

 身長は百七十センチを超え、バスケ部で鍛え上げた筋肉が、着崩した制服の上からでも見て取れる。

 短く染めた茶髪に、常に他人を見下すような傲慢な光を宿した三白眼。

 彼こそが、このクラスの絶対的支配者であり、蒼真をいびり抜いてきた主犯格だった。


 その両脇を固めるのは、いつもの取り巻きだ。

 彼らは、蒼真の変化を「生意気になった」としか捉えていなかった。

 自分たちの支配が揺らぐことなど微塵も考えていない。


「おい、今日も泣かせてやろうか?」


 工藤が、見せしめのように机を蹴りつけた。

 ガタン、と大きな音がして、クラスの視線が一斉に集まる。

 

 教室の空気が凍りついた。

 誰もが、いつもの「ショー」が始まるのだと察した。

 以前の蒼真なら、この時点で肩を震わせ、恐怖に顔を歪めていただろう。


 だが、今の蒼真は違った。


 彼はゆっくりと椅子から立ち上がった。

 その動作には一切の無駄がなく、まるで水が流れるように滑らかだった。

 

 そして、その顔には何の感情も浮かんでいない。

 

 喜びも、悲しみも、怒りも、そして恐怖さえも。

 ただ、底なしの虚無だけが広がっていた。


「なんだその目は」


 工藤が面白そうに口の端を吊り上げる。

 蒼真の無反応が、彼の嗜虐心を煽った。

 彼は自らの力を誇示するように、大きく拳を振りかぶった。


「ちょっと躾が必要みてえだなァ!」


 工藤の拳が、蒼真の顔面めがけて唸りを上げて迫る。

 教室の数人の女子が、小さく悲鳴を上げた。


 しかし、その拳が蒼真の顔を捉えることはなかった。

 蒼真は、まるで飛んでくるボールをキャッチするかのように、最小限の動きで工藤の拳を左手で受け止めていた。


 パシッ、という乾いた音が、静まり返った教室に響く。

 工藤の全力の拳は、蒼真の華奢に見える手のひらに、ぴたりと吸い付くように止められていた。


「なっ……!?」


 工藤の顔から笑みが消え、驚愕の色が浮かぶ。

 信じられない、というように、彼は自分の拳と蒼真の顔を交互に見た。

 蒼真は、そんな工藤の腕を掴んだまま、ゆっくりと右手を伸ばし、その手首を掴んだ。


「い……ってえ! なんだてめえ!」


 工藤が腕を引き抜こうとするが、蒼真の手は万力のように固く、びくともしない。


「離せ、この野郎!」


 工藤が空いている方の手で蒼真を殴ろうとした、その瞬間。

 ミシミシ、と嫌な音がした。

 蒼真が、掴んだ工藤の手首を、ゆっくりと、しかし容赦なく捻り上げていく。


「ぎ……あ……ああ……ああああああッ!?」


 骨と筋が軋む生々しい音と、それに続く工藤の絶叫が教室に響き渡った。

 クラスの支配者が見せた無様な姿に、生徒たちは息を呑む。


「痛い!  痛い痛い!  折れる!  腕が折れるって!」


 工藤が涙と鼻水を垂らしながら懇願する。

 プライドも何もかも投げ捨てた、ただの命乞いだった。

 しかし蒼真は、その懇願を意に介さず、無表情のまま工藤を引きずり始めた。


「や、やめろ……どこに連れてく気だ……」


 蒼真は一言も発さず、抵抗する工藤を窓際まで引きずっていく。

 教室の生徒たちが、モーゼの十戒のように道を開けた。

 

 誰も蒼真を止めようとしない。

 いや、止められないのだ。

 今の彼から放たれる異様な威圧感に、誰もが金縛りにあったように動けなかった。


 窓際まで来ると、蒼真は工藤の髪を鷲掴みにし、その顔を窓ガラスに叩きつけた。


 ゴンッ、という鈍い音。


「がっ……!」


 工藤の鼻から、どろりとした血が流れ、窓ガラスを汚していく。


「ひぃっ……!」


 一番前の席の女子生徒が、恐怖に顔を引きつらせた。


「なあ、工藤」


 蒼真が初めて口を開いた。

 その声は、冬の湖面のように静かで、底冷えするほど冷たかった。


「お前はいつも、俺をここから突き落とす真似をして楽しんでいたな」


 蒼真は工藤の顔をガラスに押し付けたまま、さらに力を込める。

 ミシッ、と窓ガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入った。


「今度は、俺がお前らを追い詰める番だ」


 その言葉は、死刑宣告のように響いた。

 工藤は恐怖のあまり、声も出せずに失禁していた。

 ズボンにじわりと広がっていく染みが、彼の完全な敗北を物語っている。


「てめえ! 工藤に何しやがる!」

「離せよ、クソが!」


 ようやく我に返った取り巻きの二人が、蒼真の背後から同時に襲いかかってきた。

 クラスメートたちは、今度こそ蒼真がやられると思った。


 だが、蒼真は振り返りさえしなかった。


 ただ、彼の瞳が一瞬、青白く発光したのを、窓ガラスの反射越しに工藤だけが見ていた。

 それはまるで、深海に差し込む光のような、非人間的で冷たい輝きだった。


 次の瞬間、蒼真の背後で、突風が巻き起こった。


 ゴォッ!


 それは、目に見えない力の奔流だった。

 教室のカーテンが激しく舞い上がり、机の上のプリント類が一斉に宙を舞う。


「「うわああああああッ!?」」


 二人の悲鳴は、すぐに途切れた。

 二人の身体は、まるで巨大な手に弾き飛ばされたかのように宙を舞い、そのまま教室後方のロッカーに叩きつけられた。


 ガッシャアアアン!


 鉄のロッカーが大きくへこみ、二人はぐにゃりとした不自然な角度で床に崩れ落ちる。

 白目を剥き、ぴくりとも動かない。完全に意識を失っていた。


 教室は、水を打ったように静まり返った。

 何が起こったのか、誰も理解できていない。

 ただ、人間がまるで紙切れのように吹き飛ばされたという、非現実的な光景だけが、全員の目に焼き付いていた。


「……な、なんだ今の? 勝手に吹っ飛んだぞ」


 誰かが震える声で呟いた。


 蒼真は、静まり返った教室の中で、ゆっくりと工藤から手を離した。

 支えを失った工藤は、ずるずると床に崩れ落ちる。


 蒼真は、その震える身体を、虫けらでも見るような目で見下ろした。


「明日から、二度と俺に近づくな」


 冷たく、感情のこもらない声で言い放つ。


「もし次に俺の前に現れたら……」


 蒼真は言葉を切り、床に転がる工藤の顔を、靴の先で軽く踏みつけた。


「……その時は、腕一本じゃ済まないと思え」


 それが、この教室の王が交代した瞬間だった。

 恐怖による支配は、さらに絶対的な恐怖によって、いとも容易く覆されたのだ。


 蒼真は、恐怖に震えるクラスメートたちを一瞥することもなく、静かに教室を後にした。

 彼の足音が遠ざかっていく廊下には、初夏の明るい日差しが差し込んでいる。

 しかし、教室に残された生徒たちの心は、真冬のように凍てついていた。


 廊下を歩きながら、蒼真は自分の胸に広がる感情を分析していた。

 達成感はある。だが、それは砂を噛むような、乾いた感覚でしかなかった。

 復讐を遂げても、アルフレッドは笑わない。エリーナも褒めてくれない。ルナも抱きついてはこない。


 心の空洞は、埋まるどころか、より一層その広がりを増していくようだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ