第25章
昼休み。三分の一の生徒が弁当を広げ、残りが購買へ走る喧騒に満ちた教室。
友達同士で昨日のテレビ番組について語り合う弾んだ声、弁当のおかずを交換する微笑ましいやり取り、廊下を走り抜けていく足音。
それらが混じり合い、学校特有の活気あるノイズとなって空間を満たしている。
窓から差し込む初夏の陽光が、机の上の埃をきらきらと照らし、教室の隅々まで明るく染め上げていた。
しかし、その光の輪の中心にありながら、蒼真の周囲だけは、まるで温度が数度低いかのように、冷たい空気が澱んでいた。
彼は自分の席で、ただ静かに窓の外を眺めている。蒼真の雰囲気は一変していた。
以前の、常に何かに怯え、教室の隅で気配を殺していた少年の面影はない。
背筋はまっすぐに伸び、俯きがちだった顔は常に正面を向いている。
その瞳は、底なしの深淵を思わせるほどに静かで、暗い光を宿していた。
クラスメートたちは、その変化に戸惑っていた。
以前のように彼を無視することも、からかうこともできず、まるで未知の生物を観察するかのように、遠巻きに視線を送るだけだ。
蒼真が動くたびに、教室の空気が微かに緊張する。
その異常な静けさを、誰もが肌で感じ取っていた。
だが、その静寂を、無遠慮に破る者たちがいた。
「よお、蒼真くん」
下品な笑い声と共に、三人の影が蒼真の机を囲んだ。
中心に立つのは、工藤竜也。
身長は百七十センチを超え、バスケ部で鍛え上げた筋肉が、着崩した制服の上からでも見て取れる。
短く染めた茶髪に、常に他人を見下すような傲慢な光を宿した三白眼。
彼こそが、このクラスの絶対的支配者であり、蒼真をいびり抜いてきた主犯格だった。
その両脇を固めるのは、いつもの取り巻きだ。
彼らは、蒼真の変化を「生意気になった」としか捉えていなかった。
自分たちの支配が揺らぐことなど微塵も考えていない。
「おい、今日も泣かせてやろうか?」
工藤が、見せしめのように机を蹴りつけた。
ガタン、と大きな音がして、クラスの視線が一斉に集まる。
教室の空気が凍りついた。
誰もが、いつもの「ショー」が始まるのだと察した。
以前の蒼真なら、この時点で肩を震わせ、恐怖に顔を歪めていただろう。
だが、今の蒼真は違った。
彼はゆっくりと椅子から立ち上がった。
その動作には一切の無駄がなく、まるで水が流れるように滑らかだった。
そして、その顔には何の感情も浮かんでいない。
喜びも、悲しみも、怒りも、そして恐怖さえも。
ただ、底なしの虚無だけが広がっていた。
「なんだその目は」
工藤が面白そうに口の端を吊り上げる。
蒼真の無反応が、彼の嗜虐心を煽った。
彼は自らの力を誇示するように、大きく拳を振りかぶった。
「ちょっと躾が必要みてえだなァ!」
工藤の拳が、蒼真の顔面めがけて唸りを上げて迫る。
教室の数人の女子が、小さく悲鳴を上げた。
しかし、その拳が蒼真の顔を捉えることはなかった。
蒼真は、まるで飛んでくるボールをキャッチするかのように、最小限の動きで工藤の拳を左手で受け止めていた。
パシッ、という乾いた音が、静まり返った教室に響く。
工藤の全力の拳は、蒼真の華奢に見える手のひらに、ぴたりと吸い付くように止められていた。
「なっ……!?」
工藤の顔から笑みが消え、驚愕の色が浮かぶ。
信じられない、というように、彼は自分の拳と蒼真の顔を交互に見た。
蒼真は、そんな工藤の腕を掴んだまま、ゆっくりと右手を伸ばし、その手首を掴んだ。
「い……ってえ! なんだてめえ!」
工藤が腕を引き抜こうとするが、蒼真の手は万力のように固く、びくともしない。
「離せ、この野郎!」
工藤が空いている方の手で蒼真を殴ろうとした、その瞬間。
ミシミシ、と嫌な音がした。
蒼真が、掴んだ工藤の手首を、ゆっくりと、しかし容赦なく捻り上げていく。
「ぎ……あ……ああ……ああああああッ!?」
骨と筋が軋む生々しい音と、それに続く工藤の絶叫が教室に響き渡った。
クラスの支配者が見せた無様な姿に、生徒たちは息を呑む。
「痛い! 痛い痛い! 折れる! 腕が折れるって!」
工藤が涙と鼻水を垂らしながら懇願する。
プライドも何もかも投げ捨てた、ただの命乞いだった。
しかし蒼真は、その懇願を意に介さず、無表情のまま工藤を引きずり始めた。
「や、やめろ……どこに連れてく気だ……」
蒼真は一言も発さず、抵抗する工藤を窓際まで引きずっていく。
教室の生徒たちが、モーゼの十戒のように道を開けた。
誰も蒼真を止めようとしない。
いや、止められないのだ。
今の彼から放たれる異様な威圧感に、誰もが金縛りにあったように動けなかった。
窓際まで来ると、蒼真は工藤の髪を鷲掴みにし、その顔を窓ガラスに叩きつけた。
ゴンッ、という鈍い音。
「がっ……!」
工藤の鼻から、どろりとした血が流れ、窓ガラスを汚していく。
「ひぃっ……!」
一番前の席の女子生徒が、恐怖に顔を引きつらせた。
「なあ、工藤」
蒼真が初めて口を開いた。
その声は、冬の湖面のように静かで、底冷えするほど冷たかった。
「お前はいつも、俺をここから突き落とす真似をして楽しんでいたな」
蒼真は工藤の顔をガラスに押し付けたまま、さらに力を込める。
ミシッ、と窓ガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入った。
「今度は、俺がお前らを追い詰める番だ」
その言葉は、死刑宣告のように響いた。
工藤は恐怖のあまり、声も出せずに失禁していた。
ズボンにじわりと広がっていく染みが、彼の完全な敗北を物語っている。
「てめえ! 工藤に何しやがる!」
「離せよ、クソが!」
ようやく我に返った取り巻きの二人が、蒼真の背後から同時に襲いかかってきた。
クラスメートたちは、今度こそ蒼真がやられると思った。
だが、蒼真は振り返りさえしなかった。
ただ、彼の瞳が一瞬、青白く発光したのを、窓ガラスの反射越しに工藤だけが見ていた。
それはまるで、深海に差し込む光のような、非人間的で冷たい輝きだった。
次の瞬間、蒼真の背後で、突風が巻き起こった。
ゴォッ!
それは、目に見えない力の奔流だった。
教室のカーテンが激しく舞い上がり、机の上のプリント類が一斉に宙を舞う。
「「うわああああああッ!?」」
二人の悲鳴は、すぐに途切れた。
二人の身体は、まるで巨大な手に弾き飛ばされたかのように宙を舞い、そのまま教室後方のロッカーに叩きつけられた。
ガッシャアアアン!
鉄のロッカーが大きくへこみ、二人はぐにゃりとした不自然な角度で床に崩れ落ちる。
白目を剥き、ぴくりとも動かない。完全に意識を失っていた。
教室は、水を打ったように静まり返った。
何が起こったのか、誰も理解できていない。
ただ、人間がまるで紙切れのように吹き飛ばされたという、非現実的な光景だけが、全員の目に焼き付いていた。
「……な、なんだ今の? 勝手に吹っ飛んだぞ」
誰かが震える声で呟いた。
蒼真は、静まり返った教室の中で、ゆっくりと工藤から手を離した。
支えを失った工藤は、ずるずると床に崩れ落ちる。
蒼真は、その震える身体を、虫けらでも見るような目で見下ろした。
「明日から、二度と俺に近づくな」
冷たく、感情のこもらない声で言い放つ。
「もし次に俺の前に現れたら……」
蒼真は言葉を切り、床に転がる工藤の顔を、靴の先で軽く踏みつけた。
「……その時は、腕一本じゃ済まないと思え」
それが、この教室の王が交代した瞬間だった。
恐怖による支配は、さらに絶対的な恐怖によって、いとも容易く覆されたのだ。
蒼真は、恐怖に震えるクラスメートたちを一瞥することもなく、静かに教室を後にした。
彼の足音が遠ざかっていく廊下には、初夏の明るい日差しが差し込んでいる。
しかし、教室に残された生徒たちの心は、真冬のように凍てついていた。
廊下を歩きながら、蒼真は自分の胸に広がる感情を分析していた。
達成感はある。だが、それは砂を噛むような、乾いた感覚でしかなかった。
復讐を遂げても、アルフレッドは笑わない。エリーナも褒めてくれない。ルナも抱きついてはこない。
心の空洞は、埋まるどころか、より一層その広がりを増していくようだった。




