第24章
翌朝、午前七時。
昨夜、この絶望的な現実に戻ってきてから一睡もしていなかった。
しかし、異世界で得た力の影響か、疲労感は一切ない。
むしろ感覚は研ぎ澄まされ、世界の全てが手に取るように感じられる。
窓から差し込む朝の光が、空気中に舞う埃を金色に照らし出している。
床に転がった安物の焼酎の空き瓶、吸い殻で山になった灰皿、食べかすのついたコンビニ弁当の容器。
寝室の襖が開く音がした。
重い足を引きずるような音を立てて、橘健一郎――蒼真の父親が姿を現した。
彼は蒼真の姿を認めると、不機嫌そうに眉間に深い皺を刻んだ。
「……おい」
低く、掠れた声が空気を震わせる。
「飯は!?」
怒声が飛んでくる。いつもの朝の光景だ。
以前の蒼真なら、この時点で身体が竦み上がり、反射的に謝罪の言葉を口にしていただろう。
しかし、蒼真は椅子に座ったまま、ただ静かに父親を見つめ返した。
その態度が気に食わなかったのだろう。
健一郎の顔が怒りで醜く歪む。
「てめえ、聞こえねえのか! 朝飯の準備もしてねえのか、この役立たずが!」
健一郎が大きく腕を振り上げ、蒼真の顔めがけて殴りかかってきた。
鈍い風切り音。長年の経験で、その拳が寸分違わず頬を捉えることが分かっていた。
だが、その拳が蒼真に届くことはなかった。
健一郎の驚愕に目を見開いた顔が、スローモーションのように見える。
蒼真は振り下ろされる腕を、こともなげに右手で掴んでいた。
ボキッ。
乾いた、しかし鈍い音がリビングに響き渡った。
それは熟れた果実が潰れるような、あるいは枯れ枝が折れるような、生命感のない音だった。
「ぎ……ああああああああああッ!!」
健一郎が獣のような絶叫を上げた。
蒼真が掴んだ彼の手首は、ありえない方向に折れ曲がっている。
突き出た骨が皮膚を突き破り、生々しい赤色の肉と白い脂肪が覗いていた。
蒼真は掴んでいた手を離す。
健一郎は折れた腕を抱えて床に蹲り、脂汗と涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、ただ絶叫を繰り返していた。
「痛い……痛い! 俺の腕がぁっ!」
その姿を見下ろしながら、蒼真の心は不思議なほど静かだった。
アルフレッドやエリーナ、ルナと過ごした温かい日々を思い出す。
あの幸福に比べれば、目の前の光景など何の感情も動かさない。
「うるさいな」
蒼真の呟きは、氷のように冷たかった。
その声に、健一郎はびくりと身体を震わせ、絶叫を止めて蒼真の顔を見上げた。
その目には、今まで息子に対して向けられたことのない感情――恐怖が浮かんでいた。
「な……なんだ、お前……」
健一郎は恐怖に駆られ、折れた腕の激痛も忘れたかのように、もう片方の拳で殴りかかってきた。
渾身の力を込めたであろう拳。
しかし、その軌道はあまりに遅く、あまりに無力だった。
蒼真は一歩も動かない。
ただ、差し出された拳を、今度は左手で、優しく包み込むように受け止めた。
衝撃は、ない。
まるで綿菓子を受け止めたかのように、健一郎の全力の拳は蒼真の手のひらの中心でぴたりと止まった。
「……こんなものか?」
蒼真は、心の底から湧き上がってきた言葉を口にした。
健一郎の顔が、恐怖と絶望で凍りつく。
蒼真は彼の拳を握り潰す代わりに、受け止めた左手をそのまま引き寄せた。
がら空きになった腹部に、蒼真の右拳が吸い込まれていく。
ドンッ、という地響きのような鈍い音。
健一郎の身体が「く」の字に折れ曲がり、口から胃液と血の混じった泡を噴き出した。
白目を剥き、短い悲鳴すら上げられずに床に崩れ落ちる。
「がはっ……ごふっ……」
内臓のいくつかが破裂したのだろう。
床に倒れた健一郎は、鯉のように口をパクパクさせながら、血の混じった吐瀉物を撒き散らした。
蒼真は、汚物を避けるように一歩下がり、その無様な姿を冷たく見下ろした。
「母さんが死んでから、お前は毎日俺を殴り続けたな」
蒼真は淡々と語り始めた。
彼の憎悪に呼応するように、部屋の空気が微かに震える。
床に転がっていた空き瓶が、カタカタと音を立てて数ミリ浮き上がった。
浮き上がった空き瓶が、ゆっくりと回転を始める。
蒼真の魔力が、無意識のうちに周囲の物体に干渉し始めている。
「お前は俺を殴ることで、自分の弱さと悲しみから目を逸らしていただけだ。母さんの死を、俺のせいにすることで、自分を慰めていただけの、ただの弱い人間だ」
健一郎は血の海の中で何かを言おうとしているが、言葉にならない。
ただ、許しを乞うように、蒼真に向かって手を伸ばそうとしている。
「俺は毎日、お前に謝り続けた。謝る理由もないのに、ただ殴られるのが怖くて。いつか許してくれるんじゃないかと、心のどこかで期待していた」
蒼真は健一郎の前にしゃがみ込み、彼の足首を掴んだ。
「でも、もう終わりだ」
ゴキッ。
右足首を、何の躊躇もなく逆方向に捻る。
先程とは比較にならない、骨と肉が完全に断裂するおぞましい音が響いた。
「ぎゃあああああああああああああああああッ!!」
健一郎の意識が、痛みで覚醒する。
「お前はもう二度と、その足で立つことはない。俺にしたことの代償だ。残りの人生、ベッドの上で過ごすがいい。俺を殴り続けた日々のことを、飽きるほど後悔しながらな」
浮遊していた空き瓶や灰皿が、ガシャンと音を立てて床に落ちる。
魔力の不安定な揺らぎが収まった。
蒼真は立ち上がり、今度は左足首を掴む。
「や……やめ……」
バキィッ!
懇願の声は、骨が砕ける音によって遮られた。
健一郎は白目を剥いて完全に意識を失った。
両手両足が、ありえない方向に折れ曲がった肉塊が、そこには転がっているだけだった。
蒼真はスマートフォンを取り出し、冷静に119番をダイヤルした。
「はい、消防です。火事ですか、救急ですか」
「救急です。男が一人、倒れています。住所は……」
淡々と住所を告げ、電話を切る。
蒼真はもう一度、床に転がる肉塊を見下ろした。
胸がすくような快感があった。
長年の鬱憤が、ようやく晴らされたような感覚。
だが同時に、心の奥底に広がるのは、どうしようもない虚無感だった。
こいつを再起不能にしても、アルフレッドは戻ってこない。
エリーナも、ルナも、もうどこにもいない。
蒼真の心が満たされることは、決してない。
蒼真は玄関に向かい、一度も振り返ることなく、その地獄のような家を出た。
外は、昨日と何も変わらない朝だった。
通学路を歩く学生たちの楽しそうな笑い声。
蒼真の内なる地獄とは無関係に、世界は平和な朝を迎えている。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。
蒼真はその音を背に、ゆっくりと学校へと続く道を歩き始めた。
空はどこまでも青く、澄み渡っていた。
しかし、彼の心は鉛色の雲に覆われたままだった。




