29 私の名前の由来だわ? だから、『ツツジは「躑躅」と書くが、「見る人が足を止めるほど美しい」という言われに……
父の暴力は徐々にエスカレートしていった。父は武道家だったので、傷のつかない痛めつけ方を知っていた。けれど衝動のままに母を殴りつける父にそんなことを考える余裕はなかったので、結局母には、生傷が絶えなかった。なかでもひどかったのは、包丁を持ち出された時に負った深い指の切り傷と、うつぶせに倒れた状態で当てられたヘアアイロンの火傷による、肩のひっつりだった。
母とお風呂に入るたび、わたしはその背口のひっつりを見て、いつも泣き出してしまっていた。
お母さんの小さな背中を――当時のわたしに比べたら大きな、けれどお父さんに比べたらなんとも小さな背中を、充分に泡立ったボディタオルで洗うとき、わたしはいつも涙を流していた。けれどお母さんに負い目を感じてほしくなくて、わざと自分の目をボディソープのついた手で擦って、涙の原因をすり替えたりするのだった。
またある時は、小学校の道徳の授業で自分の名前の由来を親に訊ねろというありがちな宿題が出て、わたしはそれを、お父さんに聞こうと思った。
話しかけるのは、怖かった。あまり近づいたら、殴られると思って、その頃はかなりお父さんを避けていた。わざわざ怖い思いをせずに、お母さんに聞いてしまおうかとも、何度も思った。
けれど、その度に、わたしはお母さんが教えてくれた言葉を頭に思い浮かべることで、自分を鼓舞した。
――『なら、その好きな気持ちをなくさないであげて? パパを好きでいてあげるの。わたしとノワキが、パパ大好きだよって言ってあげたら、ノワキが大好きなパパはきっと戻ってきてくれるわ』
お父さんがわたしを怒るのは、わたしがお父さんを避けてるからだって思った。
お父さんがわたしを怒鳴るのは、わたしがお父さんを恐れてるからだって思った。
わたしの方から近づいて、わたしはお父さんが好きなんだって、その気持ちを伝えれば、お父さんはわたしの好きなお父さんになってくれると信じていた。
好きを与えれば、好きが返ってくるのだと、わたしは母に教えられて、信じていた。
だから、怖くてもお父さんに聞いた。
『今が話掛けてほしくねぇ時だって見て分かんねぇのか!!』
無駄だった。
『……っ、だ、だって、パパ、なにもしてなかったよね……?』
口にしてから、しまったと思った。なんて自分はバカなんだろうと思って、泣きそうになった。
『…………お前もか』
お父さんは、本当に怒ってる時の、ものすごく低い声で。
『ノカゼはダメな俺を信じ続けて! お前はダメな俺を責めて! グルになって惨めな俺を嗤ってんのか! どこまで俺をバカにしたら気が済むんだよお前らはぁ!!』
鼓膜が破れてしまいそうなほどの、ものすごく大きな声で。
『違う、違うっ……!』
立ち上がって、その場に耳を塞いで居竦まるわたしに影を落として――
『親に向かって口答えか!』
爪の伸びたその太い足で――
『あなたやめて……っ』
――わたしに暴力を振るおうとすると、いつもお母さんが血相を変えてやってきて、わたしを庇ってくれた。
『親子揃って! 俺を! この俺を見下しやがって!』
『……っ、……っ』
お父さんに怯えるわたしに、お母さんは覆いかぶさって。
父の足の爪が母の顔を傷つけ、額から血が流れるのを、わたしは間近で見ていた。
『マ、マ……ねえ、ママ……!』
わたしはそれが悲しくて、わたしのために傷つくお母さんの痛みが、直に伝わってくるようで。
でもそんな気持ちが上手く言葉にならなくて、ただひたすらに、お母さんを呼んでいたのに。
『大丈夫、平気だから……』
優しいお母さんはそれを、わたしがお父さんを怖がっているのだと受け取って。
『大丈夫よ、ノワキ……あなたはママが、お母さんが守るからね……』
こんなときでもいつものように、優しく笑いかけてくれた。
真っ赤な笑顔。
血塗られた笑顔。
そして――わたしを愛してくれている笑顔。
それを見てしまったわたしは、こんな目に遭ってもなお、ますます、母から教えられたあの言葉を信じたくなった。
『クソッ、クソォ! あの村から出てさえいなきゃ、こんなことにはならなかっただろ! こんなはずじゃなかった! こんなはずじゃ……っ』
そんなわたしたちの気持ちなど考える余裕もない父は、自分の気が済むまで、怒りが治まるまで、わたしを庇う母の背を、腕を、頭を、全力で蹴りつけ続ける。
――わたしはこの時はじめて、自分が男に生まれなくてよかったと強く感じた。
☽
その地獄のような日々のなかにも、安息の日はたしかに存在した。
お父さんの機嫌がとてもいい日が、一か月に一度くらいの頻度であったのだ。
その日はお酒も煙草も飲まず、落ち着いた良いお父さんだった。以前のような健康的な笑い声を上げて、家族三人ばかりの居間に、明るい雰囲気をもたらしてくれた。
その日のお母さんは本当に幸せそうで、嬉しそうで、その向日葵のような笑顔は母というよりもむしろ、わたしと同い年くらいの少女のものに思えるのだった。
三人で食卓を囲んでいると、いつもお父さんは『今まですまなかった、今度こそやり直す、立ち直る』と言って泣き出すのだ。これは機嫌がいい日の口癖のようなもので、本来ならば誰も相手にしない虚言のはずだった。
けれどもわたしたちは、カネコリサマ。お母さんは、何度も何度もそんな出まかせを信じた。その言葉を初めて聞いたように喜んだ。どれだけ裏切られようと、どれだけ傷つけられようと、それが愛する者の言葉である限り、お母さんは本気で信じた。それがお母さんの愛だったから。
そんなお母さんに育てられたわたしも、その口癖を信じた。信じることで、それがお父さんの力になると思っていたから。
――そして誰よりもその言葉を信じていたのはきっと、お父さん自身だった。
だから月に一度だけやってくるその日だけは、家がまるで昔に戻ったみたいだった。あの村での生活が戻ってきたみたいだった。お父さんが笑っていて、お母さんは幸せそうで、そんな仲のいい二人を見ているのが、わたしは大好きで。
いつか、いつの日か。どれだけ苦労するとしても、どれだけ時間がかかるとしても……
この幸せな日常を取り戻してみせると、そんな日、三人は確かに決意するのだった。
☽
母が死んだ。
☽
母の腹に、包丁が深々と刺さっていた。傷跡からじわじわと、母の格子柄の着物が、紅く、紅く、染まっていく。
『……………………』
今の今まで罵詈雑言を浴びせ続けていた父は、すっかり黙り込んで、静かに、自身が握っていた包丁の柄を放した。包丁は上腹部に刺さったまま、横たわった母の周囲を、血の海で濡らしていく。
『……………………………………』
父は、叫び出すわけでも、取り乱すわけでも、笑うわけでもなく、ただ黙って、どこか虚を見つめていた。涙さえ流さない。
『ママっ……ママぁっ!!』
わたしは大粒の涙を零し顔を歪めながら、ひたすら母を大声で呼び続けた。
母の綺麗な銀髪が、みるみる紅く染まりゆくのを見て、わたしは自分の心臓が締め付けられる気がした。この人は死ぬんだ、と思った。
『…………、……』
母は最初、うわ言のように何かを呟こうとして……しかし声が出なかったらしく、口を弱々しく動かすばかりだった。
『……もう…………泣かないの、ノワキ……』
ようやく紡がれた言葉は、わたしを心配する母の言葉。
『ママ……死んじゃうの……? いやだよ……? いなくなっちゃやだよ――死んじゃやだよぉっ!!』
泣き喚くわたしの頭を撫でようとしたらしいけれど、母の腕は動かなかった。
……どうして。……どうしてお母さんは、血塗られたその顔で、わたしを宥めるためだけに、そんなに優しく笑えるんだろう。
『…………………………………………』
その場に力なく膝をつく父にも、母は言葉をかける。
『……あなたも…………元気出して……しょぼくれてちゃダメよ……』
『――あ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ! ノカゼ……ノカゼッ! 野風っ!!』
母に話しかけられた父はようやく、気でも狂ったかのように発狂して、母の名前を呼び続ける。
『し、止血を……そんで救急車――!』
未だ現実感の伴わない覚束ない挙措で、立ち上がろうとする父の腕を……
『ダメよ、あなた……』
他でもない母が、掴んでしまう。
『……は?』
『こんなところを誰かに見られたら……あなたはどうなるの……? あなたがいなくなったら……誰がノワキを愛してあげるの……?』
『…………っ、…………なに、言ってんだ…………?』
母の言うことが本気で理解できないらしかった父は、どんなに荒れてた時にすら上げたことのないような、大きな怒声を浴びせる。
『何言ってんだ! なんの心配してんだよ! 俺のことなんか今はどうでもいいだろうが! 俺一人残ったって何になるんだよ! 俺一人残ったってノワキが嬉しいわけねえだろ! まずお前が! 俺じゃなくてノカゼが……ノカゼが残って、ノカゼがノワキを愛してやんだよ! こんな時にまでふざけてんじゃねぇぞ!』
『ふざけてなんかないわ……わたしなんかより、あなたの方が……ノワキを愛してあげられるわ……』
母は虚勢を張らない。母は一度だって嘘をついたことがなかった。母はいつだって幼子のように純粋な気持ちで本心を語る。だからこそ、これが父にはそのまま残酷なのだ。
『バカ、言ってんじゃねぇよ……んなわけねえだろうが! な……なあッ! ノワキも思うよな、ノワキもそう思うよな……っ!』
『え……?』
父は震える手で乱暴にわたしの両肩を掴み、わたしに同意を求める。
『ノワキだってお父さんなんかより、お母さんの方が大事だよな……? お母さんと暮らしたいよな? お母さんにいてほしいよな、生きててほしいよな? お母さんの方が好きだよな? こんな――二人にひどいことばっかするクズなんか、大嫌いだよな!?』
『……わたし……わたし、は……』
ここで即答できなかったことが、きっとすべて。
どれだけ憎まれていようと、どれだけ恨まれていようと……どれだけ愛されていなかろうと。
――『なら、その好きな気持ちをなくさないであげて? パパを好きでいてあげるの。わたしとノワキが、パパ大好きだよって言ってあげたら、ノワキが大好きなパパはきっと戻ってきてくれるわ』
わたしから嫌うことはない。わたしから気持ちを絶つことはない。
わたしが好きであり続ければ、父もわたしを好きになってくれる。わたしはこんな時にまで、そのことを信じていたから。
『……ママには……いなくなってほしくない』
『だよな! そうだよな!?』
――わたしは母の娘だから。
『でも……わたし、パパのことも、大好きだよ……?』
『………………』
だから父は、絶望する。
『……ママと同じくらい、パパも好き……』
『…………なんでだよ………………俺、ノワキに親らしいことなんてなんもしてねぇだろうが…………嫌いだろ……いなくなってほしいだろ……死んで欲しいだろ……』
『そんなこと、ないよ……わたし……パパが好きだよ……?』
わたしはそう言って、大好きなお父さんに抱き着いた。そうすれば、お父さんもわたしを好きになってくれると思ったから。自分のことが嫌いだろうなんて、そんな悲しいこと、言ってほしくなかったから。これだけわたしはパパが好きなんだよって伝わるように、抱き着いた。
『……やめろ……やめろよ……! …………嫌っていてくれよ……頼むから、お父さんが嫌いだって、言ってくれよ……! 俺を嫌えよッ! 俺を否定しろよッ! そうすれば……お母さんを助けられるんだよ……!』
父はわたしを抱きしめなかった。両腕を力なく垂れて、縋るように、願うように、虚ろな目で、笑いながら、涙を流していた。
『でも、わたし、パパも好きだよ……』
『なんでだよ…………なんでだよ…………ッ!』
『ねえ……言ったでしょ……』
母は、全部分かっていたみたいに、ふっと笑う。
『わたしは、あなたに愛を伝えてあげられなかった……あなたを上手に、愛してあげられなかった……』
父は、もうなにも信じられなかった。
『はぁ!? ふざけんな! 違うッ! 違う、それは違う、それだけは違うだろ!』
『そんなわたしよりも……あなたの方が、きっと、ずっと……ノワキを……』
『だから……! そんなことねえんだよ……、ノカゼ……!』
自分の言葉を否定し続ける父に、母は困ったようにまた笑うと……
『ノワキ……大好きよ……』
わたしの方を向いて、蚊の鳴くような――力強い声で、そう言った。
『うんっ……わたしも、わたしもママが大好き……大好きだよ、ママ……!!』
お母さんは、満足したように微笑んで、今度はお父さんを見ながら。
『あなた……愛してるわ……』
『…………お、俺も……っ、…………お……俺は………………ッ』
…………………………。
………………。
……。
言葉は、続かなかった。
『…………………………』
長い、永い沈黙は、外の強い雨音に乱された。屋根を打つ雨の響きが、わたしたちに沈黙を許してくれた。
情け容赦のない感傷が、窓の隙間から家のなかを満たすような、あとは梅雨明けを待つばかりの、冷たい7月のある日。
安らかな笑顔を浮かべたまま、不知森野風は――……
……その24年間というあまりに短い生涯に、そっと幕を閉じた。
――わたしと父は、ひとりぼっちになった。
両親に愛されてのびのび育ったツツジ「はわわ、大変なおうちもあるんだわ?」




