28 そ、そんなにおだてたってなにも出ませんわよ……?
『ただいまー……』
学校から帰ってくると、家はたいてい騒がしかった。
『んでいつまでも同じこと言うんだよお前は! ノカゼのそれがプレッシャーになってんだって言ってんのが分かんねぇのかよッ!!』
『そ……そんな風に怒らないで。落ち着いて、話し合いましょう。あなたが休憩期間だからって、それを誰も責めたりしないの。ねえ、あなた……』
お母さんは、ずっと、ずっと、優しいままだった。どれだけ言われても、なにをされても、お父さんに愛という名の刃を向け続けた。信じることしか知らなかったから。そうやって愛することしか教えられなかったから。心の底から愛していたからこそ、いつの日か自分の愛情が伝わることを信じて疑わなかった母のそれが、終わることはなかった。
『うるっせぇんだよ!!』
『……っ゛……』
だからいつも叩かれる。だから必ず殴られる。
けれど、母にはその因果関係が絶対に見えない。
だから暴力を振るわれても続けてしまう。母は、父を愛しているから。
『……あ……あら……おかえり、ノワキ……』
『…………うん』
痛みからか、悲しみからか、目を腫らして涙を流していたお母さんは、帰ってきたわたしを見つけると、それでも「おかえり」と、必ず無理に「おかえり」と、微笑んで迎えてくれるのだった。
それでもなんとなく、居間には居づらくて。
わたしは自分の部屋に行き、ランドセルを置いて……そのままなんとなく、そこから出たくなくなってしまう。
そんいう時はいつも、お母さんがわたしの部屋に来てくれて。
『ねえノワキ、髪が崩れてるわ。ママが結びなおしてあげる。それとも解いちゃう?』
その場に座り込んだ母は、慈愛に満ちた声で、私に笑いかけてくれて。
『ほら、おいで』
『うんっ』
両腕をわたしの方へ伸ばして、ぎゅっと抱きしめてくれる。
少しの気恥ずかしさと、たくさんの嬉しさが、胸のうちに広がって。
『髪、どうしたい?』
母に背を向けて座りながら、そんな質問に、頭に一つの理想像を思い浮かべる。
『んーとね、ママと同じがいい!』
家にいるときのお母さんは、家事がしやすいよう、いつも髪を後ろで纏めていた。
『きゃ、きゃわわ……わたしの娘、愛おしすぎるわ……っ』
わたしの提案を受け、母は感極まったように後ろからがばっと抱き着いてくる。
その息苦しさが、なんだか心地よくて、あたたかくて、わたしは大好きだった。
『こんなかわいいあなたを家で独り占めなんてもったいないから、後で一緒にお買い物いきましょうね、ノワキ』
『うん! ママとおでかけー』
『ぎゅううううううううぅぅぅぅぅぅっ!』
『……きゅぅ……』
たまに母の抱きしめる力が強すぎて、意識が飛びかけることもあったけど。
それも含めて、わたしは大好きだった。本当に。
……わたしはあまりに無知で、あまりに愚かだったけれど、家庭環境の悪い子に特有の、空気を読む能力には幾分か長けていて。
普段は怖くて聞けないようなことを、お母さんの機嫌がいいこのタイミングなら大丈夫だと思って、口に出すのだった。
『パパとの喧嘩、まだ終わらないの?』
わたしの言葉はきっと、真っ赤な嘘で塗り固められていた。
この時の父と母が、すでにやりなおせるところを越えてしまっていることなんて、とっくに気づいていた。そういうのは、親がどれだけ取り繕おうと、家の雰囲気でなんとなく分かるものだ。
『そうね』
母はそれを知ってか知らずか、さして動揺した素振りも見せずに、わたしの質問に答えてみせた。
『きっと、もうすぐよ。パパはちょっとだけ頑固だから、今は意地を張ってるけど。大丈夫よ。だって……ノワキ、パパのこと嫌い?』
『うーん……今のパパはちょっときらい』
わたしのそんな返しにも、母はころころと笑ってくれる。
『そうね。今のパパ、とっても乱暴だものね。怖いわよね』
『……えっとね、ちょっとだけだよ?』
軽く振り向いて、そんな言葉を付け加える。
先程の言葉ではなくて、わたしのこんな子供らしからぬ気遣いにこそ、お母さんは悲しそうに眉を落とす。そのまま黙って、わたしの頭を撫でてくれた。
『でも、ねえノワキ、昔のパパは好き?』
『うん!』
『なら、その好きな気持ちをなくさないであげて? パパを好きでいてあげるの。わたしとノワキが、パパ大好きだよって言ってあげたら、ノワキが大好きなパパはきっと戻ってきてくれるわ』
それは、我が子のために優しい嘘をついているように聞こえるかもしれないけれど。そうじゃない。
母は本当に、なんの裏表もなく、今の言葉を信じているのだった。
『ほんと?』
――わたしは自分の心では、もう終わっているのだろうと、感じていた。
『ええ、ほんとうよ』
――けれどお母さんが言うなら、そっちが正しいのだろうと思った。
お母さんはカネコリサマ。カネコリサマの娘であるわたしもまた、次のカネコリサマ。
子供にとって、親はあらゆる知識と知恵を与えてくれる神様。子としての母が祖母から受け取ったその教条を、わたしも母の子として受け取るのだ。
わたしの小さな世界に燦然と輝く教条が、わたしの唯一の道しるべ。
こうして不知森の女の歪んだ愛情の形は、受け継がれていく。いちばん純粋で、いちばん美しく、いちばん醜く、もうそれ以外は何もいらないような愛情が。
ああ……分かってしまう。
わたしは、この人だと。
お母さんは、わたしだと。
わたしたち母娘は……どうしようもなく、カネコリサマなのだった。
『それにしても……本当に……わたしに似て、銀に染まってるのね、ノワキも』
わたしの髪を手櫛で梳きながら、母は少しだけ声の大きさを落として呟いた。
すー、すー、と母の指が、わたしの銀の髪をかき分けて通り抜けていく。
『ねえ、ママ?』
『ん、どうしたの?』
思わず眠くなるような気持ちよさを覚えながら、わたしは何の気なしに……それを訊ねてしまった。
『この色、変じゃないよね?』
『――――』
母の手が止まる。……再び動いたと思ったら、それはわずかに震えていた。
『……学校で誰かに、なにか言われたの?』
当時のわたしは、彼らの揶揄に対してそれなりに傷ついていた。けれどそれを、いじめだとは認識していなかった。
ただ彼らが知らないから。わたしと同じように、ものを知らないから、彼らにとって未知である銀の髪に戸惑いを覚えているに過ぎないと。わたしへのからかいはその結果にすぎないと。彼らの残酷を、わたしはそのように捉えていた。
あれがいじめだと思っていたら、お母さんに心配をかけたくなくて、黙っていたかもしれない。でもそうは考えなかった。
だから、そのことを親に隠そうだなんて考えが、わたしにはなくて。
なんとも気軽にこんなことを、言ってしまうのだった。
『うん、あのね、クラスのみんなが、お前の髪の毛は変だって』
『……っ!』
わたしは母に背を向けていたから、この時の母の表情を、わたしは今も知らない。
『黒くないのは、おかしいっていうの』
『そ……そう、なの。……そうなのね……』
母がわたしの髪の房を、まるで割れ物のに触れるように、そっと撫でつける。
きっと――母は泣いていたのだ。
『……ごめんね、ごめんねノワキ……ママが、あなたを黒髪に産んであげらなかったから……』
でもその頃のわたしには、わたしの言葉でお母さんがこれほど悲しむ理由が、分からなくて。
『……?? ママ、なんで悲しそうなの? 泣いちゃうの?』
『だって、その色でさえ、銀でさえなければ……あなただけでもこんな辛い思い、せずに済んだのに……っ』
混乱して、当惑して、何を言ったら母が泣き止んでくれるのか、必死に必死に、考えて。
『ノワキをお役目から、自由にしてあげられなくて、ごめんね……カネコリサマとして産んでしまって、ごめんね……ノワキ……』
考えて考えて考えたけど、わたしにはどうしても、分からなかった。
『ごめんなさい……っ、ごめんなさい……ノワキ…………』
わたしの髪に顔を埋めて、嗚咽を漏らす母の声が……今でも耳に残っている。
☽
「よし、夕飯もごちそうになったしそろそろ帰ろうかな」
「今度は感想すらありませんの!?」
ノカゼとノワキの話を聞きながら、ピザを食べ終えた僕は席を立とうとしてさざれに引き留められる。
「あ・な・た・が! リノのことを知りたいと言うから、わざわざお話して差し上げてるんですのよ!?」
「ごめんごめん、そうだったね」
「本来ならば親友のこのような話、そう易々と他人に教えませんのよ? リノが更科さんに心を許しているようだから、特別に……」
僕が知りたかったこととはあまり関係なさそうだったので、つい話半分に聞いてしまっていた。
はっきり言って、僕はノワキの過去などに興味はない。もっと言えば、あんな女のことはどうでもいい。ただ今日の夕方、彼女の家で覚えたあの光景の……あの恐怖の原因解明のために、親友のさざれに事情を聞いているに過ぎないのだ。
「シラガミもこの男になにか言ってやってくださいましな」
『私はシラガミではなく、白恋です。れんちょんと呼んでください』
「レンもこの他人のことを舐め腐ったイケメンに文句の一つでも言ったらどうですの!」
『おにーちゃん、セカイでいちばん愛しています』
『殺し文句ですの!?』
騒がしい女共だ。
ピザがおいしかったので今はデザートでも要求したい気分だが、これ以上からかったら続きを話してくれなくなりそうなので、僕はさざれへ適当にペコペコしてご機嫌取りをする。エル相手で慣れたものだった。
ちなみにノカゼ・ノワキの二人は、この時からいつもポニテ・ツインテです。「ママと同じ」というのはポニテのことです。




