25 それに比べると、シラガミサマは暢気でよさそうだな。
幼い頃の記憶を、わたしはほとんど持っていない。というよりわたしは、記憶するような体験を、してこなかったのかもしれない。
わたしは、小学校に上がるまで、ある一つの例外を除いて、家から出たことがなかった。
詳しい事情は今でもよく分からないけれど、わたしの生まれた村の風習だかなんだかで、家から出してもらえなかった。
どうやら、わたしの故郷で、不知森という名前には大きな意味があったらしい。
わたしの部屋の、あの頃はつま先立ちしてようやく届くかどうかといった小さな窓から覗く景色は、満目の鬱蒼とした森林ばかりだった。
村の外れにぽつんと建っている、大きな旧い家。村の誰も近づかない、静かな世界。
朝、目を覚ましてから、夜、床に就く時間まで、わたしは誇張でもなんでもなく、ずっと家の中で過ごしていた。
とはいえ、当時のわたしは、それを悲しいとも退屈とも思わなかった。
なぜなら、そもそも家の外がどんな世界であるか、知らなかったから。
今では耐えられないだろうけれど、外の世界についてほとんど無知であった少女は、憧れを抱くことすらなかった。
お母さんと、お父さんと、わたし。三人が暮らす、広いおうち。それがあの頃の、わたしの世界のすべてだった。
でも、わたしはそれで、なにも不満はなかった。
『あなた、道場の方はどう? みんなとうまくやれてるの?』
お母さんは、とても優しい人だった。
わたしのことを、いつも抱きしめてくれていた。
わたしに綺麗な言葉をたくさんかけてくれていた。
そんな綺麗で美しいお母さんは、わたしのあこがれ。
『今年は目ぇつけてた若いのがようやく入ってきてな。しごき甲斐がありそうで楽しみだわ』
お父さんは、快活な人だった。
お父さんの、呵々とした気持ちのいい笑い声が、わたしは好きだった。
体を鍛えていたから、わたしを軽々と肩車して、しかもまったくぐらつかない。
だから高いところが怖かったわたしも、父の肩の上でだけは、安心できるのだった。
『そんなこと言っちゃって、あなただってまだ若造でしょ』
『その“若造”にすら勝てねえ体たらくだから、あの老いぼれ共はお前をものにできなかったんだぜ。なあ、ノカゼ』
『ノワキの前でやめて』
『んだよ、相変わらず焦らすよなあ』
『もう……』
ときどき、よく分からない話をすることもあったけれど……それも含めて、わたしの幸せな世界だった。
――そんな閉じられた世界が拓かれるのが、ただ一つの、あの例外の日。
一年に一度だけやってくる、わたしが家の外に連れ出される日。具体的な日付は覚えていない。
ただ、ぼんやりと――それはいつも、震えるほどに寒い冬の日で。知らない大人たちにおめかしをしてもらって、やたらに重たい髪飾りと、巫女服を着させられて。ずいぶんと簡素な木製の神輿に乗せられて、ただひたすらに、村中を進んでいく。
しんしんと降りそそぐ粉雪と、村人たちの好奇の視線。雪に覆われて、ひっそりとした小さな村――
見渡す限りの銀色世界が、わたしの瞳を覆っていたのを、わずかばかり憶えている。
☽
「――カネコリサマ?」
さざれから告げられた、聞き覚えのない単語を反復する。
「ええ。生まれ故郷で、リノは――不知森の巫女はそのように呼ばれ、恐れ敬われているのですわ。いえ……敬われていた、と言った方が適切ですわね。もはやカネコリサマは断絶したのですもの」
カネコリサマ。生まれ故郷。巫女。……畳みかけるように投げつけられた情報の数々を、頭の中で整理していく。
「えっと……まずノワキ一家は、昔は別の県に住んでたと」
「そうですわ。新潟の山間部にある八幡村、そこがリノの出生地ですの」
「それで、ノワキは……というか、不知森家ってのは、その住んでた村では……神様的な? 扱いを受けてた?」
「理解が早くて助かりますわ」
いや……情報としては理解できただけで、あんまり想像はできてないぞ。要するに、因習村ってことだろ。伝奇モノエロゲなどでは死ぬほど見たことあるが、リアルの、しかもこの令和の時代に実在したとは。そういうのってもう過疎化とか近代化とかで、平成に入るころには根絶やしにされたもんだと思ってたよ。
「不知森の血を引く女は、女しか身ごもりませんの。彼女たちは代々、カネコリサマとして災害や疫病から村を守り、鎮める役目を負った一族ですわ。そのお役目は、親から子、母から娘へと、数百年間、連綿と受け継がれてきた――村の禁忌でしたわ」
禁忌。その言葉に、僕は小さな引っかかりを覚えた。
「村では、カネコリサマは敬われてたんじゃないのか? なのに禁忌なのか」
「触らぬ神に祟りなし、と言いますでしょう。崇敬と忌避は表裏一体、さして珍しい事例ではありませんわ。不知森家が位置していたのが八幡村の外れも外れ、山に最も近い場所だったのも、山の神に仕えるためだのなんだのという建前はありますが、実際はそういうことですのよ」
「…………」
そこまで、さざれの話を聞いても……僕はどこか、納得できずにいた。
「そういうのって、現代でも残ってるものなのか? その手の伝承とかって……」
科学信仰が広まった現代で、あえて風前の灯火である神秘主義的な伝説に縋る必要はあまり感じられない。それとも八幡村は、神を信じたくなるほど逼迫した状況におかれていたのだろうか?
そう思っての僕の疑問を受けて、さざれは渋面を作った。
「ええ。――それがただの伝承であったなら、とうの昔に神だまじないだなんて幻想からは卒業していたでしょう。でも、更科さん。わたくし言いませんでしたこと? リノの髪は、その身に宿す魔力によって染められた銀色ですのよ」
「――!」
さざれの言葉で、気づかされる。
そうだ……この世には、確かに存在するのだ。それを僕は既に知ってしまっている。
迷信でも眉唾でもなく、絶大な、絶対的な、超自然の力の実在を。
僕は……今現在最も身近なそれへと、思わず視線を向けた。
すると彼女は、僕が解説を求めたとでも勘違いしたのか、いつも通りの平坦な口調で語り始める。
『おにーちゃんの想像通り、カネコリサマは、代々受け継ぐその血と術によって、豊かで平和な村の発展に大きく関与していたのでした。それこそ、時の流れのなかですっかり村の重要な機構の一つに組み込まれてしまうほどの、日常的な超常として』
「八幡村の人々にとって、カネコリサマのもたらす奇跡は、伝説でもなんでもありませんでしたわ。それは現在進行形で起こり続けている、再現可能性のある事象だったのですわ」
だから。不知森が、実際に魔術を扱える一族であったから……カネコリサマなどという、いかにもな名前の巫女が、現代にまで残っていたということか。
『カネコリとは、金氷。金属のように硬くなった氷柱を、飛騨や越後の方言ではそう言い表すのです』
「つまりカネコリサマとは――雪女。正確にはつらら女ですけれど……初代カネコリサマは、妖怪と人間の間に生まれた忌子がその力で村の飢饉を救った結果、祀り上げられたものだと伝わっていますわ」
雪女――妖怪の、子孫。ゆえに、特別な力を宿している一族。その妖の力によって何百年もの間、村の鎮守として崇められていたカネコリサマ。
それが、ノワキの生家である、不知森家の実態……。
「雪女の纏っていた銀色の魔力。それが初代の御魂に遺伝し……いつからか、その幻想的な吹雪のごとき銀髪が、不知森に生まれた娘がカネコリサマの力を受け継いでいることの象徴となりましたの」
『白銀の髪色を持って生まれたカネコリサマに、村は心身ともに頑強な子を産んでもらう目的で、代々、その世代でいちばんの力自慢を婚姻相手としてあてがい、その能力の継承を「手助け」していました。不知森の娘は必ず容姿端麗であったため、村に選ばれた男が断る道理もなく、この歪な形式は現代に至るまで継続されていたのでした』
現代まで……。
「だとすると……当代のカネコリサマが、あのノワキってことか?」
「それについては……最初に言いましたでしょう、既に断絶していると。あなたには、あの横暴で人の話を聞かず、十六夜さんと共謀して犯罪まがいのことも平気でする非人道的なリノが、村を治める殊勝な巫女様に見えますの?」
「本当に幼馴染なんだよね?」
僕に対してはわりと優しいのであまりそういう印象はないが、ノワキは基本、他人に対してとても冷酷なのだった。
そんなノワキを思い浮かべた途端に、なんだか拍子抜けというか、思っていたよりもしょうもない話に感じてきたが……
「でも……断絶って、どうして」
「彼女が現在、この果野市にいることからも分かりますでしょう。――――最後のカネコリサマであり、リノの母親でもあった、不知森野風。彼女が夫と娘を連れて、村を抜け出したからですわ」
☽
……一年に一度しか、外に出ることのできない生活。けれどとても幸せな生活。満たされた日々。
そんなわたしの日常に変化が訪れたのは、わたしが6歳の時だった。
――お母さんが、この村を出ようと言い出した。
『んでわざわざ知らねぇ土地に行かなきゃならねえんだよ! 現状でなにも不満はねえじゃねえか』
当然、父は猛反発した。
『お願い、分かって。この村にいることはこの子のためにならないわ』
『そうかぁ? ノワキだって別に楽しそうだぜ、なあ?』
同意を求めるような父に、わたしはなぜだか、何も返せなかった。
二人のどちらかの肩を持つようなことが、わたしは嫌だったのかもしれない。
『今はまだいいわよ、村を渡御するだけだもの。でもこれから成長して、お役目が増えたらそうはいかないわ。カネコリサマは本当に大変で……言ってしまえば、村に都合のいい存在。道具みたいなものなの。あなたもこの村の人なら分かるでしょ? ノワキに自分のための時間なんてないの。なくなるの、わたしがそうだったもの』
『でも、それがお役目なんだろ? 先代も先々代も、それに応えてきたから今のお前があるんじゃねえのかよ』
『それは……っ!』
そんなお父さんの言葉に、母はすごく悲しそうに眉を落として、胸に手を当てて、必死に訴えていた。
『それは昔だったから、村に縛られていたから、そうするしかなかっただけよ! 歴代の巫女が付けた日誌を見たから知ってるわ、自分から望んでお役目を果たしてた人なんていなかった! でももうそんな時代じゃないわ。村を出たかったらいつでも出れる時代でしょ。それなのにこのまま何もせずに、ノワキに不幸な人生を送らせるのは嫌よ! この子には自分の人生を歩んでほしいの!』
『だからって……村を出ることはねえじゃねえかよ。俺ァ今の環境で満足してんだ! それを自分から壊すようなバカなマネをしろってのかよ!』
『……どうして……どうしてそうなるの?』
その言葉が……まだ年若かった母には、自分とわたしを突き放す言葉のように思えたのだろう。
『……違う、違うの……そんなこと言ってるんじゃないの……分かって……』
『……っ』
とても辛そうな声で、自身の服の裾に縋りつく母を見て。
父は、強気な姿勢から一転。
『……俺は……俺はよ、不安なんだ、ノカゼ』
勢いを失ったように項垂れて、絞り出すような声を上げ始めた。
『この村でいちばん強いって言えば聞こえはいいが、それだけの男で……それだって、この村を出たらどこまで通用するものか分かったもんじゃない。……自信が、ねえんだよ。外の世界で、社会で、ちゃんとやっていける自信が……』
それはきっと、お父さんの本音で。
だからお母さんは、とっても優しい眼差しで。
『あなた、そんなこと心配してたの? ……大丈夫、大丈夫よ。ねえ、あなたならやれるわ。これまでわたしとノワキ、二人をしっかり養ってくれたのは誰かしら』
『そりゃあ……お前が巫女で……村の助けもあったから……』
『もう、そんなに自分を卑下しないで。あなたにはわたしたちがいるわ、ねえ、ノワキ?』
その問いかけに、わたしは今度こそ、元気よく目いっぱいの返事をしたと思う。
『この子は、こんなにすくすく、かわいく育ってくれたわ。わたしとあなたの間に生まれたこの子が、あなたがこれまでたくさん頑張ってきたなによりの証じゃない。だからきっとこの先も大丈夫』
母は父の目を見つめて、自身の愛を、本心を、伝え続ける。
『俺に……できるか? お前らを、ちゃんと幸せに……できるかな』
『それは違うわ。みんなで幸せになるんだもの』
母は父の手を握って、自分はこんなにも信じていると、愛していると、伝え続けた。
『だからあなたも、自分を信じてあげて』
『……自分、を』
『ええ。わたしが支えるわ。ノワキだっているわ。――ねえ、愛してるわ、あなた』
『そう、だな……。そうだよな……分かったよ。やってみるよ、ノカゼ……!』
――その後まもなく、わたしたちは村を捨てた。未来の幸福を求めて。不確かな希望を探して。
――そんなものは夢物語だったというのに。当たり前だったはずの幸福を捨て、得がたい不幸を手にしてしまった。両親は大切なものを捨ててしまった。
――すべてすべて、わたしのためだった。
白恋『私には私の苦労が……、……あると言えなくもありません』




