10 それぞれの母
源万代は冷気の澄んだ冬の朝、はしなくも、娘の目覚ましい変化に瞠目した。
「エル、エル」
「なあに?」
エーデルワイスの無邪気な声色が、早朝のリビングに響く。
このかわいらしい母と娘は二人、テーブルに向かい合って朝食を摂っていた。万代が軽く頬杖をつくと、マグカップに注がれたミルクが揺らいだ。
優しい色合いのインテリアに囲まれた広いリビングには、一種モデルハウスにも似た秩序がどっかりと衝い居っていた。この限界まで引き絞られた弓のような調和の上に、源家の生活の余裕はありありと横溢している。窓から差し込む橙色の朝日で部屋は隅々まで明るく、その一角には、ポット型の黒い加湿器が観葉植物と隣り合っていた。朝六時には起きる万代がこれに蒸気を吹かせておくので、エーデルワイスが起き出るころにはいつも、部屋の空気はすっかり潤っている。
彼女は小麦色のバタートーストを齧りながら、母親に向けて小さく首を傾げた。
「あなた、このごろすっかり綺麗になったわね」
「えぇ、まだ寝ぐせ直してないよ?」
「あらまあ」
おっとりとした笑みを浮かべながら、万代は、いたずら心から、娘の金髪をいくつかの指先で綺うてやった。
「あ、やめてっ」
「天使みたいにふわふわだわ」
「なんなの、今日」
「あなたは昔からかわいい子だったもの。だからこそ、これ以上があるだなんてって」
「……えへへ?」
まことに純粋な子に育ってくれたと、この日、万代は深く頷いた。万代の胸に広がっていく確かな生活の充実感は、円満な夫婦関係と、愛する娘の伸びやかな成長の賜物だった。
しかし、近頃の娘の急成長は何が原因だろう? 万代はもちろん、エーデルワイスと優が度々会っていることを、娘の口から聞かされていた。けれど万代は、それを直ちに色恋と繋げて考えるほど浅慮な女ではなかった。加えて万代は、世の多くの母親が抱きがちな、母である自分は子に対して全能の千里眼を持っているという無根拠の驕りからも、元来の穏やかな性格で逃げおおせていたのである。つねに己の歩速を見失わぬ女は、こんな娘の不思議な朗らかさにも、午後の春空にたゆたう雲のような柔らかい歩みで近づいた。
「エル、お母さんは何があってもあなたの味方だわ」
「え、急に何……?」
「ふふふ」
「怖いよ……」
「ごちそうさま♪」
万代はハミングしながら食器をダイニングへ運んでいく。娘の幸福を一身に浴びて一回り若返ったような母親を、エーデルワイスはひたすら不気味がった。
このような微笑ましい母娘の秩序立った無秩序を、エーデルワイスは優の前で絶対に見せなかった。彼女の見栄とはそうした家庭の混雑とした足取り、濃密に押し込まれ凝縮されたグロテスクな神秘、大部分をスキャットで誤魔化された即興演奏といった、匂い立つ女の世界をひた隠すことに注力されていたが、これは優にとってなによりの恩寵であろう。あまりに自然的な女の関係は、純粋すぎる優の本性と非常に似通っているために、かえって彼は直視を避けたがるのである。自己の内面をまざまざと見せつけられることほど恐ろしいものはない。この場に優が居合わせていたらば、彼はエーデルワイスを嫌いになっていたかもしれなかった。
☽
ある休日、僕は母さんと二人で出かけていた。
中途視覚障害者でロクに歩行訓練もしていない母さんは、一人では大した遠出もできないので、月に一度、必ずこうして僕がどこかへ連れ出すのだ。
僕は電車のシートに母と隣り合って座りながら、断続的に車窓から差し込む陽光の眩しさに目を瞬かせていた。すると、母さんが出し抜けに、
「スグル、好きな人でもできた?」
「いや? 別に」
心臓が止まるかと思った。
……なんで急にそんなこと聞いてくるんだよ、母さん。
「そう? 最近なんだか楽しそうだから、そうかと思った」
「楽しそうかな。変わらないでしょ」
「えぇ? ふふっ、そう、そうねえ」
「……なんなんだよ」
なでなで。
母さんは、僕の頭を雑に撫でてくる。周りの目もあるんだから、普通にやめてほしい。
……それにしても、分かるもんなのか。だって、見えてすらいないんだぞ、母さん。それなのに……。
「名前だけ教えて? こっそりでいいから」
「だから違うって」
正直……言いづらい。そりゃ、この年頃で恋愛しているのを親にバレるのが恥ずかしいという普遍的感情も、もちろんあるが……
それ以上に、エルは、視覚障害者なのだ。いや、そうじゃなくて……これはつまり、僕の母さんも、更科雅もまた目が見えない、というのが少し……まずい。
母さんが、その両目を潰した原因には……僕も母さんも、絶対に触れたがらない。そりゃそうだろう。更科家が「普通」とはちょっと違う道を歩むこととなった、直接の原因なのだ。あえて話題に出すことでもない。あと10年、15年くらいすれば、もしかしたら笑い話にできるようになるのかもしれないが……少なくとも、まだ無理だ。僕ら親子には、もう少し時間が必要なのだ。
そんな、思い出したくもないようなことを……エルのその特徴は、母さんに嫌でも想起させてしまうだろう。その光景が容易に想像できるから、僕はエルのことを母さんに言い出しにくい。
僕のために目を潰した母さんが、僕の好きになった人が盲人だと知ったら、どう思うだろうか? 僕にはとても想像がつかなかった。
「でも嬉しいわ。息子がそうやってちゃんと育ってるんだってことが分かるのは、親のなによりの幸福だもの」
なんか母さんはもう、僕に春が来ていることを確定事項みたいにして喋っているが……
母さんは、気づいているのだろうか? この僕が好きになれるような少女が、普通の子ではないだろうということに……
「スグルは昔から私のお世話ばっかりしてくれて、全然友達の話とかしないから、母さん心配だったのよ。まわりと上手くやれてないんじゃないかって」
それでも、あまりに図星すぎることを簡単に言ってくれちゃう母さんの……嬉しそうな顔を見ていると。
なんだかエルのことを隠している自分が、大変な親不孝者に思えてきて。
素直に源エーデルワイスの名前を明かして、エルの話をすれば、母さんはもっと喜んでくれるんじゃないか、なんて。
恥ずかしさにも勝る、そんな不思議な気持ちが、どこかから湧き出てきて……
「スグルは、母さんの自慢ね」
僕は、母さんにエルのことを告げよう、と決心した。
「母さん」
「ん?」
した、のに。
「…………あ、いや」
どういうわけだろう?
これまでにない、全く未知の感情が急激に膨れ上がり、僕の口を強い力で塞いでしまう。
「……身体はもう平気なの?」
「心配性ね。お医者さんも言ってたでしょ、もう完治したわ」
これはなんだ?
エルの名前を出そうとするたびに、胸に閉塞感を覚え、息苦しくなってしまう。
その形容しがたい気持ちに充てられると、先ほどまで固かった意思が弱弱しく、小さく萎んでいくのが分かる。
まるで自分が母さんに対して、ひどい裏切りをしているような……そんなわけはないのに……
源エーデルワイス。
母さんの横で彼女のことを考えると、この気持ちはひと際強くなる。
――僕が誰かに恋をしていることを、母さんに知られたくない。
なぜだか、そう強く思ってしまうのだ。
「まだ死なないでよ。母さんがいなくなったら、誰が家事をするの」
「ひどいわ~」
「わわっ」
母さんは僕の冗談にショックを受けたふりなんてして、僕の頭をワシャワシャを撫でまわす。
僕の恋心を見抜いた勘のよさを、ここでは発揮してくれない母さんに、何とも言えないもどかしさを覚えた。もしここで母さんが、僕の言葉を追及してくれていたら――僕はそんな、仕様もないことばかり考えていた。




