9 映ろうもの、移ろうもの
僕と会うなり、エーデルワイスは泣き崩れた。
「嫌われちゃったかと思った……」
エーデルワイスを抱きしめながら、僕はまず彼女には非がないことをこんこんと説いた。話を聞くに、どうやらエーデルワイスは、僕が連絡を絶った理由を自分の行いに探していたようである。僕はそれまでどうしてか伝える気の起きなかった母さんの事情を明かして、それで以て謝意とした。僕の身勝手を、心優しい彼女は涙を流しながらも許してくれた。ハーフの彼女が泣くと、その赤くなった目元がきめのこまやかな白い肌によく映えて、たいへん美しかった。僕にはこれが衝撃だった。少女の泣き腫らした姿というのはこんなにも素晴らしいものなのかという感動が、これまで僕の中にあった、涙は必ず悲しいものであるという、強い、強い常識を一遍に覆した。彼女が流す涙の透明は、その裏に見えつ隠れつする悲劇の色が滲むのを、淑やかな乙女が時たま見せるあの天真で豊かに抱きとめて、それを丁寧に濾過することで、よりいっそうの清澄さを持していた。この悲劇的なるものに共鳴する僕の過去もまた、エーデルワイスの心に吸収され、丹念に洗われるようだった。エーデルワイスの流す涙が、僕の中でいちばん新しい涙となったのだ。それは過去を塗り替える女の霊的な力である。
――僕はこの女が好きだな。
その時初めて僕は自覚するのだった。……これでようやく、僕はあの母の痛ましい涙の跡を忘れられるのだ、と確信した。
しかしながら、その自覚がエーデルワイスに対する僕の態度を何か変貌させたかというと、全くそうではなかった。男にとって、恋の目覚めはその持続を促すに過ぎない。それが恋心の更なる加速を促すという作用は、専ら女に特有の動きである。
だから僕は、懐の彼女を先ほどと変わらない目つきで眺めることができたのだが、これはどこか感情の統御とその誇示という気がして白々しいために、実際はひっそりと眉をひそめるに留めた。僕はこのごろ頭でっかちが過ぎる心地がする。この原因は一体なにか?
「あのね……私、優くんが初めての友達だったんだよ?」
僕の手を両手で握りながら、エーデルワイスはとても親近感のあることを言った。
「そうなの?」
「そうなんだよ」
「意外だ」
「私ね、優くんの前ではずっと見栄張ってるの。嫌われたくないから」
なるほど彼女の臆病な一面が顔を出しているように思えた。
「嫌うもんか」
「信じられないの」
「もういきなり音信不通なんてことはしないからさ」
「そうじゃないの、私が。自分に自信がないから、信じられないの」
その声はいやに自信に満ちていて、不健康そのものの様相だった。
僕は普段、モノをよく考えるということと無縁だ。その必要に迫られるような危機と、ついに無縁だったから。しかしこの時ばかりはそうもいかず、僕はエーデルワイスの声の調子とか頬の震えとか、そういう他人の機微というものを注意し出した。するとこの新品同様のはずだった頭の回路はその実、怖いほどに使い込まれており、思考は冴えに冴えていた。――僕はエーデルワイスと出会ってからというもの、ずっと人間の複雑なる心理の決闘に身を投じていたのだ。これまで単純なるものしか知り得なかった僕が、初めて人間の複雑なる心の働きを前にして、われ知らず鈍足な論理の世界へと足を踏み入れていたのだ。この退屈な長ったらしい思考の経緯が、その最たる証左だろう。僕は未知が齎す怯懦に震える心で、この感覚を忘れないようにしよう、とばかり願った。このような願望はじきに訪れる忘却に対する備えでしかありえない。言葉を裏返せばそれは、忘却の到来が必然であることを僕自身、疑うことができなかったというなによりのしるしだった。自覚を合図に引っ込む天邪鬼な性質は、思春期の少年がよく持っているものじゃないか?
僕は僕の世界が真の意味で明晰であるうちに、エーデルワイスへの言葉を吐き出していく。
「君のお母さんは、君のこと、エルって呼んでたよな」
「え?」
「僕もそう呼んでいいか?」
人間が驚きを表すとき、最もよく使われるのは目である。それは視覚を通して後天的に学習する身振りだ。だからエーデルワイスにはその癖がない。彼女の場合は、驚いたとき、とにかく目を瞑りながら声のする方へ顔を向ける癖をつけている。身長の関係から普段は陰に隠れてしまう、彼女の消え入るように可憐な輪郭がよく見えて嬉しいので、僕はこの仕草が大好きだった。
「……いいよ。優くんがそうしたいって思ってくれたんだよね?」
「……! ありがとう、エル」
人ごみの中で、僕の声を聴き分けるのに長い名前は便利だった。彼女がそれをやめていいと言ってくれたことの意味を考えれば考えるほど僕の心は舞い上がり、それは欣喜雀躍と言ってもなんら言い過ぎではなかった。わけても僕は、エルがこの提案の理由を聞かなかったことをなによりの美徳と思って、目の前の女をますます好きになった。無思慮で多弁な女を好きになる男がいるだろうか?
「エル、どうしても自分に自信が持てないか?」
「うん」
自分のよいところは意地でも肯ぜず、反対のことには途端に力強いエルには、
「ならやっぱり、僕はもっと謝るべきだね。エル、返事しなくて悪かったよ」
「も、もういいんだよ? ちゃんと理由も分かって、安心できたし……」
ダメなのだ。特にエルにはおいうちになるようなあんなことを、僕はするべきではなかった。
「それなら、エル、もっと会おう。うんと言葉を交わして、それで、僕がエルに自信をあげるよ」
「……そんな、気を遣わなくても……」
「この言い方で、エルが申し訳なく思うなら……」
僕にとってこれは、特段、口にしにくい類の言葉ではなかった。
「これからも僕と仲良くしてくれるか? なにより僕が、エルとたくさん話したいからさ。それなら文句ないだろ? それで、僕で自信をつけたらいい。関係が長く続いて、互いを内面の深いところまで知っていっても、自分は拒絶されない、自分は認めてもらえるんだっていう自信を、僕があげるよ。僕がエルを好きだっていうのを、疑えなくしてやるよ。君の嫌いな君をみんな殺してあげる。……実はね、エル。僕も、エルが初めての友達なんだ」
「……私なの?」
「そう。エルなんだ。エルがいいんだ」
「……へんなの。優くん、見る目がないね」
肩の力が抜けた僕らは、揃って吹き出すのだった。




