2 はじまり
七歳の時、僕は実の母親、更科雅に犯された。
なにかよくないものに取り憑かれたような目をした母に、自室のベッドの上に組み敷かれて、無理やりにレイプされた。当時幼かった僕が感じたのは、耐え難い困惑と恐怖、そして失望だった。自分を産んでくれた大好きな母親――いつも優しく僕の頭を撫でてくれた、抱きしめてくれると温かかった、幼いぼくを守ってくれる存在、安心できる場所――血のつながった家族。
そんな存在が、自分に、まだまだ幼い実の息子に、「女」としての欲望を向けてきた。――世界の底が抜けたみたいだった。
その日、僕の中での「母」は死んだのだ。
そのことはすぐに父にバレて、大喧嘩になった。
「お前……自分が何をしたのか分かってるのか……」
「もう、分からないの……何度も、何度も我慢しようとしたの! 私はあの子の母親だって、母なんだから、しっかりしなきゃって……何度も何度も何度も、自分に言い聞かせて…………でもダメだったのよ! あの子の顔を見ていると、私おかしくなるの……!! 母親としての私がぐちゃぐちゃになって……どうしても、どう、しても……あ、ああああぁ……!!」
「ふざけるな! ……お前っ、お前は………………なんで……」
「……っ、ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……っ……」
父は激昂していた。深い悲しみと一体になった怒声が家じゅうに響いていた。床にうずくまった母さんはみっともなく泣いていた。僕よりもずっと子供みたいな姿で泣きじゃくっていた。
「…………」
僕は二人に仲睦まじくあってほしかった。僕は母も父も大好きだったから。二人は本当に愛し合っていて、その愛こそが僕を産んだのだと、人間の直感で信じていたから、二人が喧嘩しているところは見たくなかった。
だけれども、僕には二人の間に入って声をかけるようなこと、到底できなかった。なんとなくあの時の……悲しみに暮れて憤ることしかできない父に、これから背負う罪科を前に泣いている母に、僕が声をかけてはいけない気がしたから。
母が何を思って僕にあんなことをしたのか、当時の僕はまだよく分かっていなかった。それでも母をそんな気持ちにさせてしまう僕の顔は、きっととても醜いものなのだろう、と。それだけは間違いないのだろうと、強く強く思った。僕の顔はきっと、呪われているのだろうと思った。
だからこの言葉は、運命に導かれるみたいに紡がれた。
「ねえ、ママ、僕はいない方がよかった?」
――それから母は寝室に籠ってしまった。
次の日も、その次の日も、母は部屋から出てこなかった。時折ドアの向こうから苦しそうな呻き声が聞こえてきたけれど、様子を見にいく気にはとてもなれなかった。否……行かない方がいい、と感じていたのだ。僕はたしかに母に対する子供だった。
父と僕だけでは家は回らなくて、日常のあらゆる物事が次第に荒れていった。
テーブルの上にはカップラーメンとコンビニ弁当のトレイが積まれた。畳まれずに放置された洗濯物は床に散乱した。風呂場の浴槽のぬめりが気持ちが悪かった。
母が寝室から出てきたのは、ちょうどひと月が経ってからのことだった。
「……ママ?」
――久方ぶりに見た母には、目がなかった。
母は、自身の両目を潰していた。目から流れる血が乾いて、赤黒い不気味なスティグマとなっていた。血塗られた母の顔は、まるで泣いているみたいだった。
けれどそれはきっと、母親なりの精一杯の愛情表現だった。息子の姿を二度と見ないようにと。そうすることで、息子を息子として愛し通そうという、母としての強い覚悟の表れだったのだ。
ああ、僕はいったい何をしているんだ、と思った。この悲壮な覚悟に、僕は目が覚めるようだった。母は、更科雅は、僕という一人の子を、子として愛してくれたあの人は、変わらずここにいるじゃないか。――心に沁みるような温かみが広がって、視界のぼやけている僕は、ようやくそれを理解した。
その時になって僕は初めて、本当の意味で母を親だと思えた気がした。
ただ「その人から生まれその人に育てられてきたから」という理由でぼんやりと「これが母だ」と思っていたそれまでとは違い。意識的に、明確に、自分の意思で、この人が僕の母だ、と感じた瞬間だった。
「…………」
……だからこれは、もう過去の話だ。昨日だって僕は、10年前に自分が犯されたそのベッドで普通に寝て起きていた。すべては贖われ、終わった話なのだ。
忘れたわけではない。薄れたわけでもない。あの時の感触は、今でも鮮明に思い出せる。――エルを抱こうとして吐いたことがある。その場所、だったのだ。ぼくは自室のベッドで行為に及ぶことができない体になっていたことを、その時初めて知った。
けれど、それだけだ。日常生活の困り事としては、あまりに陳腐だろうと思う。
確かに母は、過ちを犯したのかもしれない。
だとしても――
「母さん、晩ご飯できたよ」
「ええ、ええ、ありがとうね、スグル」
結局あのせいで、父は家を出て行ってしまったけれど。
それでも僕は、今でもこうして、母親と二人で暮らせているのだから。
それはきっと幸福な話なのだと、そう思ったっていいはずなのだ。




