3 僕を見ない人
慣れない東京の地で、僕は一人、溜息を吐く。もう昨日からずっと、気分が悪い。
「…………」
ここは、新宿御苑の一角。なるべく人のいない木陰に腰を下ろしてから、もう何分経つだろう。
ここなら陰が僕の顔を隠して、騒ぎにならないだろうと思っての選択。
けれど今度は逆に、この場所から出られなくなってしまった。……というのは、半分誤りだ。
単純に、そんな気力がない。ただ立ち上がるだけの、元気がない。
永遠にこの木の影に座って。
この場所で、人知れず死んでいくのもいいかもしれない。
そんな風にさえ、考えてしまう。
「…………」
やっぱり、修学旅行なんて参加するんじゃなかった。元々、いい思い出なんて一つもない中学校だった。この顔のせいで、僕は普通の中学生活すらまともに送ることができなかった。
それでも、最後なのだからと。最後くらいは、何事もなく、普通の中学生らしく、この行事を楽しめるんじゃないかと。
そんな根拠のない望みに賭けたのが、失敗だった。
変わらない。僕はどこにいたって、僕なのだ。
東京の人ごみが。明るくて綺麗な、美男美女の多い東京の人々が、僕を普通にしてくれるのではないかと。
もしかしたら東京でなら、僕は相対的に「まあまあのイケメン」くらいの評価で済むんじゃないかと。
そう思っていたけれど、変わらなかった。
目を閉じれば、その裏側には昨夜の惨状が広がっている。
新宿・歌舞伎町――そこで息苦しくなって、ついマスクを外してしまった、僕の失態が。
その失態のせいで、多くの人々の意志を捻じ曲げ、街中に混乱を呼んでしまった、昨夜の出来事が。
克明に、鮮明に、刻まれている。
そんなことなら、修学旅行なんて休めばよかった。
でも、仕方ないじゃないか。しょうがないじゃないか。
「……っ」
だって、お母さんに、修学旅行を休んでいるところなんて見せられないだろう?
お母さんに、これ以上、心配をかけたくはないから。
“僕は普通に学校に通って、普通の人間として日常を送っている。”
そんなバカみたいなガキの取り繕い、親にはバレているかもしれなくても、それでも意味がないのは百も承知で、言うしかないじゃないか。
たとえそれが見え透いた嘘で、親がそんな嘘は求めていないんだと理解していても――これ以上、悲しませるわけにはいかないのだから。
だから、僕は笑うしかないじゃないか。
――お母さん、大丈夫。僕は今、幸せだよ……と。
ズキズキと痛む心を隠しながら、笑顔で伝えるしか、僕にはできないのだから。
「クソ……何が《歌舞伎町崩壊》だ……他人事だと思いやがって……」
実際そうなのだから仕方がない。八つ当たりなんてしている暇があったら、何も考えない方がいい。
僕は木の幹に寄りかかり、昨夜の事件を面白おかしく切り取っているニュースを見せてくるスマホの電源を落とす。
……ブラックアウトした画面に、僕の顔が映る。
「…………っ!」
厭な気持ちが弾けるように広がって、僕は思わず我を忘れる。
力んだ片手を、振り上げる。その手に握られているのは、忌々しいスマホ。
僕はそれを力任せに地面に叩きつけた。
――ドッ、ドッ……
ちょうどケースの角の部分が接地したのか……
スマホは低く弾んで、僕が凭れている大樹の、その裏側に飛んで行ってしまった。
「……はぁ」
不幸は連鎖するものだ。何から何までついていない東京での僕の運勢を呪いながら、その重い腰を上げる。
……いや、運じゃない。僕が悪いんだ。運勢のせいにしたって、何も良くならない。
ほら、ポジティブに行こう。さっきはあれほど無気力を気取って「一生ここに座って死んでやる」なんて息巻いてた僕が、立てているじゃないか。スマホが運よく転がったおかげだ。
人生悪いことばかりじゃない。
――人と会わなければいいんだ。
そうだ、修学旅行も、一人でなら楽しめる。
せっかく東京に来たんだから、楽しないと損だ。やっていられない。
だから、ほら、なるべく人と会わないような旅行プランを――
「…………」
――旅行プランを考えるために使おうと思っていた、スマホ。
それは既に地面にはなく。
消えたわけでもなく。盗られたわけでもなく。
ただ……その場にいた一人の人間が、拾っていた。
「………………」
彼女は俯いている。ただ、僕のスマホを大事そうに両手で持ったまま、僕と反対側の樹に腰を下ろしていた。
…………あ、あぁ。
「……は」
僕が一音、口から漏らしてしまった。
その声に反応して、俯いていた彼女の頭が上がる。
その長い金髪に囲われた顔が、僕を見ようとする。
「あの、このスマホ、あなたの――」
「や、やめろおおおお!」
「……っ⁉」
僕は叫んでいた。構わず咆哮していた。
「それ以上頭を上げるな! 見るな! 僕を見るなぁ!」
「あ、え……その……」
やっていることとは裏腹に、頭は妙に冷え切っていた。ただむしゃくしゃした気持ちが抑えられず、怒りとか悲しみとか、諸々がないまぜになった感情をそのまま声に出して少女にぶつける自分を……どこか他人事のように考えている。
――人間がいた。会いたくない存在。会わなないようにしようと思っていた生命体。その矢先にもう会った。近くにいた。僕のスマホを拾っていた。
――そいつが、僕を見ようとする。見ようとして……それで実際見たら、どうなる?
――おかしくなるんだ。僕もこいつも、正気を失う。また昨日のあいつらみたいに、もはや性欲なのか信仰心なのかよく分からない狂気の目を向けて、僕を見てくる!!
「もうやめてくれよ! これ以上僕を苦しめるのはやめろよ! その目で僕を見るな! その目に僕を映すな! もう――もう僕を……っ」
突然の発狂、突然の罵倒。
「見ないで……くれよ……」
それが済むと、僕の心はガス欠でも起こしたかのように静まり返る。
これまでのすべてを、ここに出し切ったという実感があった。
どこか、身体が抜け殻のように思えて仕方がない。
もしや、今の八つ当たりの際に、鬱憤と一緒に魂まで吐き出してしまった?
……などと、自嘲するのも億劫だ。
目の前の……この彼女には、悪いことをした。
怯えているだろう。怖いだろう。突然よく分からない男に、意味も分からず怒鳴られて。
逃げていい。むしろ逃げろ。逃げてくれ。僕の顔を見ていなければ、逃げようとするはずだ。
僕の顔を見てしまったが最後……そんな気はなくなってしまうだろうから、その前に。
スマホなんてそこらへんに置いておけ。持ち去ったって構わない。
とにかく。とにかく寄ってくるな。いなくなれ。
――僕を見てしまう前に、さっさと僕の前から消えてくれ!
「えっと……よく、分からないけど……今の言葉は、私に言ったんですか?」
「………………そうだよ」
……ああ、と。
心の奥底に、果てしない絶望が広がっていく。
おかしい。この状況で、逃げ出すでもなく、僕になにかを伝えようとして話しかけてくるのは、どう考えても異常だ。
――つまり、そういうことなのだ。
彼女は、手遅れだったのだ。僕の顔を、見てしまったのだ。
「あなたは……自分の姿を、私に見られたくないんですか?」
「…………」
胸の内を瞬く間に暗澹たる気持ちが占領する。それすらどこか現実に思えず、夢のような、ひどくボケボケした失望を抱きながら、彼女の次の言葉を待っていた。
彼女の言葉に、意味はない。
言葉はすぐに裏切る。約束なんて意味を為さない。絶対の誓いだの、固い意志だの、そんなものは簡単に覆る。
今から彼女が紡ぐ言葉に、意味など期待してはならない。それはただ、意味のない音を適当に並べただけに過ぎないのだと。
そう、思わなくてはならない。
ならなかった、のに。
「それなら、大丈夫ですよ。そもそも私……目が見えないから」
耳を傾けてしまった。揺れ動いてしまった。彼女に目を向けてしまった。
「……え」
見られたくないと言いながら、僕だけが彼女を見てしまった。
そのふわふわした金色の髪を。筋の通った白い鼻を。薄紅色の唇を。名前も知らない少女の言葉に惑わされて――見てしまった。
「だから、あなたの姿を見たくても、見えません」
どこか、意識が遠のくような感覚がある。
第三者視点になって、僕の呆けた顔が、間抜けに吊るされた顎が、頼りない背中が、遠く、遠くの景色となって消えていくようだ。
夢を見ているようだった。
「……そう、なのか……」
乾ききった大地に初めて落ちた、一滴。
「君は……僕を、見ないでくれるんだな……」
「はい。事情は、よく分かりませんけど……」
これまでの人生で、最も確からしい目の前の少女を、僕は初めて目にしようと思ったのだった。




