懐孕
彼女の部屋で、黒い封蝋の手紙を燃やした。
いつの間にかやたらピンクな部屋になっていた。何故か手紙や日記などが紛失しているが、主を失ったのでそう遠くないうちに跡形もなく片付けられるだろうし問題ない。
灰皿の上で燃える蝋の塊がどろりと溶けて、更に小さくなる。
引き出しの中に入っていたネックレスを手袋越しの指先で摘む。フィーバスが贈ったと思われるアクセサリーだけ無くなっているが、唯でさえ貢物が大量にある部屋だし、これもまた気付かれない。
紙も蝋も、黒い跡を残して完全に燃え尽きた。
ネックレスを元の場所に戻し、灰皿を持って部屋を出る。エスメラルダを呼び出した証拠を消す為に訪れただけなので長居する理由は無い。
振り返る程の未練は存在しない。
さようなら、エスメラルダ。
扉を閉じた音は、誰にも気付かれなかった。
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相も変わらず湿った音を立てる教会の地下の個室に、また来ていた。
呼び出されるのは入学してから無かった事だ。予想外だらけの仕事だったがいよいよバレてリンチされるのか、悪くない。遺書は別荘に置いてあるので、上手くいけば誰かが見つけてくれるだろう。
出来ればベルが良い。
豪奢な司祭服を身に纏う男の机の向かいに座り、出された紅茶を飲むふりをして袖口の綿に含ませる。
毒への警戒よりも此処で飲み食いしたくない気持ちの方が強い。反吐が出るしそもそも吐く。此処に行く日は基本朝から何も食べないようにしている。それでも戻ったら胃液を吐いている辺り意味がない気もするが、まあ、意地だ。
教会における求められる役割は次期王妃である事と、信心深い事。適度に狼狽えながら相手の自尊心を擽れれば良いが、愚かでなくてはいけない。教会が利用出来ない人間と思われたら消されるから。
ぴるぴる震えながら頷く人形が望ましいのだろうが、言われた通り死体改造マシンになる気はない。
多少死に掛けようが決して刃を振り上げるものか。間違えるな、自分が殺すのは此奴等だ。
それを表に出さずに微笑む。壁に掛けられた燭台の炎が、ゆらりと揺れた。
血生臭さこそ無いが、小さくて黴臭い石造りの部屋だ。扉を開けて50mも歩けば大ホールで毎週人を殺していると考えるだけで胸糞悪い。悪いが、この部屋に来れたとは信用されている事の証明だし、取り敢えず今日は殺されないであろう事も分かった。
ならば何故呼んだのか理解に苦しむが、目の前の司祭は理由を話そうとしない。王城の様子を質問されたが正直に答えるはずもなく、王家の都合が良くなる情報だけ渡しておく。
暫く腹を探り合うと漸く司祭が立ち上がる。着いて来いと言われ、沸き立つ心臓を抑えて開かれた扉をくぐった。見せたいものが有るのですの言葉に、嫌な予感が掻き立てられる。
「ミュート様、貴女は素晴らしく敬遠な信徒でいらっしゃる。貴女様がいれば我が教は、我が国は安泰という物です」
おできだらけの顔の細い目が吊り上がる。喜色を隠さない表情だが、黄色く欠けた歯も脂ぎった手も嫌悪感しか見出せない。醜いのだ、見目も本性も。
静かに謝辞を述べると男の顔が更に歪む。愉悦か期待か、どちらにせよ碌でもない感情だ。
背を向けられ後ろを歩く。大ホールの横を通り抜け更に進んだ。今まで来た事のない道に勘付かれない程度に辺りを見回すが、特に可笑しい物はない。平坦な通路、それだけだ。
5分程歩いた頃、司祭越しの突き当たりに扉を見た。先程までと雰囲気が違う鉄の扉で、装飾は無いが粗雑さと殺伐さに威圧感を感じる。
「貴女は優しすぎるのですよ、ミュート様」
気色悪い司祭は言う。
「人は豚や牛を殺します。自分より下だから、殺し皮を剥ぎ肉を食すのです。
貴い者の為に下賤な命を使う。私達や貴女が上だから下賤の民を殺し楽しむ。自然な事でしょう?」
分かって下さいますよねぇと下卑た声で言われ、噛み潰せそうな程奥歯を噛んだ。
「王太子を慕うミュート様の為に、とっておきの子羊を用意させて頂きました。お楽しみ下さいね?」
扉がゆっくりと開く。
噎せ返るような甘さの香の匂いに酔いそうだ。
部屋に入ると、後ろで扉の閉まる音がした。いつの間にかナイフが握らされていて、手の重みに冷や汗が垂れる。
真紅の絨毯の敷かれた部屋には黒い天蓋付きの大きなベッドが置かれていて、紫の髪の若い女がいた。露出の多いベビードールを着ている女はゆっくりと此方を見て、にいと裂ける程唇を横に引く。
娼婦の亡霊のような女だと思った。
下手したら同じ歳位で、長い髪と白い肌を持っている。手脚や首は折れそうなほどに細く、骨になめした白い皮を張った人形に似た不気味さがあった。雪よりも骨寄りの白さを持つ女。
「ひさしぶりねぇ」
ひび割れた唇が動いて、色素の薄い瞳が歪む。何処を探しだって正気の色は残っていない其れに、何故か鳥肌の立つ思いがした。
血が滲んでいる指先が小刻みに痙攣している。美人と言える顔だが痩せぎすだし歯が何本か欠けていて、美しいとは全く思えなかった。薬を使っているのかもしれない。
何処かで見た事があると思うが、それが何処か思い出せない。こんな死神のような女、一度見れば忘れないと思うのに。
レースが隠さない女の腹は、不自然に膨らんでいた。
「わすれたの?ひどいわぁ。ゆるさなくていいっていったからまっていてあげたのにぃ。ゆるさないわぁ」
カタカタと女の首が左右に振れる。
唇が引かれ、薄い瞳が細まる。けれど笑ってない、まるで譫妄。これを笑顔と取れる奴は頭が可笑しい。
許さなくて良い。そんな事をいったか?何時。
混乱状態の中頭が最高速で回り、記憶のページを捲り始めるが思い出せない。この気狂いは誰だ。
「ひどいわぁひどいわぁ。ずっとゆるさなかったのはわたしだけぇ?うふ、うふふふふ」
震える女が自らの身体を掻き抱く。
甘い匂い、香の匂い。錯乱させる成分でも入っているのだろうか、大体の毒なら効かないがこれも大丈夫なのかは分からない。
「いいのぉ。あのこがこのこがいるからぁ。そのこがあなたを、うふふふふ。わたしはまま。あれ?ぱぱ?ぱぱーどこー???」
腹を抑えた女が掠れた声を出す。やはり妊娠しているらしく、膨れた腹を引っ掻きながら高い声でいきなり叫ぶ。正直無茶苦茶怖い。
っべー。っべーわ、まじで。
家具はベッドだけの歪で殺風景な部屋、調度品も全く無い。監禁か薬漬けか女の眼は常軌を逸しているし、隠すべき肌を全く隠さないベビードールが高級品なのが本当に不釣り合い。
ああでも分かった。この女はあの時の少女だ。
領地を没収されて庶民に堕ち、国外に追放となった筈なのになんでここにいる?
嫌な予感が脳裏をかけて全身に巡る。血が巡らなくて氷より冷たくなった頭で、痺れて痛む舌先を動かす。
「……………ひさしぶり、メアリー」
女の返事は無い。ただきゃらきゃらと甲高い声がした。
目の前の女、メアリー・バルベは地方の貴族の娘だった。
だった、と言うのは彼女の父が罪を犯して没落したからだ。没落した、も正しくない。没落させた。
十年程前王太子の婚約者である自分を監禁し絞殺しかけた罪で彼女の父の髭面は処分されたが、そうなるように誘導したのは紛れもなく当時八歳だった自分だ。反省も後悔もない。領民と領主を天秤に掛けて領主を切り捨て、死者を二桁減らす事を優先した。
正しかったと言うつもりはない。目の前のメアリーや甘い蜜を吸っていた連中にとって自分は悪魔より酷い極悪人だ。
されど悪で結構、独り善がりで結構。唯のエゴなのに褒められたい道理がない。貴様等の中に処刑者が出なかった分マシだろうと、率先して記憶の隅に追いやった。
そうして別れた女が何故国に戻ってきてラリって妊娠して此処にいるのか。
「………子供の父親はだれ?」
「うふ、ちちおや?きょうしゅさまよ、わたしをみつけてくださったの、あのかたのおかげでわたし、しあわせ。このこもしあわせ」
悦の表情で女が答える。教主。フロロー教の最高権力者。何度も顔を合わせたし呪詛を噛み殺して跪いた。
女好きで若い娘を特に好む生態の蜥蜴で、罪を罪と思わない思考回路の持ち主でつまり大体の元凶。
見つけて下さったと言った。なら国外追放された後教主に「見つけられて」此処に来たのだろう。
………捕まったの方が正しいだろう、その状況じゃ。
彼女がどんな旅路の果てに此処に至ったのかは分からない。分からないが、手の中の重みと子羊の言葉から吐き気がする程此処に送り込んだ男の思考が読めた。
顔を歪めた自分に、メアリーが嬉しそうな顔をする。
虫の脚を捥ぐ子供のように無邪気に、涎を垂らしながら。
「このこおんなのこなの。あめのひにうまれるってきょうしゅさまいってたわ。あめのひにおんなのこがうまれたら、あなたはいらなくなるでしょう?」
狂った愉悦の表情に顔が強張る。
恐ろしい事に、雨の日に生まれた高位の令嬢は未だ居ない。咽び泣きたい程残念だ。
確かに父親が教主なら、二十近く歳が開いていても王妃になれる。妻の母親と歳が同じとは是如何に。流石に殿下はロ○コンでは無いので、ご褒美にならなそうだが。
腹が膨れ瘦せ細り焦点の合わない眼を彷徨わせている彼女は、自分と同じ年月生きている。何が有ったか知らない。知る予定もないし、知る事も無いのだろう。
女が笑う。初めて表情が笑みだと明確に認識できた。
だから、だからねと譫言を言う女にゆっくりと近づく。
人一人分の距離まで歩んだ所で口を開かれる。
「あなたの大事なもの、全部奪ってあげる」
あなたのこと、ゆるさないもの。
歪んだ色は、人間を辞めていた。
きひきひきひ、と見えた歯茎に目を伏せる。一等大事な物などとうの昔に喪ったというのに、出し殻の欠片すら奪おうとは恐ろしい女だ。ああでも、自分には相応しいかも知れない。
奇妙な縁だ。
運命などは信じていないが、悪くない縁だ。
其れなら、と笑って女の腹に触れる。滑り落ちたナイフが絨毯に落ちるが、皮膚の向こうの胎の温度と鼓動が伝わって口角が上がった。
暖かい。この手の向こうに、小さな命が有るのか。
微笑んで、女の子だと良いねと呟いた。
勿論胎児の性別を知る手段など無いが、雨の日に生まれて来れば良いと思う。そうでないときっとこの小さな命は直ぐに殺されてしまう、それはいけない。
動かない事を不気味に思われたのだろう、手を振り払われて一歩後ろに下がる。目を合わせないまま屈んでナイフを拾うと、背を向けた。あんなに甘ったるかった匂いも殆ど感じず、異常な程静かな部屋で振り返らずに扉へ進む。当然鍵はかかっていなかった。
結局、最後の最後まで彼女と眼は合わなかった。
もう会う事は無いと勘が囁くし、きっと此れは最期の逢瀬だ。予想以上の未練の無さが少しだけ心苦しい。
道は、きっととっくの昔に分かたれていた。
戻った鉄の扉の向こうには、此処に連れてきた司祭が居た。
「……………ミュート様、お楽しみ頂けなかったようで」
不満気な顔をした醜男に目を伏せ、申し訳無さそうな顔と手を震わせる振りをした。
「分かっているのですか?あの娘は貴女様の脅威となるのです。子供が女子であれば、磐石である貴女の地位は必ず揺らぎます。殿下を慕っておられるのなら、取るべき行動は一つでしょう!」
ああ、やっぱりか。
腹の底から湧き上がる不快感を隠すように爪先を握り込む。やっぱり、殺す為に呼ばれたのか。
自分が人を殺さない事に彼等が焦れている事は気付いていた。大勢が狂乱の最中に居る中一人だけ部屋の隅で震えていれば目立つし、人とは個人を集団にしたがる生き物だ。
簡単に殺せないが何時迄も特例を認める訳にもいかない。なら殿下に執着しているので殿下との仲を引き裂きかねない女を殺させよう、丁度此処に遊ぶのに飽きた娼婦が妊娠している。こんな所か。
司教まで話が通っているかは知らないし目の前の男の暴走の可能性も有るが、どちらにせよクズとしか言いようが無い所業だ地獄に堕ちろ。
けれど今必要なのは此奴を如何に素早く・苦しませず・見つからずに殺す方法では無く殺さなかった事へのケリクチだ。ナイフで刺したい衝動を堪えて頭を働かせる。論理的な言い訳は違和感が有るので感情論で、怯えか恐怖か忠誠か。
「申し訳ございません司祭様、けれど私にはどうしても………」
「何を甘い事を言っているのです、次期王妃となるなら冷酷である事も必要でしょう!その様では貴女が座る椅子など何処にも無くなりますよ!」
冷酷さが足りない、とは面白い事を言う。少なくとも数年来の男を殺したい程度には自分は冷酷だったつもりなのだが、それでは甘いと。
「でも、私が何もしなくても椅子は用意されているでしょう?教会の皆様もそう言ってくださいますもの、皆様の言う通りにしていれば良いのでしょう?」
幼子のようにぎこちなく笑うと男の溜飲が下がったように冷静さが戻る。ちょろいちょろい。
「………ちゃんと我が教の言う通りにしますね?」
「勿論ですわ!幼い頃からずっと信じているのです、教えに背くなんてありえませんわ!」
きっと未だメアリーは殺されない。自分が手を出さないと宣言した今、女の子を産む可能性を残している彼女を殺す理由が無い。
満足気に頷く男に対し、顔を笑みの形に動かす。
嘘ばかりだ。教会など指先程も信じた事など無い癖に。
十年前の許さないを呟き続けるメアリーのように、小さい頃の記憶は人格となり今に繋がる。幼い記憶は其れだけ重要なもので、心を造るものだ。
自分という人格はとっくの昔に、彼等を信じる余地など無い程に完成してしまった。聖書の一句ですら諳んじられない今では、どうやって裏切ろうかだけを考えている。
小さい頃から貴方がたを潰す日だけを信じているので、その想いを反故にするなんてありえませんわ!
腹の底に積もった思考を圧し殺せば、ぐちゃりと音がする気さえした。
何時か、そう遠くない未来に彼等を暗い崖から突き落とそう。その為の準備は殆ど出来た。
彼等が笑って蔑んだ命と似た場所に送ってやる。光量も居心地も違うだろうが其処が獣には相応しい。
彼等を殺して、そして、自分も。
浮かんだ思考に、擦り切れるほど繰り返した答えに。
もう一度だけ、わらった。




