或る王子の分岐
或る夜のことだった。
学校生活も軌道に乗り、後三月程で一年が終わる頃。
授業や鍛錬を終わらせ眠りについた、普段通りの一日を過ごした後の夜だった。
ノックされた扉を開けると、婚約者が立っていた。
しかも深夜三時。
訳が分からなかった。俺は寝ていた筈だ。夢か。
「夜遅くに申し訳ありません、警護に見られるわけにもいかないので入って良いですか?」と首を傾げられ、手の中の護身用のナイフが音を立てて落ちた。
この部屋は王太子の為の寮の個室だし、確かに配置されている警護の兵に見られる危険もある。体を退かして道を作ると、「失礼します」の声と共に黒髪が体の横を通る。
混乱は最高潮だが表に出せない。対して彼女はいつも通り、思考の読めない笑みを浮かべたままだった。
扉を閉めて、彼女の出方を伺う。
正直何が何だか全く分からない。
思わず「何だ?」と呟いていた。なんで来たか、 とどうやって来たか、の二つの意味で。
他にも言いたい事は多く有るが一々聞いていたら文字通り朝になる。朝になれば彼女がここに居る事がばれ、周囲が非常に面倒臭い事になる。
母辺りは狂喜乱舞しそうだが、年頃の男女が一晩同じ屋根の下とは貴族としても王族としても失態だろう。
それは彼女も知っている筈だ。けれど、彼女が大人しく身分を弁えた行動をとる姿が想像出来ないのも事実で。
そもそもどうやって此処まで来た。
問うと、軽い調子で「隠し通路です」と答えられた。折り畳まれた紙を差し出される。広げると、精巧な学園の見取り図に真新しいインクで、何本も線が書き込まれていた。
その中に、女子寮と男子寮を繋ぐ線を見付ける。
「男性が女子の所に遊びに行く為なのか、気に入った女子を呼び寄せる為なのかは分かりませんが、まあそういう用途でしょうね」と笑って言われた。
「廃れていたので忘れ去られた通路でしょうが、まだまだ使えます。少々埃臭いのが難点ですが、いつかご入用であればどうぞ」
……つまり、ここからやって来たと。深夜に。
…………頭が痛い。
過ぎたものを言ってもどうしようもない。彼女の奇行には慣れていて、諦めもつく。
何故来たかと聞いた。ミュート・アクスバリという生命体に質問する時は、理由と方法と結果を聞く事が大切だと学習済みだ。定期的に突拍子も無い、常人には思いつかない行動を取るから。
彼女は笑った。花のように朗らかに笑って、言った。
「遊びに来ました」
…………は?
大丈夫です朝迄に帰りますよと手を引かれ、いつの間にか椅子に座っていた。向かい合わせた机の上には、馴染みのあるチェス盤が置かれる。
白でいいですよね?の言葉と共に、駒が並べられていく。
質問ではなく確認だった。実際俺は彼女と対戦する時白しか持たないし、口惜しいが勝ったこともない。
如何してここに来た。如何してわざわざチェスをする。
頭に浮かんだ疑問は、けれど口まで届かない。
拒否する事は簡単だ。夜遅くに来るなと、そう言えばいい。扉を開けるまで、眠りを妨げた相手に怒りを抱いていた事も事実だ。
けれどそれを言ったら、きっと彼女は笑うのだろう。
申し訳なさそうに笑って、謝って、一人で部屋に戻るのだろう。
それが分かって居るから、言えなかった。
代わりに黙って駒を並べた。言いたい事は多々あるが、言葉にならずに消えていった。
ポーンを摘んで前に出す。
E4まで進んだ駒の前に、黒のポーンが正対する。
一番多い、けれど確かとされている手順だ。今まで何度も繰り返した。
掌中の白が、盤面を駆ける。
ぶつかり、避けられ、追い詰めて。何百手も先を読む事など出来はしない。数手先を何通り、十何通りと読んで考え付く限りの最善を選ぶ。
密かに張られた相手を殺す為の伏線を避けて、どうか死んでくれ、と未だ届かない黒いキングに標準を合わせた。
両手の指より少ない歳から、ずっと盤上で殺し合っている。
勿論彼女に殺意を抱いている訳では無い。寧ろ感謝している位だ。
ずっと、誰相手でも勝っていた。
幼少期、宰相や家来相手の対局は全て手加減されていた。王太子相手に不敬にならぬ為当然では有っただろうが、それでも物足りなさは拭えなかった。
そんな時、城に通っていた同い年の少女に、見事に叩きのめされた。
なぜチェスをしたのかはよく覚えていない。
胡散臭い笑顔に腹が立って、勝負事で勝って優位を示そうとでもしたのだろう。当時習い始めたばかりの剣を少女に向ける訳にも行かなかったので、8×8の盤上で。
その結果無様に負けたのだからざまあないが、ムキになって再戦を挑む中には確かに嬉しさもあった。
対等に見てくれる相手もいるのだ、と。
頂点に立つ王太子としては望ましくない感情だが、両親は互いを対等に、かけがえのない物として見ている。
あれを見て憧れない方が無理だ。
彼女に対し、恋慕はないが得難い物だという自覚は有った。ならば婚約者である事に異論はない。
白い手袋をはめた手が、同じ位白い駒を取る。
妹が間一髪で救出され彼女が怪我を負った日、急いで父の元へ走り、全てを伝えた。
彼女が言い出したとは言わなかった。手柄目当てでは無い。
違ったら迷わず責任を取ると言った彼女を、恐ろしいと思った。無用な心配を掛け大騒ぎしたと軽蔑されるのが恐ろしかったのは彼女も同じなのに、人が殺されようとしていると気付いてなお、彼女は狼狽えなかった。あっという間に何が最善か考え付き、それを実行し、守り切って見せた。
半開きの扉をやっと見つけて覗いた時、彼女がぴくりとも動かなかった時程の恐怖はない。
恥ずかしい話、少しも動けなかった。
死んでいる、死んでしまったとそればかりで、それがどういう事なのかすら良く分かっていなかった。
さっきまで動いていた筈なのにもう二度と動かない事実が、受け入れられなかった。
まあ実際動いた訳だが。
けれど彼女は怪我をして、今は人前で絶対に手袋を手放さない。色々面倒なんですよ全部終わったら焼捨てますと笑っていたが、全部終わったらとはどういう事なのかは、聞けなかった。
彼女は、恋愛感情がない。
彼女は俺を、恋愛感情で見ていない。
今の彼女に俺以外の選択肢が無い事も、俺自身が優れた容姿である事も知っているが、それでも彼女は、俺にそういう意味で近づかない。
嫌われてはいないのだろう。けれど、彼女は誰かに恋をしない。直感だが、心の底からそう思う。
じゃあ俺は?
俺は、彼女を
……飛んだ思考を、駒の音が弾き飛ばした。
全く盤を見ていなかったが彼女が咎める様子はない。それはそうだろう。彼女は対局中、盤しか見ない。8×8の世界で、対局相手は駒を進める道具でしかないのだ。
中盤から終盤。駒の配置から、勝負所だと理解する。駒数は此方の方が少ないが、状況はやや有利。
選びうる手は二つだ。
クイーンを取るか、ナイトを動かすか。
勝ったら、彼女に、初めて。
背に汗が浮かぶ。恐ろしい程甘く鋭い緊張だった。
勝ちたい。殺してやりたい。
欲しい?
ほしい。
盤の上に視線を上げる。
黒いワンピースの地味な服装だが、粗末であるとは思わない。寧ろ彼女らしくて好感が持てる。
肩から首にかけての曲線は女特有のもので、襟から覗く白い肌のその人間に、初めて欲を覚えた。
白い顔と、それに掛かる黒い髪を見る。
知っている。あの黒髪は、強い光に翳すと黒茶色に見える。茶色を濃く、濃くした黒だ。
それに比べて眼は。彼女の瞳は、何処までも漆黒だ。
虹彩と瞳孔が全く同じ色をしていて、境目が分からない程の闇色だ。動かされる駒のように、その瞳に光は無い。
こんなに見ているのに、彼女は盤しか見ない。
白黒の世界に、心の奥底から沈み込んでいる。
交わらない。
目の前の黒を、初めて欲しいと思った。
衝動のままに、女王を取る。
相手に変化は無い。落ち着いた手つきでポーンを進める。
盤面が進み、多くの駒を取り、キングを隅に追いやられる。
落ち着いた手で、チェックとビジョップを引かれる。
指されて初めて、十二手先にチェックメイトがある事に気付いた。起死回生の手は、無い。
ああ、負けたのか。
口惜しいと、強く思う。彼女以外に負けた事はないのに、彼女には勝てない。
静かに、白の王を倒す。
盤の外で、飼い殺した黒い王女が死んでいた。
ありがとうございましたと、彼女が頭を下げる。
真っすぐな背だ。驕傲は何処にもなく、顔からは何の感情も伺えない。
いつもそうだ。盤を前にした彼女の顔には、何も浮かんでいない。普段使っている仮面も本性も何処かに消え失せ、機械じみた黒い目で盤を見る。
若しくは、この能面も作られた顔なのかも知れない。
人なら誰でも、相対する者に対して態度を変える。
彼女は、相手に合わせて彼女という人間を変える。
先程までスカート丈の長さを語っていたと思えば、人のいる道へ続く角を曲がった瞬間に宝石をくれと強請り、誰もいない教室に入った途端に絶対領域に話題を戻す。
複数の顔があるなんて言葉では生易しく、多重人格という訳でも無い。
その本質が何処にあるのか、七年以上共にいてまだ分からない。
その様はとても歪だった。不気味だった。
しばらく待つと、彼女の無表情がゆっくりと笑みに変わり、空滑りする麗句を述べる。
不敬の域を三歩分超えた台詞を吐き、茶化すように昏い瞳を細める。
如何なる時でも、その眼が確と物を見る事はない。
如何なる時でも、その眼の焦点が合う事もない。
如何なる時でも、その眼は光を反射する事がない。
少なくとも俺は、一度も見た事がない。
…………暫くとりとめもない話をしていたが、不意に彼女が時計を見た。そろそろ帰りますね、と軽い声が掛けられる。窓の外はまだまだ暗いが、長かったようにも、あっという間にも感じた。
立ち上がった彼女が、机の脇を歩く。
お休みなさい、と思いの外優しい声が掛けられた。
迷惑な女だ、と漠然と思う。
それは、怒りに似た感情だった。
深夜叩き起こされて、チェスをやろうと言われ、負かされ、こうしてなんて事ないように放置される。
どうせこの女は明日会っても、何も無かったように挨拶するのだろう。
人前で態とらしく声を出して、いない所では不器用に笑って。今迄の事なんて、何も無かったように。
そう考えると、無性に腹立たしかった。
だから、押し留めた。
扉に向かおうとする手を掴んで引き、体勢を崩した胸倉を掴み、壁に押し付ける。
何のつもりだ、と叫ぼうとして声を止めた。
その代わりに、如何して、と小声で理由を問うた。
如何してここに来た。
如何して何も言わない。如何して俺を見ない。
如何して無茶をする。如何して頼らない。
如何して一人で、離れようとする。
聞きたい思いは声にならず、くぐもった音が漏れる。
灯していた二本の蝋燭のうちの一つが、燃え尽きて、消えた。
暗い室内で、静かに呼吸音が聞こえる。
主語が無いですよと、笑われた。
子供を諌めるような、面白がるような声だった。
ねえ、殿下。
さっきの対局、ナイトを動かせば勝っていましたよ。
いつもそうだ。貴方は駒を殺すか王を攻めるかで、必ず駒を取る。無意識に、駒が減って身包み剥がされる事を恐れているのでは?優しいのか、甘いのか。
殿下。貴方は、王です。
チェスと違って貴方がいないと国が終わる訳ではないけれど、それでも貴方は国の頂点に立つ人だ。
優先されるべき人だ。他の大体の事よりも。
どうか、御身を優先して下さい。貴方がいなくなって面倒な政争がこれ以上悪化するのは望ましくない。
機械であれという訳ではなく、王であって下さい。
貴方はその資質を持つ。持ってなくてはならない。
……必要なら兵を見捨てるのも、大切な事でしょう?
ならば私の事など、放って置いて下さい。王家と私の為に、最後まで壊れず動き続けますから。
私は、王妃にはならない。私の為に、貴方の隣に立たない。その為に生きてきたんです。
……どうか、捨て駒であらせて下さい。
私のさいごまで、機械であらせて下さい。
囁くような、唄うような声だった。
ゆっくりと体が押され、二人の間に隙間が空く。
暗い光に映る顔は、微笑っていた。
明日は雨ですねと、当然の事を言うように微笑っていた。
息を吸うより自然に、彼女は異質だった。
浮かんだのは恐怖だった。自分より小柄で見知った彼女を、心の底から恐ろしいと思った。
お休みなさい、と耳元で囁かれる。すり抜けた黒髪を止める事は、今度こそ出来なかった。
ドアの閉まる小さな音を、遠くで聞いた。
もう一つの蝋燭も、燃え尽きて消えた。
随分と昔、母が言っていた事を思い出す。
読めないのよねえ、と言われた。
『リュコス、ミュートちゃんに見返りを求められた事はある?
………わざわざ危険に身を晒して、不利益を被って。なのに何も求めないのよねえ。人に期待していないって訳でもなさそうなんだけど。ほら、いきなり金銀財宝を押し付けて何も言わずに去っていく人間が居たとしたら、理由が分からなくて不気味じゃない?それと同じなのよ。
お願いした私が言うのもあれだけど、もう少し仕事を選んでもいいと思うし、もっとリュコスに近づいてくれても良いのよ?』
わざわざチェスの時にやってきてまで、彼女に話しかけていた。「十分お相手して頂いてますよ」と彼女は答えていたが、無機質な笑い方だった。
…………疲れた。
ベッドに倒れこみ瞼を閉じた。どうせ彼女は一人で帰れるだろう。見付かる愚を犯すなら、とっくの昔に死んでいる。
ずっと昔からそうだ。
まだ十歳位の時、パーティで彼女は嫌がらせを受けた。
紅茶をかけられる程度のものだったが、助けようとした俺を諌めたのは彼女だった。
助けるな、と。殿下を慕ってやばい事をする令嬢を演じたいので、両想いとか本当無理です。適当に頻繁に話しかけますから、殆ど聞き流してうざたがって下さい。
出来ないと何度も言ったが、彼女の方が遥かに弁が立つ。あっという間に言い包められてしまった。
それから何度も無茶をされた。廃墟で燃えかけたりオークションで売られかけたり煮えかけたり。
見えないだけで、服の下には多くの傷跡があるのだろう。
それでも彼女は笑う。なんて事ないように。何も無かったように。
彼女の考えが分からない事に、腹が立つ。しかし同じ位眠い。
そう言えば明日は休みだ。一瞬安堵したが、彼女がそれを見越して来たのだろうと思えばまた腹が立った。
身体が、眠りに沈む。
次は勝ってやると闘志を胸に秘めながら。
きっと今宵は、彼女の夢を見る。




