名前の呼べないいとこ(三、会社へ)
璃久の仕事が決まった次の朝。
さくらはかっちりとしたスーツを着こんで「こんな服装だと場違いかな?」とひとりごとをいいながら、デザインケースに入れる中身を整理していた。
そのうちに、部屋中に広がったこまごまとしたスケッチやボードに貼られた古い作品にうんざりしてきて『はあっ』とため息を漏らした。
「描いたもの全部持ってこいって言ってはくれたけど、会社の人に見てもらうのに、一体どのくらいの程度のものなら持っていっても失礼にならないの?私には分からないよお母さん!」
さくらはこう言って、ごろんと寝転んで璃久の膝に頭をのせた。
「服がシワになっちゃうわよさくらちゃん。お母さんだってわからないわよ。大丈夫よ、そんなことであれこれ思ったりしないわよ。全部素敵じゃないの、持っていけばいいのよ」
「でもこんなデッサンみたいなのじゃ失礼だよね。それにこのボード、裏に学校の先生のコメントがあるでしょ?こうなるとあまりにも素人くさい感じでみっともないよね」
さくららしいこの発言を璃久は笑い飛ばして、こう言った。
「まあ、プロだったの?それなら鉛筆で薄い紙にササッと描いたデッサンだけを持って行くといいわ。それで『私は色なんてのせません!』とか言ってみたら?それっぽいじゃない」
「ひどいよ、悩んでるのにさ!最近ほんとに意地が悪いわよお母さんは」
「だって相変わらずかわいい生意気言うんだもの。面接で懲りたんじゃなかったのかしら?」
「ほうら!よくそんなこと言えるよね。ほんとうはすっごく意地悪だったのねお母さんは!」
さくらはこう言いながらもまだ璃久のひざに頭を乗せたまま起き上がろうとしなかった。
「なあに?お母さんに手伝ってほしいの?それなら素直にお願いって言ってごらんなさい。ここにあるものをまず綺麗に仕分けて、小さいものはまとめてボードに貼付けたり、色画用紙をファイルみたいに二つ折りにした中に指輪やネックレスのグループごとにまとめて挟んだりとかしてほしくないの?」
璃久がこう言うと、さくらは璃久の膝の上をゆっくりとした動作で反対側に向き直りしばらく何も言わなかった。
「どうするの?時間切れになってもいいの?」璃久はわざと怒ったように言った。
「わかったわ。私がほんの少しだけ見栄っ張りの気持を持ったことを笑ってるんでしょ?認めますよそれは。あと『こんなデッサン持って来て、こいつバっかじゃねえの?』なあんて他のデザイナーに思われたらたまらないからって、ビクビクしてたことも認めるわ。それからね、あの社長にこれ以上変な印象をつけたくないって思ってることも正直に言いますよ。さあこれでどうでしょうか、時間切れになる前に滑り込めましたでしょうか?」
さくらがこう言うと、璃久はようやくにっこりと微笑んだ。
「もちろん大丈夫!待ってたんだから。さあ早く一緒にかたづけましょう、きっと素敵なのが出来るわよ。それに今日はお母さんに意地悪されたからもう大丈夫、会社ではいじめられないわ。もし誰かにデッサンを『こいつばっかじゃねえの』なんて言われたら、ほら、その時こそ言うのよ『私は色なんてのせません!』ってね」
さくらはけらけら笑ってやっと体を起こした。
そして璃久に促され、ちらかった作品達を拾い集めて楽しい作業に取りかかった。
三、四十分もしないうちに多くの作品がきちんと整理され、それぞれの場所に美しく収まったのを見て、さくらは心から言った。
「お母さんありがとう!あんなにみすぼらしかったのに見てよこれ。きっと誰が見ても見やすいと思うよ。見たくなければファイルごとよければいいんだもの」
さくらがこう言うと、璃久は嬉しそうにこう返す。
「ええ、そういう気持が大事よね。でもお母さんはそんなふうに思わなかったわ。ただ見栄え良くしてあげたいって思っただけよ、それこそ見栄っ張りみたいに」
「それは違うと思うけど……でもこれでもう何か言われたり思われたりしても私は平気!なんとか持ちこたえられそうよ」さくらは力強くこう言ってデザインケースの中に美しい作品達を閉じ込めた。
璃久はさくらが「顔の最終チェックだよ」といいながら鏡の前に立って髪をとかすのを後ろからじっと眺めていたが、ちょっとした気まぐれのような気持から「久しぶりに髪を編み込みにしてあげようか」と言い出した。
さくらはすぐに大喜びで頷いて璃久の前に座りこんだ。
璃久は髪を丁寧に編み込んで左右の三つ編みを交差させた。
それを下のほうでまとめてピンで止めると「すごく可愛いわ」と言ってもう一度鏡の前に立たせた。
璃久は鏡の中のさくらににっこり微笑んで「頑張ってね」と言って背中を押してやった。
さくらは璃久がいってらっしゃい、と安心した表情で自分を見送る姿を見て、今自分達は本当に幸せなんだと思った。
後で家に帰ってくれば母が、母だけが待っていてくれるのだから。
そしてしっかりとデザインケースを抱え、今度こそ自尊心だけでなく、あの帰らない日に作文に込めた『思い』のようなものも確かに胸に携えて二人の小さな家を出た。
さくらは十時ちょっと過ぎに会社のある駅に着いた。
駅から会社までは静かな住宅地を歩いて十分ほどの距離で、途中には小さな公園や喫茶店があった。
さくらは、公園で暇つぶしをするために近くまで来たのだが、小さな子供達や連れ立っておしゃべりしている母親達の姿に圧倒されてすぐにそこを離れた。
会社の前を通り過ぎてうろうろしているうちに、偏屈じいさんの面接のことを思い出してつい笑ってしまったりした。
――(昼間っから仕事もしないでこんな馬鹿をやってる娘、って怒ってたっけ。本当にそうよね)
さくらは、あの時のことを全部思い出したら大声で笑い出してしまいそうだったので、これ以上考えるのをよそうと自分に言い聞かせた。
しかし、次から次へとあの時の自分の姿が浮かんできて耐えられなくなり、ついに知らない一軒家の前で顔を押さえながら吹き出してしまった。
――(あの八百屋さんが渡そうとしたサングラスをお母さんに取られたときは死にたい気分だったわ!お母さんたら、わざとめがねなんて言ったりして!)
さくらはこんなことを思い出してニヤニヤしながら佇んでいたのだが、ふと、道路の向かい側の角のところに面接の時にいた若いデザイナーが分厚い眼鏡を触りながら立っているのを見つけた。
彼は不思議そうな顔をして、ぺこりと頭を下げてきた。
さくらは慌てて頭を下げたが、すぐに今の自分の様子をずっと見ていたのかしら?と心配になり、体中が熱くなるのを感じた。
その若いデザイナーは歩き出そうとしたが、すぐにまた立ち止まってさくらのほうを振り返り、
「会社の場所がわからなくて迷ったんですか?」と声をかけてきた。
さくらは思いがけない質問にびっくりしたが、逆にこの問いかけからすると自分がニヤニヤして一人笑いをしているところは見られていなかったのだとホッとした。
さくらは丁寧にこう言った。
「いいえ、早く着きすぎてしまって時間つぶしに歩き回っていたんです。でもありがとうございます」
若いデザイナーは困ったように口元に手を当てながら「そうなんですか」と言ったが、そのまま黙って何か考えている様子だった。
さくらは、もうしばらくしたら時間通りに会社に行く、ということを伝えようかどうか迷っていたが若いデザイナーのほうが先に話しかけてきた。
「中の様子を見てきましょうか、入りにくいんですよね?もう来ているはずなんですが時間より早いのが気になりますか?」
彼はさくらの返事を待たずに、すぐにレンガの建物に向かって走り出した。
さくらは控えめなこの気遣いが嬉しかったので、自分も彼の後ろを小走りについて行った。
彼は会社に着くと「あの人は、社長は早く着いても気にしないと思いますよ。ちょっと待っていてください」と言いレンガの階段をかけ上りった。
さくらは、数段ほどしかない階段下で真っすぐに立って待っていた。
ほんの数十秒ほど経っただろうか、さくらが恐れた意地悪社長が姿を現した。
社長は階段の上から下にいるさくらを見つけると、ほんの一瞬、びくりと肩が揺れた。
凍りついたように大きく見開いた目は、まるで睨みつけているようにも見えた。
しかし、その厳しい目つきとは裏腹に社長の声は優しかった。
「時間つぶしなんてしなくてもよかったのに。さあ、どうぞ入ってください」
2000年前後




