名前の呼べないいとこ(二、偏屈じいさん)
「お母さんは馬鹿なのかしら?」
璃久がこんなことを言うので、さくらはびくっとしてしまった。
「なに、どうして?なんでそんなことを言うの?」
「だってまだドキドキしてるのよ。これから自分の面接だっていうのに、さくらちゃんの会社のことで頭が一杯なの。そんな場合じゃないのにね。大事な時にこんなに浮かれて馬鹿みたい。でもいいわ、どんよりした気分で行くより浮かれてるほうがまだまし!相手だってそのほうがいいに決まってるもの」
璃久はこんなことを言いながら急に立ち止まったり、意味もなく振り向いたりしながら商店街の惣菜屋に向かって歩いていたが、途中でさくらをおだてて根掘り葉掘りと面接でのことを聞き出そうとするので何度もさくらに怒られた。
さくらはもういいかげんにしてと言いながらも璃久のそんな姿が嬉しくて、適当にいいところだけを話して聞かせて、自分の失敗については相変わらず言わないでおいた。
偏屈じいさんの惣菜屋は商店街のちょうど真ん中くらいにあり、真向かいが棟続きになっている魚屋と八百屋だった。
さくらは、偏屈じいさんにかかってきたはずの『注文確認の電話』の話を思い出しげらげら笑った。
「お母さん見てよ!じいさんの悪口を言う八百屋さんがあるよ。ここが決まったらじいさんが本当はいい人なんだ、ってはっきり言ってあげなよ」
「もちろんそのつもりよ!見てよさくらちゃん、あの人こそ意地悪そうよ。絶対におまけしてくれないタイプよね。口元が下に曲がって意地悪そうよ」
こんなことを言って笑いながら、二人は素知らぬふりをして店の前を通り過ぎた。
そして、さくらの時間つぶしの喫茶店を探すことにした。
惣菜屋を少し過ぎたところに昔風のコーヒー喫茶があるのを見つけると、さくらは面接には少し早目に行ったほうがいいからと璃久の背中をポンと叩いて「頑張って」と言って送り出した。
璃久は少し不安そうな表情でさくらのほうを何度も振り返った。
そして、惣菜屋の手前で思い詰めたように立ち止まると、さくらのほうに戻って来てしまった。
さくらは「お母さん、何してるの!せっかく早く来たのにこれじゃ意味ないでしょう。店に入るまでここで見ていてあげるからもう行ってらっしゃい」と、もう一度璃久の背中を押した。
璃久は「今になって緊張したりして本当に自分は馬鹿だ」と言ってため息をつきながら、とぼとぼとした様子で惣菜屋のおじさんのところに向かっていった。
さくらはずっと璃久がこんなところで働くのは嫌だ、と心密かに思っていたのだが、いざ商店街に入ってみると、璃久が勇気を出して環境の変化に踏み出すところが見たくなり、偏屈じいさんの惣菜屋で働いても許してあげようか、などど思い始めていた。
そして璃久が店に入るところを見届けると予定通り喫茶店などには入らず、色の付いたサングラスを持ち出してコソコソとそれをかけ、髪の毛を束ねた。
さらに、カバンに忍ばせていた薄いベージュのスカーフを取り出して肩に巻き付けた。
こうしてニヤニヤしながら下手な変装をした後で、もう一度惣菜屋のほうに戻った。
さくらはさっき『いい場所』をチェックしておいたので、璃久と偏屈じいさんの感激のご対面をいい角度から見ることが出来た。
偏屈じいさんが履歴書をチェックしている間などはどうでもいいので、八百屋のほうをふらふらしたり、ケーキ屋をのぞいたりして時間つぶしをして歩いた。
商店街は道幅が広く、床は石畳になっていて綺麗に舗装されていて、
――(きっと大型スーパーに負けないようにと昔風の商店街を綺麗に舗装して、地元のお客さんを取り戻そうと必死なんだわ)
などど思いながら、狭い範囲をぐるっと一回りしてから、さくらは惣菜屋の近くに戻って来た。
通りの真ん中の、ちょうど惣菜屋から斜めに位置する場所に衣料品のワゴンが出してあり、そこに立つと璃久の姿が正面側から見ることが出来るので、偏屈じいさんが履歴書を確認し終えるであろう、ちょうどいいくらいの時間に、さくらはバーゲンの衣料品を見る振りをして璃久の面接を見守った。
璃久が言っていた通り、偏屈じいさんは気難しそうで、ムッツリと怖そうな感じだった。
さくらは璃久が何か質問されたことに答えている姿を見たが、じいさんはかすかに頷いてみせるだけで、黙って横を向いたままピクリとも動かず、何か考えている様子だった。
さくらは『もったいつけてないで何か言いなさいよ!偏屈じじいのくせしてさ!お母さんみたいな人が働いてあげようとしてるのに!』――などど無礼なことを考えながらじっと二人を見守った。
しばらくして、ンンーッと大きな咳払いをした偏屈じいさんが、カレンダーを指差して何やら話しているところが見えると、
――『出勤日の予定を決めてるんだ!』と、わくわくしてきたさくらは何を話しているかをもっと知りたくなり、惣菜屋のほうにゆっくりとにじりよった。
さくらは、璃久と偏屈じいさんの会話の様子ばかり気にしていたので、ワゴンの反対側の足元に紙袋を入れた大きな段ボールがあることなど全く気がつかなかった。
さくらは璃久の真正面に移動しようとして下を見ないで進み、見事に段ボールをひっくり返した。
転ぶのを必死に堪えたさくらは大きくよろけてしまい、サングラスは遠くに飛んで行き、自分の靴のヒールを石畳の溝に引っ掛けてしまった。
口が下に曲がった八百屋のおじさんがサングラスを拾い上げて「あんた、大丈夫かね?」と心配そうに声をかけてくれたので、さくらはついさっき母と言った悪口を後悔した。
慌ててしまったために、さくらはつい大きな声を出してしまった。
「すみません、ありがとうございます。すぐ拾いますから!」
すると、魚屋のおばさんまで飛び出して来て紙袋を拾い集めるのを手伝ってくれた。
さくらは「すみません、すみません」と言って必死で紙袋を拾い集めていたが、最悪なことにとうとう「なんだ?どうした」と大声で怒鳴りながら偏屈じいさんまで出て来てしまった。
さくらはじいさんの声にぎょっとして、せっかく拾った袋を取り落としてしまった。
そして、最後には璃久がゆっくりとおじさんの後を追うように歩いて来て、店の前に一つだけ飛んでしまった小さな紙袋を拾い上げた。
璃久は紙袋をダンボールに戻そうとさくらの側にやって来て「あっ!」と叫んだ。
そして口をぽかんとあけてさくらを見た。
さくらはおそるおそる振り向いて「お母さん」と小さな声で呼びかけたのだが、その時八百屋のおじさんが「ほら、あんたの飛ばした眼鏡、忘れないで」と言いながらサングラスを手渡してきた。
さくらはそれを受け取ろうとしたのだが、横から璃久が手を出してきてサングラスを取られてしまった。
璃久は「これは何のマネなの?」とさくらを上から睨みつけてきた。
しゃがんだままのさくらは何も言えず、璃久を見上げていたのだが、さくらが「じつは……」と口を開いた途端、璃久がぷっと吹き出していつものように笑い出してしまった。
偏屈じいさんはすぐに「なんだなんだ、何をこぼしたんだ?」と言って、さくらと璃久の方へやって来た。
そして、ちゃきちゃきした声で「あんたどうしたんだ、知り合いか?早く拾っときな、道の真ん中じゃねえか」と軽く怒鳴ったので、璃久はなんとか笑うのをやめようとしたのだが、上手く出来ずに吹き出しながらこう言った。
「すみません、本当にすみません。娘なんです。私のことが心配でたまらなくてついて来たんです。そうでしょう?全く、こんなふうに眼鏡をかけたりして!」
「なんだいあんたの娘だって?面接にこっそり来たってのか?おかあちゃんが心配でか?大きいなりしてなんなんだい」
こう言っておじさんまで吹き出してしまったので、さくらはそのすきに立ち上がった。
そして紙袋を箱に戻すとガックリ項垂れ、小声で「お騒がせして……」と頭を下げた。
すると、八百屋のおじさんが笑いながらこう言った。
「いやね、変だと思ったんだよ。もしかしたら万引きでもするのかってさ、実はずっとあんたを見てたんだよ。だってさ、きょろきょろして様子が変なんだもんよ。お母さんを見てたってんだから!そんなこと思いもしなかったからさ」
「娘は私の心配ばかりしているんですよ。本当にすみません、こんなところでひっくり返すなんて。さあ、あなたは喫茶店に行っててね、すぐ行きますからね」
璃久はこう言って、今度はさくらの背中を押した。
偏屈じいさんは、笑いながらいいよいいよ、と言って「そんなに気になるならあんたもおいで!」とさくらの背中をグイグイ押して店の中に招き入れた。
さくらは死にたい気分で店の中に入った。
自分でも顔から首まで赤くなっているのがわかるほど体が熱かった。
それをみて、偏屈じいさんは奥に入って冷たい麦茶を出して来てくれた。
「さああんたこれ飲みな。全くどうしたってんだか。おかあちゃんが心配っていうけどさ、一体なにが心配だったんだ?うちがどんなとこだか気になったか?」
じいさんに真っすぐにこう言われ、さくらはしんから焦ってしまった。
「違うんです!母は、母はずっと働いてなかったから、面接でちゃんと言えるかとか気になって……」
さくらはこう言った瞬間すぐに後悔したがもう遅かった。これでは自分があんなにも心配していた璃久の『仕事の初心者』である経歴を、自ら強調してしまったようなものだ。
さくらは『またやってしまった!』と申し訳なさそうに璃久を見たが、璃久は一向に構わないわというような涼しい顔をして偏屈じいさんにこう言った。
「そうなんですよ、実は二十年以上仕事をしたくても出来なかったんです。やっと今、自由に好きなことが出来るようになった訳ですが、娘には仕事そのものというよりは、私があんまりぼんやりしているのでそっちのほうが気になって心配してるんですよ。今日こちらでお時間をいただいている間、本当はあそこの喫茶店で待っているはずでしたの。でもきっと、そっとついて来て見ていたんでしょうね、そうでしょう?」
璃久がすらすらと話すのを見てさくらは驚いてしまった。自分はまだ体を熱くしていてろくにものが言えないというのに璃久はいつも以上に冷静だった。
偏屈じいさんはさくらには見向きもせずに、璃久だけをじっと見てこう言った。
「あんたの娘はしょうがないね、本当のところが見えないんだからさ」
そして、じろりとさくらを睨みつけてからこう続けた。
「あんたのお母ちゃんはしっかりした人じゃないか。何もあんなところで箱をひっくり返すような娘がさ、コソコソ見張ってなきゃなんないようなぼんやりじゃねえんだよ。
全く何を考えてんだかわかんねえな!俺はさ、うちみたいなとこでほんとに働いてもらっていいのかって、そっちのほうが心配だったってのに!
だいたいあんたはこんな昼間っから仕事もしないでこんな馬鹿やってんじゃないか。
で、どうなの?お母ちゃんがここで働いてもいいのか?」
偏屈じいさんは、最後のところでさくらをずんと刺した。
さくらは胸を突かれてますます体が熱くなり、口をチャックで止めたように何も言えずに下を向いてしまった。
すると、璃久は颯爽と微笑んでさくらを助けた。
さくらにとって、実にためになる言葉を使って。
「まあ、娘の許可などいりませんわ。私がここで働かせていただきたいんですから。本当に雇っていただけるのでしたら私、一生懸命働かせていただきます。毎日だって働きたいんですから」
「本当にそう思ってるなら嬉しいね。もう何回も広告を出してそのたんびにろくなのしか来なかったんだよ!俺はさ、いい人間を雇いたかったからね。誰がなんと言おうと本当の本物をさ。
こんな店の親父がそんな生意気言っちゃダメだと思うかい?あんたは」
偏屈じいさんが本気でこう言ったので、さくらはまた胸を刺された。
そして、さくらのほうををチラリと見てきたじいさんに向って、力を振り絞ってこう答えた。
「母を雇ってくださるんならお願いします。母はここで働きたがっていたんです」
「そうか、ものずきのお母ちゃんだがよかったよ。もう広告を出すのはやめようかと思ってたんだから。働く時間は無理しなくていいよ、最初は少しづつやってさ、慣れて来たら考えればいいんだよ。なあにあんたならすぐに物足りなくなるよ、こんな仕事じゃなくって他のをやりたくなるかもしれないけどさ、でもまあ頑張ってやってみな」
偏屈じいさんはこう言って「来週の初めから働いてくれ」と、にっこりと笑った。
給料や交通費の話をちゃっちゃとした様子で璃久に告げると、偏屈じいさんは急に真剣な顔つきになり「ありがとう」と言って璃久にぺこっと頭を下げてきた。
璃久は驚いてしまい、深々と頭を下げてから、もう一度丁寧にお礼を述べて惣菜屋を後にした。
さくらは璃久に背中を押されるようにして商店街を歩いた。
璃久は黙ったままだったが、スカートを柔らかくなびかせて真っすぐに体をのばして優雅に歩く姿をさくらの目に焼き付けた。
璃久は本当に綺麗だった。
日差しの下で見るとそれがよくわかった。
さくらは母を見ながら刺された胸を癒すように音のしない声で叫んだ。
――(来週からこの商店街の惣菜屋で一日四時間働くんですよ!
店のおじさんが帰り際にありがとうって言ってくれたんですよ!
本物を雇いたいって広告を出し続けたおじさんがお母さんを選んだんですよ!
私のことを本当のところが見えてないって怒ったんですよ!)
さくらは璃久の腕に手をかけてゆっくりと歩きながら、偏屈じいさんの言った言葉を一つ一つ噛み締めていた。
さくらの胸を刺した言葉であったが、それはじきに心地よい痛みに変わっていった。
さくらは店を遠く離れてから振り返り、璃久にだけ聞こえる程の声で偏屈じいさんに向かって「ありがとう」と言った。
璃久は「何を言っているの?」と笑ったが、それには答えずこう言った。
「さあ!明日も私の背中を押してよねお母さん!」




