名前の呼べないいとこ(四、社長)
中に入ると、さっきの若いデザイナーの他に男性が二人と、さくらと同い年くらいの女の子が一人、丸いテーブルを囲んでコーヒーを飲んでいた。
社長はさくらを簡単に紹介すると、すぐに奥の部屋に招き入れた。
そこは先日の面接をした大きな窓のある広い部屋で、ここはどうやら制作のためのスペースとしてだけではなく業務に関わるミーティングなどにも使われているらしい。
社長は「こんなにちらかして」とブツブツ文句を言いながら机の上に置かれたものを大雑把によけて、ちょっと待っててねと言って部屋を出て行った。
社長が端によけたスライド式のクリアケースの一番上の引き出しはあけっ放しになっており、企画書のようなものがクリップに止められ入っていて、赤字入りの書きかけのものは別のトレイに載せられていた。
ついさっきまで打ち合わせをしていたのだろうか。
机には、他にもまだごちゃごちゃとメモやら計算機やら、誰のものかわからないタオルなど、色々なものが雑然と置かれたままだ。
木製の彫金机は窓のまわりをぐるりと囲むよう配置され、中央には存在感のある大きく分厚い木製テーブルがどんと陣取っていて、面接の日には気付けなかったが、更に奥に部屋があるのが見えた。
耐火室なのだろうか、上面がステンレスの作業台にレンガが置かれているのがチラリと見えた。
さくらは確かに一度ここに来ていたはずなのに、まるで今初めて入った別の部屋のように感じられた。
先日の面接では、さくらは部屋の様子を観察する余裕もなかったし、社長からもこの部屋からも、
――『この空間に君はお呼びでないよ』と言われているような気がしてひどく惨めな気持ちになっていたため、意地悪社長に嫌われた自分がここにもう一度戻って来て、勤務条件について話をすることになるとは夢にも思っていなかった。
その意地悪社長はというと、ニコニコしながらコーヒーを持って部屋に戻るとそれを「どうぞ」とすすめ、すぐに給料や休日などの勤務条件を記した書類をさくらに手渡し、この内容で大丈夫かどうかたずねた。
さくらは、作文を書いた第一回目の集団面接の時に説明を受けていたのでこれらの条件についてはあまり気にしていなかったが、しっかりと目を通してから今日の目的である『契約』を終えた。
本当なら、今回の募集では入職後に少なくとも数か月から一年程度、会社の本部の方で所謂本業に携わり、その後こちらの部門に配属となる予定だったのだが、急な職員の退職により事務作業が滞っているため、さくらの本社行きは先送りになるとのことだった。
「さっき一人、ぽっちゃりした男性社員がいただろう?あの子以外は皆元々は本社出身でエンジニアだったり、グラフィックのほうやWEBデザインも任せられる優秀な社員だったんだよ。実際こっちでもそういった仕事はやってもらってるんだけどね。まあ、今は知っての通りこっちに私が連れてきたんだが、ぽっちゃり君だけはガチガチのものづくり一本。彼は本当に繊細な作品を作る子なんだよ。でもまだ若いし……私としては本部での経験もさせたいと思っていたから君と一緒にそのうちあっちに行ってもらう予定だったんだ。そのことは聞いているよね?」
もちろん説明会で聞いていたのでさくらが頷くと、社長は「予定が先送りになったことはこちらの都合だから申し訳ないんだが、今、複数抱えているコラボ企画が落ち着いたらあの子と二人であっちで修行してもらおうと思っているんだよ。それまでは――君はここで、ちょっと我々が出来なくなっている部分を手助けしてもらいたいんだ。前後逆になってしまい本当に申し訳ないね」と言い、新人育成の計画シートを見せてきた。
そして、こうも言った。
「一つのことに専念するのももちろん素晴らしいことだけど、この時代、先に何が起こるかわからないだろう?芸術、工芸、文学、音楽、まあなんでもいいけど、その後ろに持っておいたほうがいい知識とか力をね、浅く広くでもいいから身につけてほしいと思っているからよろしくね。色々経験しておくのは大切だし面白いよ、頭も活性化するしさ。若いうちはひとまずやってみるってことも必要だからね。君もどうかそれを楽しみにして、しばらくはここで我々の手伝いという修行をお願いするよ。うるさい連中だが全員が優秀で自慢の社員なんだ」
さくらはここまでの社長の話はもっともであるし、実にありがたいことだと思ったが、更にこの社長は何もできない新人が飛び上がって喜びそうなご褒美話を持ち出した。
「土曜日はもちろん基本的には休みなんだが、午後六時くらい迄ならいつでもここに来て実際に作ってみたり、自分の好きな作業をやっていいことになっているから、よかったら利用してください」
と言い、他のこまかい決まり事についてはそれを記したものを渡すので後で読んでおくようにとのことだった。
そして社長は、小さな会社だから役職名などでは呼ばずに名前で呼ぶことになっている、だから君も『佐倉』と呼んでほしいと言ってきた。
「君はお役所にいたから妙だと思うかもしれないが、そうしたほうがいいという場合以外は私のことを社長なんて言って欲しくないんだよ。あまりそんな状況もないと思うが――社長なんてそんなふうに呼ばれると気持ちが悪いしね。逆に呼ばせる人間の気持は全くわからないよ」
さくらが「ではそうさせていただきます」と言ってぺこりと頭を下げたところで社長がパンと手を叩いた。
「さて、みんなを呼んで来る前にまず私が作品を見せもらおうか。この前みたいに……慌ただしくならないようにゆっくり話し合うことにしよう」
佐倉はこう言って真っすぐにさくらを見つめた。
さくらはどきどきしながらデザインケースの中身を広げ、一つずつ、ついさっき整理したばかりの懐かしい作品達を並べた。
すると、かすかに乾ききっていない糊の香りが広がったので、さくらはつい「あっ」と言ってしまった。
佐倉はすぐにそれに気がついて、さくらをそっと見た。
「ああ、もしかしてやったばかり?見やすいように?うん、グループ分けしてあるんだね」などと言いながら、ひとつひとつ丁寧に調べるように見ていった。
途中、何度もさくらを見てにっこり笑いかけてくるのだが、そうするだけで何も言わないのでさくらのほうは意味が分からずまた不安になってしまった。
佐倉はこまごましたデッサンとずっと以前に描かれたデザイン画を見終えると、先日の面接の時に持って来たデザイン画を非常にゆっくりとした動作で取り上げた。
まずパールのデザイン画を二枚手に取って、うなずくように首を振りこう言った。
「これはなかなか素敵だと思うよ。私はこういうのは好きだね、シンプルで上品な感じがして。揃いのイヤリングは無いのかい?」
「鉛筆で描いたものがファイルにありますが、あまりよく出来なかったんです。先生にもあんまり、と言われました」
「そう、どれなの?見せてごらん」佐倉はこう言って、イヤリングのスケッチを見た。
「ありきたりだなと思うとか?ふうん」
そして、佐倉はふうっとため息をつき、さっきよりさらにゆっくりとした動作で、さくらのセーラー服のデザイン画を手に取った。
佐倉はそれだけをじっと見つめてさくらの顔を見ず、デザイン画だけに視線を落としたままこんな質問をした。
「君はどうして制服にペンダントなんて描こうと思ったの?自分が、自分でそうしたくてこれを描いたの?」
さくらはこんなことを訊かれて不思議に思ったが、責められているようなそんな気持にもなってきて、言い訳をするようにこう言った。
「自分がそうしたくて……ですか?そうです。私はこの制服が、この制服が嫌いな人はいるんでしょうけれど、私はとても気に入っていたので描いたんです。高校の時に友達が、学校に両親の形見のペンダントをして来たんですが、先生に怒られてすぐに外されたんですよ。でもそのペンダントをしている姿がとても素敵だったんです。それでそのことを思い出してこれを描いたんです。『桜』はあまり私が好きな形に作られたペンダントが見つけられなかったのですが……もちろん、もしかしたら素敵なものがあるのかもしれませんが、桜の花びらの形が私は好きですし、それに愛着もあるから、そんなわけでやってみたんです」
「『桜』は君の名前でもあるしね。これを私や学校の先生以外の誰か、他の人に見てもらったことはあるのかい?」佐倉はまだデザイン画だけを見つめてこう訊いた。
「いいえ。このデザイン画はここに入りたくて必死で仕上げたものなんです。自分としては馬鹿みたいにすっかり気持を入れて作ったものだったんです。だから、今までに他の会社もたくさん受けて落ちましたけど、まだこれは持って行ったことも批評してもらったこともありません」
さくらは正直に言った。
佐倉はこの『落ちました』という言葉に反応して、さくらのほうを見て少し微笑んだ。
「そうか、でも友達やうちの人には見てもらわなかったの?」
こう言われてさくらは少し気が抜けてしまったので、ごく自然な感じでこう答えた。
「友達同士で感想を言い合うことはあまりありませんでした。学校で会うのは夜、仕事の後それぞれが通える時間だけでしたし。ただ今回、母にだけはこれを見せました。母は……実は母はこの制服が好きではなかったようなんですが、私のペンダントをつけたこのデザイン画は気に入った、と言ってました。もしかしたら、私が何度会社を受けても落ち続けていたので励ます為に言ったのかもしれませんけど」
「お母さんはこの制服が嫌いって言ったの?ふうん。それでいて君が描いたのを見てペンダントは気に入ったみたいなんだね。それならファンが一人いるわけじゃないか。どんなところがいいっていってたの?君のお母さんは」
さくらは、佐倉がこのペンダントを気に入る人間がいることは『意外なことだ』と驚いたためについこんなふうに訊いてきているのか、それとも嫌味な気持でこんな質問をしてきているのかが分からず、少しはかり不愉快になった。
ただ、ここで先日の面接の時のように腹を立てて後で後悔するようなことになったり、これから世話になる社長にたてついて嫌われたくないが為に、平気な顔をしてこう言った。
「母は自分は何もわからないけど、花びらの位置だとか、全体のバランスがいい、と言っていました。身内が言ったことですからここでそれを言うのもなんですけど……でもどこが気に入っていたのか知りたいとのことですから。なんというか、母はあんまりはっきり言ったわけじゃないんです。きっと私が今回、あまりにも気合いを入れすぎていたので、なんとか励ましたかっただけなんじゃないかと思うんです」
「君はうちがそんなに気に入ってたの?どうしてなのか教えてほしいね」
「私は募集を見てからかなり調べるんです。生意気にも!って思われるでしょうが、仕方ないんです、だって気になってしようがないんです。それにどんなものを作ってるか知りたいって思うのは当然ですよね。私、ここのホームページを見ました。今うちにはパソコンがないので学校のパソコンで調べました。それでもう、ものすごく気に入ってしまったんです。実は商品を卸しているお店ものぞいてみたんです。私の先生もこちらを知っていて勧めてくれました。もちろん『ダメもと』って感じでしたけど。募集にはデザイナーか事務ってなっていたからもしかしたら、って」
佐倉は鋭い目つきでじっとさくらを見つめてしばらく黙っていたが、やがてかすかに微笑んだ。
「ありがとう。そう言ってもらえるのは実に嬉しいね。こんなことを君に言うつもりはなかったんだが、今回の募集で少なくとも二十人は応募があったんだよ。履歴書を送ってもらった時点で断ったものもあるからもっと、あったが、だから我々のほうも君と同じで確かに気合いが入っていたからね。
ここが気に入って、それで来てもらえたんでなかったら悲しいじゃないか。
それに、このペンダントだが君のお母さんは趣味がいいね。これはとても素敵だと思う。
君には面接の時に嫌なことを言ってしまったから言いにくいが、私も、素敵だと思うよ。ファンは二人ってことだよ」
思いがけずこんなふうに言われ、さくらの顔に桜のような薄いピンクの色がさっと上った。
目にはあの時とは全く違う、温かい涙が滲んできた。
佐倉のほうはさくらの目をじっと見つめていたので、涙がうっすらと湧き出ていたのに気がついていただろうが、幸いにもその涙の粒は頬を転がり落ちることはなかった。
さくらのこんな様子を見たためか、佐倉は目を逸らしながら、
「これからみんなにきちんと紹介してからこれらのものを見てもらって、彼らのも見せるからね」と言って出て行こうとしたのだが、ドアの前で急に立ち止まり、なにげない風でこんなこと訊ねた。
「そう言えば、君はお母さんと二人暮らしなの?お父さんは亡くなられたのかい?」
さくらはドキッとしてすぐ答えられなかった。
それになぜかここにいるこの『佐倉』という風変わりな、魅力的な、この人がする質問にしてはあまりにも俗っぽくて、詮索じみた質問に思えた。
佐倉はすぐに返事が無いことに慌てた様子でこう付け加えた。
「いやなことを聞いたかな?ただご家族の欄にお父さんの名前が無かったものだから亡くなられたのかとふと思ったんだよ。私も若い頃に父も母も亡くしていたもんでね」
さくらはこう言われて我にかえってすぐに答えた。
しかし、さくらの欠点をさらけ出すような言い方で、ついこんなふうに言ってしまった。
「いいえ、父はぴんぴんしています。ただ私達のほうが一緒に暮らしたくなくて、私は母と二人だけで暮らしているんです」
こう言われて佐倉はひどく驚いたが、さくらがすぐに自分の発言を恥じて後悔している様子を見て取って、とるに足らないことを聞いただけのようにこう言った。
「そうか、その気持もよくわかるよ。私も若い時分に、とてもじゃないが好きになれない伯母と一緒にいたんだよ。まあ両親がいないから仕方ないがね、でもお母さんがいらっしゃるなら私の頃よりましかな。ちょっと待っていて、みんなを呼ぼう」
佐倉はこう言って出て行ったが、さくらはこの失言で頭の中が真っ白になった。
――(どうしてあんな言い方をしてしまったんだろう。きっと佐倉さんは場をわきまえずにあんなものの言い方をする私に呆れたに違いない。気にしてないよ、ってふりをして出て行ったけどきっと軽蔑されたわ)
さくらはまたここで犯した失敗に、がっくりと力が抜けたようになってしまった。




