名前の呼べないいとこ(五、再会)
さて、テーブルのところでコーヒーを飲んでいた社員達ががやがやと部屋に入って来た。
さくらはすぐに立ち上がり頭を下げた。
すると、その中のただ一人の女の子がにっこりと笑いかけてくれたので、さくらはこれにほっとしてほんの少し気を持ち直した。
佐倉は皆をテーブルにつかせるとさくらをさっきより丁寧に紹介し、社員一人一人に自己紹介をさせた。
チームリーダーは後藤という背の高い男性で、最初の集団面接の時に会っていたので顔を覚えていたが、愛想よく名前を言いながらさくらに「いじめたりしないから安心してね」などど笑いかけた。
面接の時とはまるで別人のようで、気さくで優しそうに見えたのでさくらは少し安心した。
そして、もう一人は小柄で小太りの内気な感じのする友野という男性社員。
小声で名前だけ言った後は黙っていたが、後藤が「仕事は丁寧で手際よくやるんだけど、それ以外の動きがあまりにもトロいもんだから『トロさん』って呼ばれてんだよ」と言った。
そのトロさんはニコニコと笑い「確かにその通りだから君もそう呼んでください」と言ってさくらにぺこりと頭を下げて来た。
さくらはまださっきの自分の失敗を思って笑うどころではなかったのだが、せっかくの気遣いに答えたくて力を振り絞って微笑んでみせた。
次に紹介されたのはさっき笑いかけてくれた山崎咲子という女の子。
少し気が強そうな話し方でさくらに「よろしく」と言った。
そして早口でこんなことを言う。
「私を見て気が強そうとかいじめてきそうとか思ったかもしれないけど大丈夫!私は結構優しいやつよ。やっと女子が入るってなって一番喜んでるのは私なの。今までこの連中にいじめられて大変だったからさ。いっしょに復讐しようと思って計画を立ててたんだけど協力してよね」
これを聞いてさくらは彼女にとても好感を持ち、心の中では別のことを思った。
――(復讐ね、なんて素敵な言葉かしら!私もいつかあいつらにそれをやるつもりよ)
そして咲子に向かってにっこり笑い、こっくりとうなずいてみせた。
佐倉ははぁーっ、とため息をついて笑っていたが、後藤が横からこう続けた。
「この子は口が悪くてほんとにしょうがないんだよ。新入社員の前で男みたいな口を聞くなって佐倉さんにきつく言われてたのにまたやった。咲子のことは放っておいていいからね」
こう後藤に言われても咲子は気にもしていない。
「私はあんたが来るのを楽しみにしてたんだから私の味方になってよね。それでなくても四対一なんだから。たった今から咲子って呼んでもいいからね」
こう言われてさくらは嬉しくなり、ありがとうございますと微笑んだ。
そして、佐倉が二次面接の時にいたあの若いデザイナーを促して自己紹介させようとしたのだが、その途端にみんなが笑い出したのでさくらはびっくりしてしまった。
しまいには佐倉までクックッと笑い出した。
すると、その若いデザイナーが小さな声で「和泉といいます、よろしくお願いします」と言ったのだが、それを聞くとまたみんながげらげら笑い出したので、さくらはもしかしたら自分も笑われているのではないかと思って不安になってしまった。
――(もしかしたら、あの面接の時のことが何か関係しているのかしら?)
こんなことを考えて黙っていると、佐倉が「すまないね。みんな悪気はないんだが、いつも彼の自己紹介は物笑いの種になっているんだよ」と言ってクックッと笑い続けた。
和泉というその男はいつまでも首を傾けたままじっと黙っているので、また後藤が仕方なしに横からこう言った。
「こいつは感じよく自己紹介も出来ないし、ろくに人の名前も呼べないんだよ。特に女の子の名前が!だいたい自分の姪の名前すら呼べない奴なんだから。きっと君の名前もいつまでも呼べないで『ねえあんた』とか『そこの人』とか言って佐倉さんに怒られるんだ。しっかりしろよミキオ!」
後藤に続いて咲子もたたみかける。
「そうなんだよ。あんたはいまだに私のこともちゃんと呼ばないんだから。『そこのきみ』とか『そこで立ってる人』って何よ!でも佐倉さんに怒られてしまいに考え出したのがなんだっけ?こないだあんたは私を『サクサクさん』って呼んだのよね、なんだそりゃ?正真正銘のばかもんなんだから」
さくらはこの話には吹き出してしまった。
この和泉という男の、今朝の親切な態度を覚えていたので申し訳なく思ったが、みんなにこんなに言われてもぴくりとも動かず机を見つめておとなしく黙ったままのその姿がとてもおかしくて、ついにみんなと一緒になって笑ってしまった。
さくらの緊張がほぐれたのを見て、咲子が調子に乗って続けた。
「ミキオはね、香月ちゃんって姪と暮らしてるんだけど、その姪の名前すらいまだに言えないんだよ。そこのガキって言ってみたり、くそガキなんて言うときもあるしさ。一番マシなのが『香月って名前の人』っていうやつよ。その香月ちゃんから聞いた話だけどね、香月ちゃんの学校の二者面談でミキオは間違えてこう言ったんだって――『いつもお世話になっております、大沢香月の甥ですが』って!」
これにはさくらもげらげら笑ってしまった。
そしてこの中でただ一人、全く表情を変えず人形のようにじっと動かずにいる和泉というデザイナーが、ついさっきまでかけていた眼鏡をはずした顔がチラッと見えた時、さくらははっとして思わず「あっ!」と叫んだ。
「イズミ、イズミミキオって!姪と暮らしてるって香月ちゃんの、あの香月ちゃんのことですか?あなたは葉月姉さんの弟の美樹夫ちゃんなの?」
さくらのこの発言に一同は仰天し、今までの笑いはどこかへ行ってしまった。
さくらは一人興奮してミキオに問いかける。
「私よ、さくらです。覚えてないの?いとこのさくらですよ!一緒に蝉取りしたり志賀高原に行ったでしょ?葉月姉さんの……あの日のお葬式に来ていたんでしょう?私、土曜日は気がつかなかった、だって眼鏡かけてたし。でもそうでしょう?ミキオちゃんでしょう?」
さくらがこう言うと、この和泉という男はゆっくりと動き出して、さくらをじっと見ながら静かにそれを認めた。
「そう、その通りだけど。全くわからなかったよ。さっき下で会った時も土曜日の時もね。面接じゃ名前だって聞いてなかったし。でも、いきなり蝉取りの話されてもお互いにこんなに変わっちまったら――葬式に来てたことも俺は知らなかったんだから」
ミキオはこれだけ言って困り果てた様子で黙りこんでしまったが、さくらはまだ続けた。
「お母さんと話してたのよ。ついこの間ミキオちゃんと香月ちゃんの話をしたばかりだったのに、私ったら全然気がつかなかった。土曜日にも会ってたのに!でも信じられないわ、ほんとにこんな偶然ってあるのかしら?ミキオちゃんがいるなんて。それに、それなら!――あのパールのデザイン画を描いたのはミキオちゃんなのよね?嘘みたいだわ!私あれが本当に、」
ここまで言った時、さくらは自分が興奮してしゃべりすぎていたことに気がついた。
さくらはすぐに「すみません」と言って下を向いた。
しかし、事情がわかると今度は皆のほうが次第に興奮して来て『信じられないな』とか『ミキオのいとこならいじめてやるか』などど言い出して一同は大騒ぎとなった。
佐倉だけは不思議そうな顔をしてさくらとミキオの顔を代わる代わるに見ていたが、しまいに「あまり似ていないが、どっち方のいとこなの?お父さんのほう?それとも、」と訊いて来た。
ミキオが「母親のほうです」と答えると、佐倉は「ふうん、そうか。ほんとに信じられない偶然があるもんだ。これは……」といって妙な顔をして黙り込んでしまった。
「ミキオは親戚の中でもその存在そのものを忘れられててさ、道であっても気付いてもらえないって、そんな感じなんじゃないのか?」後藤が笑いながらこう言うと、
「あたり!俺はいないのもおんなじなんだよ。入学のお祝いなんかいつも忘れられてばかりでさ。毎回ちゃんとくれたのは一人くらい……ここにいるあんたのお母さんくらいだったよ。それで、おばさんや他のみなさんは元気ですか?」
ミキオはこう言ってさくらに少しだけ笑ってみせた。
さくらはギクッと驚いて、ついこんなふう返してしまった。
「ミキオちゃん、おばさんから何も聞いてないの?お母さんの……つまり、お母さんの近況を……元気でやってるってことをだけど」
さくらのこの発言に佐倉以外のほとんどはあまり気に留めなかったが、佐倉はこの発言が何を意味するか、多分だいたい理解してしまった。
そしてすぐにこんな風に助け舟を出してくれた。
「ミキオに普通の親戚同士がする心遣いとか気配りがあるとは思えないな。だいたい自分自身が行方不明みたいな暮らしだったんだろ?でもまあよかったよ、ミキオの従妹っていうなら、もうそれだけで気心がしれた昔からの知り合いみたいじゃないか。君たちはお互いに同じ仕事をしようとしていたことも知らなかったんだね。まあ、大きくなればいとこなんてそんなものかもしれないね。とにかくこれから、みんなで仲良くやっていこうじゃないか」
佐倉がこう言って『これは楽しくなりそうだ』と盛り上がったところで、
咲子が「そういえばあんた、なんて呼べばいい?阿部さん、がいいの?それとも、」と言いかけた時、さくらはまた余計なことを言ってしまった。
「いいえ、阿部って呼ばないでください。その名前あまり好きじゃないんです。出来れば名前のほうで呼んでいただけませんか?呼び捨てでも何でも全然構いません」
さくらがあまりにもはっきりとこう言ったので、一瞬しんとなり気まずい数秒が流れた。
しかし、今度は咲子が助けてくれた。
「へえ、いいの?じゃあさくらって呼ぶわよ。だってさくらさんじゃ困るでしょ?あっちのほうの佐倉さんと二人になるんだから。みんなもいいわね、ミキオはわかったの?『あんた』とか『いとこの人』とか言うのはやめなさいよ。しっかり見張ってるからね!」
咲子がこんなふうに言ってくれたおかげですぐにまたわっと盛り上がり、妙な隔たりを感じさせた気まずい空気はさっと活気のある状態に戻った。
そして、佐倉がもうとうにお昼を過ぎているからみんなでご飯でも食べに行こうと言ってきた時には、さくらは当然遠慮したのだが、全員でぜひにと誘ってくるのでずうずうしく遅いランチについていくはめになった。
皆でよく行くらしい近くのイタリアンのお店。
店までの道を歩きながら、そうしてくれなきゃ困るとばかりに咲子が「誘ったのは佐倉さんだから今日はごちそうしてもらえるのよね、金欠だから外食はきついんだもん」と言ったり、それをミキオや後藤が『本当に恥ずかしいやつ』といって黙らせようとしたり、仲の良い様子が見受けられ、佐倉は満足そうにそれを眺め、にっこり笑ってこう言う。
「わかってるから安心しなさい。たまにはごちそうくらいするよ、今日は特別だしね。そう言えば君はどうするの?いつから出社するかはっきり決めなかったが――どちらにしても締め日まではアルバイト扱いだから、数日はいつから来るかは君次第でいいよ。明日はゆっくりするとしても金曜日か来週か、どうするかい?」
さくらはどうしようか迷ったが、みんなが早く出てこいよと口を揃えて言ってくれたのが嬉しくて「では金曜日からでいいですか?」と言ってしまった。
佐倉は「そのほうがありがたいよ、早くやって欲しい仕事がたくさんあるから」と言って当面の仕事について話し出した。
事務のほとんどをやっていた社員が辞めてから、ずっとみんなで手分けしてやってきたがそれらの処理をするのに時間がかかりすぎることと、たまりすぎて整理がつかず困っている為に当面それらの処理が落ち着くまで事務処理を中心にやって欲しいということだった。
もちろんさくらは自分がすぐに制作に関われるなどど思っていなかったので、出来るだけ急いで整理出来るようやってみます、と答えたが、咲子はそれを聞くと真面目な顔で言う。
「あんただけに押し付けたりしないから安心してね。それは本当だよ」
こういった言葉は本当に嬉しいものだ。すかさずさくらもこう返す。
「ありがとうございます、でも出来るだけやってみます」
佐倉は「遠慮しないで自分が興味を持ったことがあれば土曜日に来て色々やってみていいんだからね」と長い目で見てあせらずに仕事をしていくようにと言い、午後二時を過ぎたことに誰かが気がつくまで、みんなそれぞれが自分がいつ入社したかとか、得意な分野や担当の説明、住んでいる路線の話など、話が途切れることはなかった。
そして、佐倉がとうとう時計を指差し「さあ戻ろう」と言った瞬間、スイッチが入ったように一同はさっと席を立つ――この時のきびきびした動きは清々しく、彼らが折り目正しく仕事していることがさくらには良く分かったし、この会社を選び、また運良く採用してもらえた自分は幸運だったのだと心から思った。
さくらが会社に戻るみんなに続いて歩き出した時、佐倉が振り向いて言う。
「もうそこは駅なんだし今日はこのまま乗って帰りなさい。また今日も遅くまで引き止めてしまったね」
さくらは、自分はさっきデザイン画を机に広げたままここに来てしまったので片付けて持って帰らないと――と佐倉に言ったのだが、佐倉はこれを笑い飛ばす。
「ああ、それは知ってるよ。そんなこと気にしなくていいんだよ、本当はさっきみんなに見せるつもりだったんだから。それがミキオの話でそれどころじゃなくなったんじゃないか。君には悪かったよ、せっかく持って来てもらったのにね。もしイヤでなかったら金曜日まで預かるよ。きっとみんなも見たいだろうしね」
さくらはこのままあの子供じみたデザイン画を置き去りにしたら、二日間もの間、きっとみんなに笑われたり呆れられるに違いないと思ったので、何とか理由を付けて持ち帰ろうとした。
しかし、後藤の一言でそれは出来なくなった。
「君は置いてったら俺たちが君の作品をこきおろしたり、笑ったりして馬鹿にするとか思ってるだろ?俺だったらそう思うもんな。でも大丈夫だよ、ここの連中はそんなことはしないから。みんな初めはそうだったんだから――だから気にしないでこのまま帰りな、明後日はみんなでアドバイスしたり感想を言ったりしてちゃんとするから」
さくらはこう言われるともう何も言えなくなってしまった。
佐倉まで「その通りだから安心して帰りなさい」と優しく言ってきたので、さくらはそのまま帰らざるをえなかった。
さくらは駅前で今日のお礼と改めての挨拶をすると、新しいもう一つの場所にかわいそうなデザイン画を置き去りにして、心許ない気持ちを消せないままに家路に着いた。




