銀の桜とセーラー服(五、ピアノレッスン)
ただぼんやりと前を見ているだけの璃久を見て、さくらは璃久がまた昔の事を思い出して不愉快になったのではないかと心配になった。
それもさくらが中学の頃の話。
このことでさくらは、自分の不用意な行動や言動が、時には苦い結末をもたらしてしまうということを知り、それはことによっては『取り返しがつかない』ものになってしまうのだと、骨身に沁みるほど理解したのだ。
当時さくらは、この件で相当自分を追いつめ苦しんでいたが、そのうちにもうどうする事も出来ないのだと観念した。
その時から自分でもきっと無意識のうちに、奔放な発言をしているように見える自分を外側に作り上げ、その反面、ビクビクしながら顔色を伺うような小心者の自分を内面に抱え込んだ。
そしてそんな自分自身をもてあまして苦しむ事にも潔く甘んじた。
さくらが璃久に伝えたい言葉を飲み込むようになったこの時のことを、さくらは苦い思い出として常に自分への反省材料にしていたが、逆に璃久のほうはこの時のさくらを心から愛しいと思い、忘れられない大切な思い出にしていたことをさくらは全く知らなかった。
さくらは小学一年生の終わり頃から祖母の見栄によってピアノを習わされていた。
別に習いたくもないのに無理にやらされていたのでなかなか上達せず、何度か教室を変えたりしながらだらだらとレッスンを続けていた。
祖母は自分が弾けるわけでもないのに、さくらがいつまでも上手くならないのは誰かさんの血筋のせいだ、と言ってさくらが少しつっかえて弾くたびに怒鳴り散らしていた。
祖母に母を馬鹿にされると、さくらはカッとしてムキになり懸命に練習をするのだが、それでもあまり進歩はなかった。
璃久は、あの祖母がさくらのピアノを完全に『見捨てる』まで、練習中に口を挟んだりしなかったが(挟めるはずもなかったが)ある時、祖母が「もうやめてもどっちでもいいよ。私はうんざりしたよ」と冷たく言って、練習は勝手にやってレッスンには璃久に連れて行ってもらえと怒鳴り、完全な引退宣言をしたので、その時から璃久がさくらのピアノ教室の管理をするようになった。
こうして璃久がピアノの面倒を見るようになってからは、さくらのピアノの時間は楽しいものに変わり、祖母の時には全くなかっためざましい進歩がみられるようになった。
この変化を目の当たりにした祖母は悔しさを噛み締めていたかもしれないが、家の外にサラサラと軽快なメロディーが流れるようになると、もともと見栄っ張りの祖母は気を良くして孫の自慢までするようになったので、璃久とさくらの時間の邪魔をすることほとんどなかった。
しかし、さくらにとってピアノの時間が楽しかったのは大好きな璃久と邪魔をされずに過ごせるからというそれだけであったし、もともとその方面の才能を持ち合わせていない自分を良く知っていたので練習に身が入らないことも多かった。
教本の課程が難しくなってくると、楽譜を読むのが遅いさくらは、よくヤケになって教本に八つ当たりをしたりした。
それでも璃久は『嫌なのに頑張って続けているさくらを応援したいから』と言って、さくらが学校に行っている間に、祖母の留守を見計らってこっそりと、それも短い時間に必死になって『今週の分』のページを、手本になるようにと練習してくれるようになった。
もともとさくらの進歩そのままに、年々璃久のピアノの腕も上がっていたので、さくらは自宅に強力なピアノの家庭教師を持つ事になった。そして、そのおかげで厳しいピアノの先生に怒られることもほとんどなくなった。
さくらは璃久が音楽をとても愛していて、今までもきっと勉強したかったに違いないと思った。
そしてその気持を自分に重ね合わせて期待してくれていると信じていたので、母の為になるのならと、さくらにしては珍しく、辛抱強く練習を重ねていったのだ。
そうしてピアノのレベルが、これからソナタに入ろうかというくらいまで進んだ頃のことだ。
さくらは璃久をびっくりさせたいという軽い気持から、今週のレッスン分よりずっと先のページをこっそり練習してなんとかそれを仕上げた。
また、祖母に対して――『あんたが私につきまとわなくなってから、お母さんのおかげでこんなに上達したのよ!』というところを見せたくて、夕食の後にその曲を披露した。
「短い時間で仕上げたのよ!お母さんがいつも教えてくれてたから、そのおかげでこんな曲だって簡単に弾けるようになったんだから」と自慢するように言い、祖母の顔を勝ち誇ったように見つめながら(自分としてはとても優雅な感じで)曲を弾いた。
さくらはこの時、ただ璃久を喜ばせたくて……そして、意地悪な祖母と冷たい父親に当てつけの言葉を言いたかっただけだった。
しかし、このさくらの企みは、全く逆の悲しい結末へと方向を変えて流れ込んでいってしまった。
この夜さくらが自力で曲を弾くところを見た璃久は、そっとピアノの予習をやめてしまった。
この頃のさくらには、痛い程に璃久の気持ちがわかっていたので母のピアノの時間がなくならないように、また二人の楽しい時間が消えないように、どうしても何とかしたくて、
――「お母さんがやっといてくれないと時間がかかるからちゃんと弾けるようにしておいてよ!」
などと、わざと乱暴に言ったり、
――「やりたくもないのに頑張って続けて来たのに今さら私を見捨てるの?」と怒鳴ったりもした。
また練習を怠けて酷く怒られるよう仕向け、ピアノの先生から璃久が呼び出しを受けるようになるまで練習をさぼり続けた。
さくらは自分なりの知恵を働かせたつもりで、なんとか母が自分への義務感からピアノを弾く、という環境を作ろうとしたのだが、こんな乱暴なやり方のせいだったのかどうしてなのかわからないが、璃久にはさくらのそうした気持ちが、きっと『突き刺さる針のように』伝わったようだった。
こうしてさくらが見せた気遣いが逆に璃久を傷つけたことは、その後の優しい態度からよくわかった。
璃久はその後『本当に上手になったわ、よく頑張ったわね』と優しく言って、祖母に見つかってしまいそうだから、もうピアノの予習は出来そうも無いとさくらに告げた。
璃久が一緒に弾いてくれなくなってからは、もともと好きでもなかったピアノを続ける気力もなくなり、さくらは一年もしないうちにレッスンをやめてしまった。
璃久は『さくらがピアノを弾くところを見るのが好きだから、何とか続けてほしい』と、何度も頼んだのだが、勉強のほうも大変な時期だったこともあり、さくらは完全にピアノと縁を切ってしまった。
今、公園でバイオリンを聴きながら、さくらはあの時の自分の失敗を思った。
祖母や自分がいないあの短い時間に、母はどんな気持ちでピアノを弾いていたのだろうと遠い日の母に思いをはせた。
そして、自惚れた気持ちでピアノを弾いて母を傷つけ突き落とし、大切な時間を奪ってしまった自分がもしあの時に帰れるなら、もう二度と同じような失敗はしないのにと、叶わぬことを思いながら母を見つめた。
さくらは母の手にある求人誌を何もいわずに取り上げて、そっと惣菜屋の募集ページを開いてみる。
そして、さっき自分が母に言った偉そうな言葉が、やっぱり嘘であった事を思い知った。
『お母さんが惣菜屋で働く姿など見たくない!』と、素直に伝えられたらどんなにいいだろう!
たとえ人に誇れるような職歴がなくとも、もう四十半ばであったとしても、母はこんなにもたくさんの素晴らしい才能を持ち、魅力にあふれているのに!自分はこんなにも良く知っているのに!
さくらは璃久に気付かれないように心の奥深くで叫んだ。
そして母の真の能力に見合い、母自身が誇れるような仕事をみつけられるなら、どんな場所にだって自分は出かけて行きたいさえ思った。
璃久が黙ったままなので、さくらは自分から立ち上がり、もう帰ろうかと優しく言った。
そして璃久の美しい首筋を見つめて音のしない声でこう叫んだ。
―――(もしお母さんの言う通りに私のペンダントに力があったら、すぐにでもお母さんを幸せにしてあげられるのに!)
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