銀の桜とセーラー服(四、仕事)
面接の次の日の朝。
璃久はめずらしく外に出てみたいと言いだして、まだ眠そうにしているさくらを起こしてモーニングに連れ出した。
「たまには贅沢な気分にならなくちゃね」
璃久はこう言って、散歩しながらモーニングのあるレストランを探そうということになった。
二十分ほど歩くと、二人は真っ白な外観の素敵なコーヒー専門店を見つけた。
二人以外にほとんど客はいなかったので、窓辺の隅の一番いい席に座ってゆっくりと朝食をとった。
さくらは璃久がまた昨日の面接の話をしてくるのではないかと気にしていたが、璃久はそのことには触れずに自分の仕事についての相談を持ちかけて来た。
「お母さんね、いくつか求人誌の募集をチェックしていたのよ」
璃久はこの沿線の求人誌の先週号を取り出してさくらに見せた。
「すぐに雇ってくれそうなのはここ。だってここ、先々週も確かその前にも出してたもの。和食の惣菜屋さんみたいなんだけど、どうかしら?実は前に店の前まで行ってみたんだけど、そんなに悪そうな感じじゃなかったのよ。かなり年配のご主人がやってたわ。忙しくて人が居着かないとか、そんな感じなのかしら?」
璃久の持って来た求人誌を手に取り、さくらは時給や勤務時間、交通費の支給など細かい部分をチェックしながらあっさりした感じでこう答えた・
「まあ人が居着かないのか、それとも単に応募がこないのか、そんなことはわからないけど時給はまあまあね。時間も三時間以上でいいんならそんなにきつくないし」
「ね、そうでしょう。それからこっちは日払いの仕事なのよ。なんか商品の検品っていうのかしら、チェック作業みたいな仕事らしいわ。きっときびきび動かなきゃだめでしょうね。でも、日払いでもらえたらいいと思って」
「うんうん、いいじゃん。その日はランチかディナーに行けるかな」
さくらはこう言って明るく笑ったが、本当はたまらない気分だった。
璃久はアパートが決まった時『自分はどうしてもまだ一人で考えたい事があるから時間が欲しい、けれど必ず仕事を探すから、もう少しだけ待ってほしい』とさくらに真剣な面持ちで頼んでいた。
もちろんさくらはそれが当然だよと言って、仕事の事なんか考えずにゆっくり散歩したり、のんびり気持ちを落ち着かせてほしいと言っておいた。
璃久はさくらといる時は、二人の生活のために『なるべく早く答えを出す』とか『もっと外に出ていかなくちゃ』などと言って明るく振舞っていたが、実際のところは、吉祥寺に引っ越して来てからもずっとアパートに引きこもりがちで、どうしても必要な用事がある時以外は外に出ようとしなかった。
それでもさくらは決して璃久をせかしたり、残りの貯金についての不安を口にして仕事をさせようと促したりするようなことはしなかった。
さくらは、璃久が外でまた傷ついたり、これ以上の苦労を背負い込んだりして肩を落とす姿を見たくなかったので、とにかく一日でも早く小さな家計を安定させるために自分が仕事を決めて、璃久を安心させてあげたかった。
それも、出来るだけ晴れがましい、格好のいい仕事を!
これから先、璃久が外に出て行きたいと思った時に、収入があり自立した娘を持っているので『私が働くまでもないんですが……』といった立場で仕事をみつけられるようにしてあげたかったからだ。
しかし自分にはそんな素晴らしい仕事どころかアルバイトのあてもないのだから。
このままだと璃久の仕事探しは、生活のために差し迫った深刻なものになってしまう。
きっと、採用担当者には足元を見られるだろう。
職務経験の少ない母は、もしかしたら時給を値切られるかもしれない。
意地悪な先輩アルバイトにいじめられるかもしれない。
さくらはそんなことばかり考えていたので、本当のところ璃久に仕事をさせたくなかった。
たださくらは璃久がせっかく探して来た仕事を、とるに足らない仕事のように言って璃久の気持ちを挫かせてしまったり傷つけたりしたくなかったので、とりあえず今は何かそれっぽい理由をつけて、なんとか仕事に行くのを思いとどまらせようとした。
「でもこの惣菜屋だけど、毎週毎週広告に出してるってことはやっぱり何か問題があるんじゃないかな?おじさんの性格が悪くてすぐ辞めちゃうとか、ものすごく酷くこき使うとか?
この時代、広告費も高いんだし、そう何度も出すようなところは逆に何か問題ありってことで不安だな。こっちの日払いのところは、すぐにバイト代が入って確かにいいかもしれないけど、急かかされてする作業だと疲れるんじゃない?
大学の友達がアルバイトで幼児教材の検品の仕事をやってたけど、すごく疲れたって言ってたよ。ずっと立ちずくめでやらされたりするらしいし、もし納期がせまってたりしたら休み時間だってちゃんとあるかわからないよ。
もっとさ、楽な感じのかわいいお店屋さんを探しなよお母さん。何も変なおじさんにこき使われて疲れる事ないって!」
さくらは、ペラペラと一気に話し切った。
璃久は何か笑いを含んだ顔で黙って聞いていたが、ついにプッと吹き出した。
「イヤなの?さくらちゃん、私がお惣菜屋さんで働くのが」
「違うよ!別にいいと思うよ。店のおじさんにいじめられようがどうされようがお母さんの勝手。でも、何もわざわざ怪しいとこに行かなくたっていいってこと!」
「だからお店を見に行ってみたって言ったでしょ。感じの悪い人じゃなかったのよ。
きっと昔気質の頑固者で怒りっぽい性格だと思うわ。
誰かさんみたいとは言わないけど――でも温かみのある顔をしていたの。
多分だけど、きっともうかなり歳なのにお店を畳みたくなくて、家族の人達からも反対されて誰も手伝ってくれないっていう状況なんじゃないかと思うのよ。
それでね、意地になって毎週広告を出し続けてるの。貯金も少ないのに無駄な広告を出している父親に腹を立てて、息子か娘からは『今回もし、誰からも応募が来なかったらもうあきらめなさい』って言われていて、おじさんは電話が鳴るたびにドッキドキでね、でも今までかかって来た電話といったら八百屋さんとか肉屋さんからの注文確認の電話だけ。
その度におじさんは、『あああ、もうそれでいいよ!』とか言って、ものすごく感じの悪い声で応対しちゃうから、商店街でもますます偏屈じじいとかって言われちゃうのよ。
それでもやっぱりお店をやめたくなくってね、でも自分は歳を取りすぎてるから、もう一人ではやっていけないこともよくわかってるのよ。
それで最後の期待をかけて私を――お母さんのことよ?ずっと待ってるっていうわけ!
この推理当たってると思うの。どう?それでも応募したらダメ?」
「やめてよお母さん!本当にそんな気がしてきちゃうじゃないの。
ねえ正直に言ってよ。とにかく何でもいいから仕事を、って思ってるからなの?それで惣菜屋さんってわけ?そういうのはダメだからね。
でもお母さんが、偏屈じいさんを喜ばせたいだけっていうなら面接に行ってもいいわ!」
さくらは本気でそう思った。
どこかのじいさんのためであるというなら、別にそれでよかった。
「そうよ、偏屈じいさんを喜ばせたいのよ。それ以外に理由がある?」
「いいえ、きっと無いわね。面接に行く事を許可します!」
「さくらちゃんならそう言うと思ったわ。これで私にも仕事が決まったら我が家の家計は安泰ね」
璃久が嬉しそうに笑うと、さくらはしばらく考えてから言いにくそうにこう付け加えた。
「私はお母さんに見合った仕事をして欲しいだけなのよ。それだったら私は惣菜屋だろうが、かっこいいオフィスの最上階にある仕事だろうが、そんなことは本当に関係ないと思ってるの。
さっきお母さんが言ったみたいに――まるで私が『惣菜屋』だから働いて欲しくないと思ってるみたいに言わないでほしいな。そんなふうに言われたくないよ」
「ごめんごめん、ちょっとからかっただけよ。ちゃんとわかってるわ。でもあんまり慌てて話すからおかしかっただけなのよ」
璃久は明るくこう言ったがさくらは真剣だった。
「どんな仕事でもお母さんに似合う仕事っていうのが私には思い浮かばないよ。
誤解しないでね、きっとお母さんはすぐに何でも出来るようになると思うよ。最初は慣れるまで少し時間がかかるだろうけどきっとすぐにね。
そんな事は私はよくわかってるの、でもそういうことじゃないんだよ。私が言ってるのは小さな事なのよ。
例えば本当に偏屈じいさんを喜ばせたいからなのかどうか、とか、そういうことなのよ。うまく言えないけど、それが私には大事なんだよ。つまり、」
さくらはここで口ごもってしまった。
さくらは璃久に伝えたいことがあっても、本当の気持ちをうまく口にできないことがよくあった。
いつも感情にまかせて本音を吐きだしているようにわざと見せかけているだけで、本当は伝えたいことの半分も口に出せなかった。
もちろんさくらがそう思っているだけで、実際は璃久には全てお見通しのことも多かったのだが。
ほんの時々――さくらが心の深い部分でどんな考えを張り巡らせているのか、璃久には見当もつかないことがあった。
そして、後にそれが何であったのか気がついた時には、その度に璃久はさくらを愛おしく思ったし、それだけが璃久の救いだった。
璃久は、まるで『さくらが言いたいことはちゃんと伝わっているから大丈夫』とでも言っているかのような表情でにっこりと微笑んだ。
「その通りね。大事なのはそういうことだと思うわ」
さくらはこんなふうに優しい声で言われると、いつもそれ以上何も言えなくなってしまうのだ。
ただ、さくらは母がこれからする仕事のことを思った。
どんなに条件のいい仕事であっても、たとえそれが世間的に聞こえのいい仕事であったとしてもだ。
さくらは、それらは決して『璃久の能力に見合った正しい仕事』にはならないような気がしていた。
璃久は二十で結婚してからは外に出て働いたことがなかった。
何度も働かせてほしいと願ったのだが、阿部と祖母の二人から『外で恥をさらすな』と言われ、諦め続けて来たのだった。
璃久の持つ様々な才能。
それは日々璃久が話す言葉であったり、書き記す文章でもあるし、音楽や絵を楽しんだり、それを評価する素晴らしい目――こういった無限の才能や能力は、阿部の家によって二十年以上もの間、完全に潰されてしまっていた。
璃久が過ごして来たおぞましい時間と場所の中では、さくらだけが璃久を正当に評価出来るただひとりの人だった。
しかし、そんなふうに自負しているさくらであっても、遠い日の璃久を思う時、自分が犯した多くの過ちがそこにあって、そのためにどうしても璃久に対しての言葉を飲み込んでしまいがちだった。
さくらはふいに、昔のことを思い出した。
「お母さん、そういえば昨日の面接の終わり際に、あの意地悪社長が私の作文が良かったって言ってたっけ――前の日にお母さんと話したよね、こういう会社が出してきそうな『作文テーマ』について。
昔みたいにお母さんに相談して色々メモしていったから、結構良く書けたって自分でも思ってたんだけど」
「ほらね!きちんと評価してくれてるわよきっと」璃久が自信ありげにこう言う。
「夏休みの作文コンクールを思い出すよ。あれって密かによくあることだったりしてね。もしかしたら私みたいに優秀なゴーストライターを持ってる生徒ってたくさんいたのかな?あの時はビクビクしてたけど」
「そうよ、全然平気だったのに。もとはさくらちゃんの文章なんだから自信を持ってよかったのよ」
璃久のこの言葉は今までに何度も聞いたが、この『作文コンクール事件』はあの頃のさくらにとって、冗談ではすまない恥ずかしい過去の一つだった。
さくらは中学時代、夏休み明けの作文コンクールに入賞したことがあったのだが、実はこの時のゴーストライターが璃久だった。
それは、沼地の近くの森に住む少女の物語を題材にして、さくらの将来の夢を描いた作文だった。
璃久はこの少女の物語が大好きだと言っていた。
原書を取り寄せて自分の一番好きな部分をノートに書き出し、辞書で調べながら自分なりの訳を付けてみたりするほどに。
さて、この物語を題材にした作文をのことだ。
作文コンクール用の作文を、まずはさくらが自力で書き上げた時、璃久はさくらにこんなことを言ってきた。
―――「自分の将来は仕事が何か、っていうことで考えたらだめよ。どうして今、こうなっているかとか、後ろ向きな気持ちで振り返ってもだめよ。きっと自分でも忘れてしまうかもしれないような、些細な事が大事なの。そうするきっかけとか、好きかどうかとか、何か明確な願いであったりしてもいいと思うわ。だからね、こんな風に無理矢理に将来の仕事を決めなくていいから、どんな気持で今を過ごしているかとか、いつもさくらちゃんが私に話してくれるような、そんな普通の事でいいから、気取らないで自然に書いてみて」
こう言われてもさくらは何がなんだかわからず――『じゃあ手本で書いてみせてよ!』と怒って璃久にせっつき、まず『見本』のようなものを書かせた。
そして恥ずかしいことに、さくらはそのほとんどを参考にして、また『引用して』作文を書き上げた。
しかし、当然璃久はそれに満足せず、もう一度だけ頑張ってやり直すようにと厳しく言った。
さくらはもう面倒くさくなってしまったが、ここまで辛抱強く見ていてくれる璃久に悪いなという気持もあったので、ほんとうにもう一度だけ、と言って『やや自分のもの』である文章を書き上げた。
それを読んで璃久はとても嬉しそうにさくらを褒め、単調な言い回しやわざとらしい形容詞などを大幅にカットして、『これは参考まで!』と大きく書き入れた上で、新たな直しを付け加えた。
そしてさくらは、その直しの通りに、かくも美しい作文を完成させた。
夏休み明けにさくらは軽い気持でこの作文を提出したが、不幸にもこの作文は全校朝礼で読み上げられ、表彰を受けるはめになった。
さくらは「お母さんのせいでこれから大変じゃない!」と見当はずれの苦情を言って、これから先に友達から『本当は誰かに書かせているんじゃないの?』などど言われたくないからという理由で、父親や祖母には内緒で、夏休みあけの数ヶ月だけでいいから作文教室に通わせてくれと璃久に頼んだ。
その結果、ほんの少しだけ作文の実力を上げた自惚れ屋のさくらは、璃久に直してもらう作業をしなくなり、もう表彰台に昇るなどどいう迷惑なはめに陥ることはなくなった。
さくらはこの時に璃久が書いてくれた、作文の『見本』がとても好きだった。
その中で璃久は『仕事』というものをあまりに過大評価したり、逆にそれを卑屈に思ったりすることが嫌だ、というような一文を書いた。
また、その時の璃久自身が、真の目的であったり理想のようなものを追求しているのだが、それがなかなか困難であることを自分はもう十分に知っている、というような事も書かれていた。
璃久はさくらに『これは作文の見本としてそれっぽく書いただけで、本当の気持とは少し違う』と言っていた。
しかし、この時に真似をして書いた作文の文章そのものが、その後のさくらの『主義』であったり『ものの見方』のようなものを決定づけるきっかけの一つになった。
「作文にね、あの時の一文を入れたのよ。『その時出来上がっている自分がどんな理想をもっているか、強い願いをまだ胸に秘めているか……そうした気持がなくなることを心配している自分でいたい』みたいなこと。
もうちょっと変えて書いたかな?でも入社試験の作文にしては少しやりすぎたかな、って思ってたんだ。ほんといい歳して熱すぎる文になっちゃったよ。まあ、あの社長が気に入ったってのは意外だわ」
「だから言ったでしょ、さくらちゃんのそういうところが伝わってたのよ。きっと面接で会って話すのを楽しみにしてたんだと思うわ。私ね、結局はデザインの良し悪しとかじゃなくて、さくらちゃんそのものを知りたかったんだと思うわ。作文書かせる会社なんて珍しいと思ったけど私は好きよ。だってすごく大事だもの、表現して伝えるってことはね。文が上手かろうが下手だろうが関係ないの、その子の良さが伝わればね」
璃久がこう言うと、さくらはうんざりした顔をしてすぐに言い返した。
「お母さん、もういいよあそこの話は。がっかりさせたくないけど本当にダメだったと思う。だからもうあきらめてよ。いつまでも引きずってないで他を見てみるから」
「まあ何?さくらちゃんが作文のこと言ったんじゃないの!お母さん、今朝は面接のこと言わないでおいてあげたのに」璃久は少し怒って言った。
「言わないでくれてありがとう」さくらはもううざったいというふうに不貞腐れた。
「そうやってすぐ怒らないの、きっと大丈夫だから。デザインだってよかったんだから」
さくらはいいかげんにしてよ、と小声で怒鳴って璃久を黙らせようとしたのだが、それでも璃久はなぜか上機嫌でだった。
「落ちたら仕方ないって私だってあきらめるから安心しなさい。潔くあきらめて社長の悪口につき合うわよ。さくらちゃんはすぐ心配するんだから……大丈夫よ、私は。落ち込んだりしないで一緒になって『あいつ』とか『わざとやった』とか、ひどく言ってあげるわ。でももし受かったら、私にも社長にも生意気言わないことよ」
「何?別に心配も何もしてないよ!あの人が嫌だってのは仕方ない正直な感想。悪口につき合う必要もないし、私は生意気なんか言ってませんよ」
「あんまり言うとコーヒーを吹き出しちゃうからやめてよさくらちゃん。そういうところが大好きなのにわからないのね」
璃久はけらけらと笑って、もう出ましょうとさくらに言った。
さくらも璃久に笑われて、ここにいるのがなんとなく嫌になってしまったので二人して急いで店を出た。
璃久はさくらをからかって機嫌を良くしたのか、公園の中を散歩しようと言い出した。
さくらはそれにつき合わされてもううんざりという顔をしたが、本当はまんざらでもなかった。
さくらは久しぶりというより――自分が知っている中では初めてに近いほど浮かれた感じの母の姿に少し戸惑ったが、それでも璃久が笑っているだけで嬉しかった。
―――(でもどうしよう。もしかしたら本当に私が採用してもらえるものと信じてるのかしら?でも、あんなふうに、落ちても心配いらないなんて言いだしたりして、急にどうしたんだろう)
さくらはこんなふうに思って不安な気持ちでいっぱいだった。
それなのに璃久のほうはニコニコしながら桜の木の下のベンチに座ろうとさくらを誘った。
しばらく二人とも黙ったまま公園で遊んでいる子供達やベビーカーを押しながら歩いている若い母親の姿をゆったりと眺めながら、二人だけの穏やかな朝を楽しんだ。
十数分が過ぎた頃だろうか。
後ろのほうから『キーッ』というバイオリンの弦を鳴らす音が聞こえたので二人はそっと振り返った。
音大の学生なのか、市民グループの楽団かわからないが、数人のグループが楽譜を立て、優雅な振り方で知っている曲を弾き出した。
さくらは振り返ったままの姿勢で曲を聴いていたが、璃久はさっきの上機嫌が嘘のように無表情に前に向き直ってしまった。
さくらはどうしたのかと心配に思ったが、璃久の変化に気がつかない振りをして、流れてくるメロディーを口ずさみながら逆に機嫌良く振る舞った。
すると璃久のほうから話しかけてきた。
「バイオリンか、懐かしいわ。お母さん弾けないけど、昔ね、学校で英語劇をやった時にバイオリンを弾く少年の役をやったの。演劇部にいた訳じゃないけどお母さんが助っ人で選ばれたのよ。
最初は口パク……というか音パク?みたいにしようって言ってたんだけど、音楽の先生が少し教えてくれたのよ。
それで簡単なメロディーのところだけ私が本当に弾いたのよ。知らない人は少し弾けると思ったんじゃないかしら?すごいでしょ」
さくらはびっくりして、思わずこう訊ねた。
「何それ、初めて聞く話だよお母さん!英語劇なんてやったの?いつ?高校の時になの?」
「そうよ、二年の時にね。西女のホールでやったの。拍手喝采だったのよ、なんてね。でもそれっきりバイオリンとは縁がないわ。まるっきり、本当に全くなくなったわ!」
璃久は急に強い口調でこう言うと、大学生達が弾いているほうを振り返り、彼らに冷めた視線を投げつけた。
さくらはビクッとして思わず璃久をじっと見てしまった。
璃久のほうは『まずいことを言ってしまった』と後悔するような顔をして話をそらしてきたので、さくらはもうこれ以上追求するのをやめた。
しかし、そのうちに会話は途切れ、ただ気まずくなり、二人とも黙り込んでしまった。




