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やって来た魔法たち(四、ラムダス)

 気の毒なトロさんは朝からずっと、咲子と後藤にしつこく責められ続けていた。

 時々そこにミキオまで参加してきて、彼らは仲良くこう言った。


 「ちゃんと思い出して、どんな様子だったか言って!」


 佐倉と璃久の挨拶の様子をいくら話して聞かせても、三人は何度も同じことを訊いてトロさんを困らせ、しまいにはイラつかせた。 


 「だから、ほんとにちゃんと思い出してよ!さくらのお母さんはちゃんと佐倉さんの顔(・)を(・)見(・)て(・)挨拶してたの?泣いてたからよく見ないで話してたんじゃないの?」

 咲子はイライラしながらトロさんを責めた。


 「だからちゃんと普通に話していたって言っただろう?さくらちゃんのお母さんはきちんと話してたよ。別に相手の顔をじーっと見なかったとしても失礼でもなんでもないじゃないか!一体なんなの?佐倉さんだってそんな、じろじろ見られて挨拶なんかされたら困るじゃないか。お母さんは丁寧にちゃんとやってたんだから、もうしつこくきかないでよ」

 三人のあまりのしつこさにトロさんは半分怒っていた。


 「ああわかったよ。でも、佐倉さんはほんとに普通に話しかけてたのか?うわついていたり、どもったりして、こう……いつもと違う感じだったりしなかったか?」

 後藤がまた同じことをきいた。


 「ああ、佐倉さんはしっかりと話してた。いつもよりきちんとしていたくらいだったよ。さくらちゃんのことをよくやってるって、素敵な娘さんですね、って言ってさ、それでお母さんは嬉しそうにお礼を言ってたんだよ。もう何度も言ったじゃないか!どうしたっていうんだよ」


 「それで佐倉さんは深々と頭を下げて……写真屋に行くって言って戻ったんだな?」

 後藤は眉間に皺を寄せ、咲子と顔を見合わせた。


 トロさんはうんざりして一人で作業室に入ってしまった。


 ミキオは後藤と咲子の話し方に不安を感じたので、何も気付いていないふりをして二人の側でへらへらしながら様子を探っていた。

 「まあ、おばさんは可愛いからさ、佐倉さんが手を出したりしないとも限らないけど、まあ心配すんなって!サクランボがいるのにそんなことしないよ、あの人は」

 ミキオはひとまず軽くこう言ってみた。


 後藤と咲子はびくっとしてつい顔を見合わせてしまったが、あわてて後藤がこう言った。

 「そうだよな、俺もさくらの気持ちを考えたら……あの人がお母さんになんか、ってことになったら大変かと思ったんだよ」


 「そうそう、佐倉さんは手が早そうだから」

 咲子もあわてて同じことを言った。


 うろたえた今の様子からも、ミキオはこの二人が何かを探っていることに気付いたのだが、しばらくは放っておいても大丈夫だろうと楽観的な判断を下した。

 逆にこの二人が佐倉をつつくことで面白い展開に進んで行くかもしれないと思って、ちょっと期待を持ったりもした。


 佐倉とさくらが挨拶回りに出ている間、部屋に残された彼らは、昨日の再会の場面を想像してはあれこれ心配を膨らませていたが、彼らもまた行き詰まってしまい、もう一度最初から推理をしなおさなければならなくなった。


 もう仕事なんかそっちのけになるくらい、頭の中が二人のことで一杯だった。


 トロさんは、こんな彼らの様子に気付いてはいたのだが、トロさんはトロさんらしく余計な詮索はしなかった。


 佐倉がさくらを連れて戻ってくると、彼らはなぜかびくっとしてしまい、急に明るい感じで話を盛り上げようとしたり「今日は仕事がはかどらなかった」などど言う必要もないことをしゃべりだし、二人から逃げ出すように急に仕事に集中し出した。


 佐倉は彼らの妙な態度にかすかに不安を感じたが、さくらとの『秘密』は絶対に守られるものであったし、仮に邪魔が入ったとしても、それは簡単に退けられるはずであった。


 だいたい璃久との関係がそう簡単に明るみに出るはずがないとわかっていたので、佐倉もまたミキオと同じように彼らのことは放っておいた。


 さくらは午前中こっそり佐倉と一緒にサボったことを取り返すため、担当する事務処理に集中した。

 途中、後藤を呼んであれこれ指示を受けながら一緒に作業をしていた時も、いつも通りに明るい感じで会話を交わしたので、互いに何かを気付かせるようなことにはならなかった。



 そして、午後六時近くの電話。

 佐倉が受話器を取り上げると、璃久からの電話だった。


 佐倉はこの不意打ちのような電話に慌ててしまい、昨日のように落ち着いて話すことが出来なかった。


 どもりながら挨拶をしてさくらを呼んだが、さくらは写真屋に行っていて不在だった。

 佐倉は気をとりなおして「今、ちょっと出ていますが、すぐに戻りますので折り返し電話をするように伝えておきますから」と優しく言った。


 璃久はなつかしい、綺麗な声でお礼を言って電話を切った。

 佐倉はしばらく受話器を持ったままで、そこにずっと立っていた。


 「佐倉さん、もしかして璃久おばさんでしたか?おばさん、何か様子が変だったとか?」

 ミキオは何気ない感じで声をかけた。


 佐倉はハッとして「いや、何か用事でもあったんじゃないか?別に大変な感じじゃなかったと思うよ」とだけ言った。


 ミキオは、佐倉が璃久を知っていることだけは間違いないと確信していた。

 佐倉の表情や行動の一つ一つがそれを知らせてきた。

 ミキオはあともう少し……本当のチャンスが来るのを待ってから、自分らしく動き出そうと決心していた。


 さくらが写真屋から戻ると、すぐに佐倉はこう声をかけた。

 「さくら、今さっきお母さんから電話があったよ。折り返しなさい」


 さくらはびっくりして佐倉を見たが、すぐににっこり笑って電話をかけた。


 ミキオはこれになぜかぞっとしたが、静かに電話の様子を見守った。


 さくらが璃久に電話をすると、璃久は偏屈じいさんがチラシや広告の件で喜んでくれて感謝していたことを皆に伝えてほしいと言っていて、さらに、また面白いことを考えついたので、その準備のために今日はこれから買い物に出るので少し帰りが遅くなることを伝えたくて連絡を寄越したとのことだった。


 「お母さんは何か面白いことを考えついたんだって!後藤さんが作ってくれた広告は拡大コピーして店頭に出すことになって、おじさんたらやっぱり『なんだこりゃあ!あんた、こんなことができんのか?』って叫んだみたい。皆さん本当にありがとう。だから今日は私も思いっきり仕事して帰ります」


 「あれは俺が作った訳じゃないよ。お母さんがやりたいって言ったことを手伝っただけなんだよ。さくらのお母さんは、ああいったものを作るのが好きなのか?なんか色々考えてきてたからびっくりしたよ。そのアイデアを沢山ノートに書き出してきていてさ、俺すごく感心したんだよ」


 「うん、そうなのよ。ずっと仕事が出来なかったから……家でパソコンに向かって色々やってたの。よく友達のために何か作ったり、ただ絵を描いたりやってたわ。きっと、好きだったんだと思う」

 さくら言い方は少し辛そうであった。


 後藤や咲子はしんみりとしてしまったが、後藤はあえて自分でもわざとらしいかなと思うくらいの明るい声でこう言った。

 「いやあ、とにかくよかった!おっそろしい偏屈ジジイが喜んでくれてさ。でも面白いことってのはなんなんだ?俺にだけは絶対に教えてくれよ?」


 そう言われると、さくらは少し気分が上がった。

 「もちろん!明日報告しますよ」

 

 佐倉はこの時も、さくらを見守るようにそっと見つめていて、まるで父親のような目をしていつまでもさくらの側に立っていた。


 ミキオや後藤はもちろんそれに気付いていたが、佐倉とさくらを刺激しないようにいつも以上に気遣いながら、こっそりと二人を観察した。


 帰り際に佐倉は、さくらを部屋に呼んだ。

 「今日はお母さんに何も言わないんだよ。私も、まだちょっと待って欲しいんだ」


 「そうします。ゆっくり慌てずにやった方がいいんですよね。私が自分勝手にやったりは……絶対にしませんから」


 目のあたりに皺をよせ、にっこりとするこの笑い方を見て、佐倉の胸はどきんと音を立てた。

 「さくら、君がそういう風に笑うたびに、私は璃久さんを思ったよ。君が泣く時も、怒る時もね。これからはもう、いちいち君にビクつかないでいいんだね」


 これを聞くと、さくらもまたせつないような泣きたいような、そんな気持ちが込み上げた。

 「私も、もう安心してやっていけるんだわ」こう言って佐倉の部屋を出て行った。


     ◇◇◇◇◇


 璃久はさくらが帰ってくると、待ち構えていたように偏屈じいさんがどんなに喜んでくれたかを、嬉しそうにさくらに話して聞かせた。


 「おじさんはちょっと涙ぐんでくれて……私、胸が一杯になっちゃった。出過ぎた真似を、って言われたらどうしようかって少しは心配だったのよ。でもあんなふうに喜んでくれたんだもの。私、すごく幸せだわ。金曜日はさくらちゃんにも協力してもらうからお願いね。だって、いつもあんなにしてくれてるんだから、さくらちゃんだって協力したいと思うでしょう?」


 璃久は絶対にそうすべきだ、と言わんばかりの勢いで言ってきた。


 さくらは璃久のこんな様子に驚いたが、自分でも面白くなってきて、ミキオのようにニヤついた。

 「わかったわ、いつもおかずを貰ってるしね。ちゃんとやるわよ、久しぶりに魔法ってやつを!」


 



 翌日の昼休み―――

 さくらは、璃久の魔法計画をみんなに報告した。


 「つまり、金曜日の夜にこっそりやるわけよ!商店街が静まり返った頃に、なるべく音を立てずに店の中を改装するの。改装って言ってもちょっとクロスを敷いたり、壁をきれいにしたりするだけなんだけどね。素敵な飾り物をしたり、おかずがもっとよく見えるように配置を考えたりしてね。翌朝に、商店街のみんながびっくりするぐらいに店の中を変えたいの!セーラとベッキーがびっくりした魔法を二人でするの」


 「セーラって?」後藤が不思議そうにたずねた。


 すると、佐倉がにっこり笑って口を出してきた。

 「そりゃラムダスの魔法だよ。インド人の、ターバンを巻いた魔法使いなんだよ」


 「佐倉さん!ラムダスの魔法を知ってるんですか?」さくらはつい大声を出した。


 「ああ、私も好きなんだ。確か……伊藤整の訳で読んだよ、もうずっと前に。この部分は実にいいよね、ドキドキさせられて幸せな気持ちになったんだ」

 佐倉はいつも以上に優しい口調だった。


 「何のことなの?ラムダスって」咲子もきいた。


 「小公女の中で隣に住んでいたカリスフォード氏と一緒にいたインド人が、セーラの屋根裏にこっそりいろんなものを運び込んで……ほら、覚えてない?食べ物とか暖かい毛布とか、綺麗な部屋着もね。それを夜中に目を覚ましたセーラがびっくりしたシーンがあったでしょう?すぐに隣の部屋のベッキーを起こして二人で食事するのよ」


 さくらは夢見る少女のように小公女の話をみんなに聞かせた。

 佐倉はこれを見て嬉しそうに、さくらに続いて話し出した。


 「そう。その魔法はしばらく続くんだよ。毎日毎日あたたかいスープが置いてあって、湯気のたったお湯が沸いてるんだ。ちゃんとベッキーの分もあったしね。それからセーラは手紙を置いておくんだったっけ?」


 「そう!手紙はちゃんとなくなっていてセーラは安心したの。私はこの話がとても好きなんです。お母さんもね。子供の頃はよく二人でラムダスの魔法を考えて遊んだんです。突然私の部屋の模様替えをしたり、髪の毛をたくさん三つ編みにして寝てね、次の日にウェーブをつけて学校に行ったり……それでね、次の日は真っすぐにストレートヘアで行くの。そうすると友達がびっくりするでしょう?それが嬉しくって、他にも色々考えてなんか色々やったんです」


 佐倉はにっこり笑いながら「そりゃ素敵だね」と言って、さくらを眺めるように見つめていた。


 咲子や後藤の視線にはっとするまで、佐倉はつい『父親』のような表情でさくらを見てしまった。

 後藤は、もうすっかり佐倉がさくらの『実の父親』だと信じ込んでいたので控えめにこんなことを言った。

 「へえ、佐倉さんが小公女か。どうもピンとこないけど、本当にさくらとはものの好みとか感覚とかが合うんですね。もちろん俺も小公女は知ってたけど、そう詳しくはね……そんなラムダスの魔法までは覚えてませんよ俺は」


 「そう?私はここの部分が大のお気に入りだったの。だって、ここ以外は結構辛い話でしょう?ここだけを読んで絵に描いたりもしたのよ。自分の部屋にこっそりやってくるインド人の絵を勝手に想像して描いたの。せっかくだから、かっこいい金髪の魔法使いにしたりなんかして、お母さんに違うって笑われたりしてね。でも素敵なのよこの場面はね……本当は人間がやってるんだけどね。私、あの偏屈じいさんには感謝してるから徹底的にやるつもりよ!」

 さくらは目を輝かせていて、本気でこの魔法を徹底的にやるつもりのようだった。


 すると、さっきから黙っていたミキオが、この魔法企画に参加を表明した。

 「サクランボ、俺も魔法に参加していいか?そのジジイに会ってみたいんだ。おばさんにも話があるし」

 ミキオはいつになく真面目な様子だった。


 「別にいいけど……何の話なの?」

 まさか、何かを気付かれてはいないだろうが、さくらはミキオの話し方にぞっとさせられた。


 「ああ、ちょっとね。ずっと前に相談したかったことを聞いてもらいたいと思ったんだよ。その時俺がその気になったら話すし、やっぱり言いたくないと思ったらその時は言わないから……サクランボはまだおばさんには何も言わないでおいてほしいんだよ」

 ミキオはこれを真剣に言ってきた。


 どうやら全く別の話らしい。

 さくらはホッとして「わかった」と言ったが、この後すぐに、咲子がいつも通り図々しく仲間入りをしようとしてきた。

 「ねえ、私もやらせてよ。面白そうじゃんそれってさ。余計なことはしないし、ミキオとお母さんの話の邪魔もしないから、いいでしょ?」


 さくらは「うーん……」と言って迷っていたというのに、横からミキオがあっさりと「別にいいぜ俺は」と答えてしまった。


 さくらは部外者のミキオに、自分のかわりに返事をされて呆れてしまったが、しまいには後藤やトロさんまでもが参加表明をしだしたので困り果ててしまった。


 しかし、佐倉だけはこう言ってくれた。

 「せっかくお母さんと二人で水入らずでやろうとしてるのに、君たちがワイワイやったら邪魔になるじゃないか。色々あったんだからあんまり押し掛けない方がいいよ」


 ミキオはまた、さくらのかわりに実に軽くこう答えた。

 「佐倉さんそんな、平気ですよ。璃久おばさんだってサクランボと二人じゃ出来ることがしれてんだから、大勢で行った方が力仕事が手伝えていいんですよ。壁やったり、位置変えするんだったら男手がいるじゃないですか。後藤と俺はでかいから丁度いいし、トロさんだって力あるからいいんですよ。それに……お転婆がいた方がみんながサクサク動くだろうしね」

 

 こうなると佐倉もさくらも何も言えなくなってしまい、金曜日の魔法は大勢で行われることが勝手に決められてしまった。


 さくらは、じいさんの都合もあるからはっきりと返事は出来ないと言ったのだが、皆は揃ってその気になってしまった。


 帰宅してからこのことを話すと、璃久は笑い出して「別にいいわよ、でもおじさんにきいてみてからね」と嬉しそうだった。

 さくらがため息をついて「あーあ、せっかく二人でやろうと思ってたのに」と言って、ごろんと寝転んだ時、璃久はさくらが息がつまりそうになるくらいびっくりすることを言ってきた。


 「ね、さくらちゃん、社長さんはあなたを『さくら』って呼んでるの?昨日電話した時に『さくら、電話だよ』って呼んでるのが聞こえたわ。すごく……綺麗な声の方ね、優しそうで。日曜日に挨拶したけど意地悪な人には見えなかったわ。あんなに悪口言ってたのにさくらちゃんたら」

 璃久は優し気に微笑んでいた。

 

 さくらは、璃久のこの笑顔にびくついてしまった。


 「そのことについては言い訳しませんよ。佐倉さんはとっても優しい人よ、お母さんは……どう思った?なかなかかっこいいでしょう?」

 まずは軽い感じでさらりと言ってみた。


 「そうね、とっても背が高いのね。サングラスなんかかけちゃって、おしゃれな感じだったわ。でもお母さんね、友野さんと話して馬鹿みたいに泣いちゃったのよ。きっと後ろで全部見ていたんだと思うのよ。私、恥ずかしくて死にそうだったわ。社長さん、そのことなんか言っていなかった?それに私のこのこ会社に行ったりして、ちょっと……やっぱり図々しかったかもしれないわね」

 璃久は少し不安そうだった。


 さくらはこれを聞いて、どきどきして嬉しくなってきた。

 そして、つい調子に乗ってこんなことを訊いた。


 「佐倉さんはそんなふうに思ったりしないよ。私の身内なんだから気にするな、って言ってたし。ねえ、佐倉さんの声は素敵でしょう?私、聞いてると落ち着くの、低い声でよく通るのよ。お母さんはそう思わなかった?」


 「ええ。優しい、綺麗な声だわ。ああいう声の人は……意地悪社長じゃないと思うわよ、きっと」と、璃久はまたにっこりと微笑んだ。


 さくらはもう少しだけ佐倉の話を聞いて欲しくて、何気ないふうで今日のことを話し出した。


 「今日ね、じいさんの店の改装の話をしたら、佐倉さんが『それはラムダスの魔法だよ』って言ったのよ。あの話が大好きなんだって。昔、伊藤整の訳で読んだって言ってたわ。男の人なのに珍しいよね。それでね、ラムダスのことをターバンを巻いた魔法使いだって言ったの。夜中の魔法のこともちゃんと覚えていて、次の日にはベッキーの分まで置いてあったことも知ってたわ。『セーラは手紙を置いたっけ』なんて言ってたわ」


 璃久は「まあ」と言って微笑んだ。

 そしてどのくらい経ったのか――胸がドキドキしていたさくらには、今、何分くらいが過ぎたのかわからなかった。


 璃久はさくらがドキッとしてしまうほど、優しく美しい表情をしてこんなことを言った。


 「私……あの本を大好きだった人を知ってるわ。私も伊藤整の訳で読んだの。あの本にはとっても素敵な思い出があるの、なつかしいわ」


 そして、璃久はため息をついた。

 「社長さんはきっと優しい方ね。さくらちゃんはほんとによかったわね、他の皆さんも親切な方ばかりだし、社長さんにもよくしていただいて。とにかく、一生懸命仕事をしないとね」


 さくらは璃久が、きっと佐倉のことを思い出したのだと思ってせつなくなった。

 もっともっと璃久の話が聞きたかったが、佐倉との約束を思い出してこらえた。


 さくらは『小公女を木の上で読んだの?』と心の中で訊いた。

 『二人でラムダスの魔法の話をしたの?』と黙ったまま璃久の目を見つめた。


 璃久がさくらのために何かを答えられるはずはなかったが、さくらが自分をじっと見つめているのに気が付くと、優しくこう言った。


 「お母さん、いつかさくらちゃんに聞いて欲しいことがあるって言ったでしょう?きっと……さくらちゃんはびっくりするでしょうけど、お母さんにとっては何より大切な、大事な秘密なの。

 さくらちゃんは……さくらちゃんなら、きっとそれを聞いて、いやになったりしないと思うわ。私、最近になってこれを誰かに聞いて欲しいと思ったのよ。最近は特に思い出すのよ。でも、もうちょっとだけ待ってちょうだい。私がちゃんと考えられるまでゆっくりしたいのよ。ごめんなさいね」


 さくらは璃久が寂しそうに話すのを聞いて泣き出しそうになったが、佐倉のために必死で涙をこらえた。


 「お母さん、お母さんのなつかしい話をきっと聞かせてね。それはきっと……素敵な、大切な時間を過ごした頃の話なんでしょう?私、嬉しいの!お母さんのそんな頃の話を聞けるんだって思ったら、すごく幸せな気持ちになるわ。きっと私に聞かせてね」


 さくらがこう言うと璃久はホッとしたようだった。

 「ありがとうさくらちゃん。きっといつかね」とだけ璃久は言った。



 さくらは翌日、佐倉にこのことを伝えたくて、どきどきしながら佐倉のまわりをうろついたが、すぐに後藤や咲子に邪魔をされて、なかなか佐倉と二人だけになれなかった。


 佐倉はなんとなくさくらの様子に気が付いて、昼休みに二人で出掛けよう、と言ってきたのだが、後藤が『久しぶりにみんなで昼飯に行こう』と言ってきたため、それも出来なくなってしまった。


 昼食の時、皆はラムダスの魔法でどんなことをするつもりかを、さくらに詳しく訊ねた。

 後藤は、さくらから店の大きさや壁の広さなどを聞いて、食べ物の写真や絵を使って、壁に飾れそうなものを選んでちょっとした飾りを作ってくれると言ってきた。


 「フリーで使える写真を上手く使ってさ、横長の飾りにしたらどう?うちで作ってきてやるからお母さんに見せてくれよ」


 さくらは大喜びで「それは素敵!」と言って後藤の手のひらを叩いた。


 ミキオはそれを見て嬉しそうに笑い「感謝感激!」と言ってご機嫌になった。


 咲子もトロさんもこの話に夢中になっていたが、佐倉だけはまるで仲間はずれにされたような気分になっていて、一人むっつりとしていた。

 さくらはレストランからの帰り道でやっと佐倉と二人だけになった時『あとで聞いて欲しいことがある』と囁いた。


 佐倉は静かに頷いていたのだが、すぐにそれが何かを聞きたくなり、ちょうどいいのでこのままさくらを連れて三鷹の店に挨拶に行くと言い出して、それを皆に告げると、佐倉は恐ろしく急いだ様子でさくらを連れて駅に向かって行ってしまった。


 咲子は後藤にこそっとこう言った。

 「佐倉さん、どうするつもりなんだろう。さくらに何かを話すつもりなのな?それともさくらからお母さんのことを聞き出そうとしてるのか……どっちにしても心配だよ私は」


 「ああ。でも、佐倉さんはあんなにさくらをかわいがってさ、よくしてやろうとしてるんだから、別に悪いことじゃない……だろう?俺にだってわからないけど、これは確かに不思議な話だよな。これが悪いことだったら、どうしてこんな偶然が重なったんだ?俺は運命論者じゃないけど、これは絶対に、何かのチャンスなんじゃないのか?佐倉さんにしたってさ、ずっと一人でやってきたんだろう?あの人はいい人だろう?さくらだって、ずっと辛い思いをしてきたんだから、なんとか幸せになったっていいはずじゃないか!俺はこれが悪いことだなんて思わないよ!」

 後藤は強い口調だった。まるで自分に言い聞かしているかのようだった。


 咲子は後藤のこんな様子に驚いたが「私だってそう思うよ」と言って、二人並んでむっつりと黙り込んだまま会社に戻って行った。


 あともう少しだけ。きっと何かの、誰かの魔法がかかってきたら、きっとみんなが手を取り合えるはずだった。

 きっと誰もが、確かな、美しい魔法を待っていた。

    

 お読みくださりありがとうございます。

 次回は『やって来た魔法たち(五、亡き伯母)』です。

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