やって来た魔法たち(三、佐倉の告白)
璃久はおじさんの店の前まで行ったが、後藤も言っていた通りに夕方の忙しい時間だったため、結局邪魔をするようなことが出来ず『月曜日に見てもらおう』と思い家に戻った。
さくらは先に帰って来ていて、ごろんと寝転がって眠っているようだった。
璃久は具合でも悪いのかと思って、そっと名前を呼んでみたが何も答えてこないので布団をかけてやり、夕飯の支度に取りかかった。
さくらが目を覚ましたのは午後八時過ぎだった。
璃久は「疲れちゃったのね」と優しく言って夕食をすすめたが、さくらは「お風呂に入る」と無表情に答えたきりで璃久の顔を見ようともしなかった。
璃久は何かあったのかと心配になり、早く寝るようにすすめたり、風邪薬を飲ませようと持ってきたり色々やってみたのだが、さくらはぷいっ顔を背け、風呂に入って長い時間出てこなかった。
途中、璃久が声をかけてもろくに返事もなかった。
璃久には理由が全くわからず困ってしまったが、あまりしつこくきいても可哀相だと思って、しばらくそっとしておいた。
さくらは「もう寝るから」と言って先に布団に入ったが、もう自分でもどうしようもなくなり、電気を消した後、布団の中から璃久に言ってしまった。
「私のお父さんは、どう頑張ったって写真の人だけなんだわ!お母さんのせいで!」
璃久は驚いてしまい「さくらちゃん」と、優しく声をかけたが、さくらの返事はもらえなかった。
もしかしたら写真のことでトロさんと何かを話して、いやなことを思い出してしまったのだと思い、璃久はさくらをそのまま寝かせてもう声をかけなかった。
璃久自身だって最初の夫が阿部であったことを、耐えられない程の苦しみとしていたのであるが、今はただ、さくらの悲しみだけを思って涙を拭った。
朝になると、さくらはすぐに昨日のひどい言葉を璃久に謝った。
「お母さん、あんなことを言ってほんとにごめんね。イライラしてしまって……ほんとに許してね」
璃久は優しくこう答えるだけだった。
「いいのいいの、お母さん気にしてないわ。怒りん坊の錯乱坊の言うことなんて慣れてるもの」
さくらは璃久の優しい言葉に胸が詰まった。璃久はそれっきり何も言わなかった。
さくらはいつものようにやってしまった自分をどうしようもなく恥じていたが、これ以上しつこく謝って璃久をさらに傷つけたくなかった。
佐倉が璃久の『素敵だった頃の人』でなかったからといって、璃久になんの罪があったというのだろう?
勝手に自分だけが夢を見て期待していただけなのに、ひどい八つ当たりをして璃久を傷つけた自分のような娘は、確かに『阿部の娘』に違いないとさえ思った。
璃久を傷つける阿部の娘は、もともときっと佐倉に受け入れてもらえない、みじめな青色妖精に違いなかった。
さくらはその日曜、璃久と一緒にいるのが辛くて、用事もないのにふらふらと出歩いて過ごした。
夕方遅くにたくさんの買い物袋を抱えて帰ってきて、それらを広げてだらだらと眺めてみたり、お風呂に長く入ったりして璃久との会話を避けるようにして時間をつぶしていった。
璃久は、夕べのことでさくらが自分に気を遣っていると思っていたので、つとめて何も気にしていないように明るい感じで話しかけたり、自分から話題を作って楽しい感じで話そうとしてきたが、さくらは愛想笑いをするだけでほとんど会話らしい会話にはならなかった。
やっとのことで一日を終えた二人は、互いによそよそしく気遣いながら静かに朝を待った。
そして、さくらはまたいたたまれない気分で朝を迎えた。
璃久との重く気まずい日曜が終わると、完全に手の届かない場所に遠ざかっていってしまった佐倉との長い長い一日が待っていた。
会社に行って佐倉の顔を見た時、自分はどんな風に佐倉と向き合っていけばいいのだろう?
今までこっそり夢見ていた憧れの対象を失ってしまったさくらは、見捨てられて置き去りにされた哀れな阿部の娘である自分を思い、完全に打ちのめされていた。
重い足取りで電車に乗り込み、だらだらと駅から会社までの道程をどんよりと下を向いて歩いていった。
さくらは覚悟を決めて佐倉のいる会社の扉を開けた。
『私はあいつの娘なんだ!ひどい奴の娘なんだ!そうならそれらしくやればいいんだ』
自分にそう言い聞かせながら、投げやりな気持ちで中に入っていった。
佐倉はたった一人で奥の肘掛け椅子に座っていて、咲子が隠した万年筆を振りながら「おはようさくら」と言ってきた。
さくらは佐倉に声をかけられた時『立派な阿部の娘』であるにもかかわらず、ちゃんと挨拶も出来ず、それらしく振る舞うことも出来ず、入り口に立ったまま足がすくんで動けなくなってしまった。
佐倉はそんな様子のさくらを見て、すぐに「今日は私と一緒に何件か業者さんに挨拶に行くからね。今すぐ出るよ」と言った。
そして、ぱっと立ち上がると、ホワイトボードの自分とさくらの欄に『午後二時迄外出、挨拶まわり三社』と書き入れ、いつものようにさくらの手を引っ張って連れ出した。
佐倉は、璃久の娘であるさくらの手をしっかりと握って足早に駅まで歩いた。
途中ミキオに会ったが、佐倉は完全にミキオを無視した。
ミキオは二人を見て『きっと何かが始まる!』と思って、わくわくして飛び上がりそうになった。
さくらはただ歩いているだけで泣くことも笑うこともしなかったが、佐倉は颯爽としていて力強かった。
さくらの心を守ろうとしていた佐倉は、銀の箱を捨ててしまわないように、二人の水色の花びらをなくしてしまわないように、大切な優しい場所を目指して進んで行った。
佐倉はあの公園にさくらを連れて来た。
ずっと奥の方にある芝生のスペースまで歩いてくると、佐倉はまず自分が座り込み、さくらをぐいっと引っ張って座らせた。
「十一時くらいになったら三鷹の店と渋谷に挨拶に行くよ。それまでここで寝っころがって二人で空を見よう」
まるで恋人に向って言うような台詞をさらっと言う佐倉にさくらは驚いてしまった。
佐倉は「私は社長なんだからさ、好きなように自分勝手にやるよ」と言って、笑いながら上着を脱いで勝手にごろんと寝転んでしまった。
さくらはわけのわからない佐倉の態度に焦ってしまった。
「挨拶に行くのにスーツが滅茶滅茶になりますよ!」
「構わないね、ひどくなったら買えばいいんだよ。私は意外と金持ちだからさ」へらへらした調子で佐倉は言った。
さくらは呆れ返って「ふざけてないで、ほんとに知りませんよ。芝生は服に付くと大変なんですから」と言ったが、佐倉は知らんぷりで目をつぶった。
そのまま何も言わず、のんきに寝転がっている佐倉を見ているうちにさくらはイライラしてきて「今日は最終ページを後藤さんに見てもらってから写真の入れ替えをしなくちゃいけなかったのに!佐倉さん寝てなんかないで起きて下さい!」と言って佐倉の肩を揺さぶった。
それでも佐倉は面白がって「ああ痛い」と言ってニヤついた。
「いいさ、両思いの私達は勝手にやるんだよ。そんなのは後藤にやらしときゃいいんだ。最近あいつはミキオみたいなんだから、調子に乗らせちゃダメなんだよ」と、ふざけた顔を見せつけてきた。
さくらは自分が『立派な阿部の娘』であることを完全に忘れてしまって、社長である佐倉に向かって大声を出した。
「こんなことしてないですぐに帰って、やるんですよ。もう佐倉さんはおかしいわ!芝生だらけになってどうやって挨拶するんですか?私は白い服なんですから。薄汚れた格好でお店になんか行けないじゃないですか。早く立って、佐倉さん!」
佐倉は嬉しそうに笑って、やっと体を起こした。
さくらの髪をいつもみたいに引っ張り「怒りん坊の、錯乱坊」と言って笑っている。
さくらはびっくりしてグッと喉がつまった。
しかし、佐倉のふざけた表情を見ているうちにだんだん腹が立ってきて
「もう私はどうでもいいんだから、もう放っといて下さいよ」と投げやりに言いぷいっと横を向いた。
佐倉はまだ笑っていて、ますますさくらに顔を近づけてきた。
さくらはおかしな様子の佐倉が怖くなり、体を後ろに引いた。
「もう、ふざけたことをやってないで帰りますよ。仕事をするんだから、ちゃんとやるんだから!」
佐倉は、もっともっとさくらを怒らせてから告白しようと思っていたが、もう自分でも嫌気がさしてきた。
そしてついに言ったのだ。
「璃久さんに会ったよ。木の上のあの人に、とうとう会った」
「えっ?」
「トロさんが紹介してくれて、璃久さんに会ったって聞いたろう?私の大切な人にやっと会えたんだよ。でもそれだけだった。ただ会って、挨拶をして、微笑んでくれただけだったよ。璃久さんは、私を見ても何も覚えていなかったよ」
さくらは自分の耳を疑った!そして目を大きく見開いて探るように佐倉を見た。
佐倉はゆっくりと頷いて、さくらを見つめながら話し出した。
「会った時すぐに、私には君があの人の娘だとわかったよ。一次面接の直前に記入してもらった調査カードの家族欄に璃久さんの名前もあったからね、会う前からそうじゃないかと思ってたんだ。最初は君を側において、璃久さんがどうしているのか、幸せでいるのかってことをさ、どうしても確かめたいと思ったんだ。そのうちに、もしかしたらって馬鹿なことも考えた。そのことはさくらも知ってるだろうが……昨日も私は期待して馬鹿みたいにうろうろして、璃久さんに会おうとやっと決心して会社に行ったんだよ」
「お母さんのバイオリンの人だったの?木の上の人はお母さんだったの?」
さくらは泣きながら佐倉のシャツを強く掴んだ。
「私、違ったんだって思って、佐倉さんじゃなかったんだって!」
さくらは訳もわからずこう言って、そのまま佐倉のシャツをぐちゃぐちゃに濡らしてしまった。
佐倉は長い手でしっかりとさくらを抱きしめた。
打ちのめされて傷つけられていた二人は、扉の入り口に置いてあった告白によって、やっと少しだけ心を癒され、またもう一度、美しい水色の花びらを拾えるかもしれないと思った。
朝の誰もいない公園で、二人は長い時間こうしていた。
佐倉はさくらを抱きしめたままこう言った。
「君はずっと『私のサクランボ』でいてくれるんだろう?たとえ璃久さんが、私を忘れてしまっても……本当に忘れてしまったの?君もそう思う?」
佐倉は泣きながら訊いてきた。
「どうして忘れられるのか私にはわからないよ。大切な時間って言ったのは、私との時間じゃなかったの?璃久さんは誰を思っていたの?」
「忘れるはずがないんだわ絶対に。だってお母さんは絶対に誰かを愛していたんだから!佐倉さんを愛していたに違いないんだから!違うって言うんなら、いったい誰を愛してたっていうの?それともお母さんはどんな人も愛したことがないの?」
二人はもうどうすることも出来なくて、ただそこにじっとしているだけだった。
じきにたくさんの温かな手が差し伸べられて互いの扉を開いていくことになるが、今は二人でこうしているだけで、ただそれだけでも幸せなのだと、二人の『さくら』は心から思っていた。
大学生のカップルのような二人組や、赤ちゃんを抱いた母親達が、ひとり、またひとりと公園に入ってくると、二人の時間は現実に引き戻されてしまった。
佐倉はやっと腕を開いてさくらを逃がそうとしたが、さくらの方はまだシャツしがみついて離れなかった。
さくらはぎゅっとしがみついたまま「銀の箱は捨てないわ」と言った。
これを聞いた佐倉は涙を拭った。
「私達の水色の花びらを中に敷きつめようよ」
「いいえ、私はその上に素敵だった頃の大切な時間も入れるわ!お母さんが忘れるはずがないんだもの!そうでなかったらおかしいわ、お母さんの言葉をパズルにして繋げてごらんって言ったのは佐倉さんだったでしょう?私はやるわ、絶対に!佐倉さんはもう……そうしたくなくなったの?」
さくらは泣きながらこう言って、不安そうに佐倉を見つめた。
佐倉はどう答えていいかわからず、さくらを見つめたままずっと黙っていた。
何も答えてくれない佐倉を見て、さくらはどうしようもなく悲しくなって「お願いだから!もう一度だけお母さんを許して下さい!」と言って泣き出した。
佐倉は、またこんなふうに言ってくるさくらが可愛くてたまらず、自分でもどうしていいか答えが出せないでいるというのに、ついこう言ってしまった。
「そうしたくなくなるはずがないじゃないか!私は璃久さんだけをずっと愛してきたんだから!昨日あの人を見て、やっぱりそうだとわかったんだから!さくらと一緒にそれをするんだったら……きっと」
すると、さくらはやっと手を離した。
「私、佐倉さんがその人だって、きっと信じていたんです。もしそうじゃなかったら辛いから、確かめようとしなかったんです。確かめたくてしょうがない時もあったけど……でももう大丈夫なんだわ。心配しなくてもいいんだわ。あとは、お母さんが気付いてくれさえすればいいんだもの!だってそんなのは時間の問題でしょう?」
佐倉には、今の言葉が心地よい鈴の音のように聞こえた。
さくらは今、自分が『その人』であるから『心配しなくてもいい』と言ったのだ。
そして、あとは璃久が気付いてくれさえすればいいと、はっきり言った。
璃久の娘の力強いこの言葉は、佐倉に、希望がまだなくなった訳ではないことを気付かせた。
佐倉は自分の胸がドッドッと高鳴る音を聞いた。
「そうだよ。私だって君が気付いてくれるのを待っていたんだよ。うまくだまして知らんぷりしてたくせにさ!さくらが気が付くのをずる賢く待ってたって訳さ!さくらが私を完全に受け入れてくれるかを確かめようとしながらうまくやって取り込もうとしてたんだ。最初から卑怯者だったんだよ。それでも君は私を銀の箱に入れてくれるの?璃久さんをこれからも愛していいの?」
「ええ、お願いだからお母さんを愛して下さい。ついでに私のことも。一緒に銀の箱を一杯にするのよ、絶対に」
「もちろんサクランボを愛してるさ!今は誰よりもね。冷たい女王より君の方をね!」
佐倉は叫ぶようにこう言って、またさくらを抱きしめた。
二人は、そのまま本当に空を眺めようと言った。
そして服は芝生だらけになって、髪には土がついて汚れてしまったが、昼の鐘の音を聴くまでじっとそこで寝転んでいた。
「さくら、このまま戻ったら大変なことになるから、とにかく渋谷の業者さんのところには顔を出そう」と、いつもの調子に戻った佐倉がこう言った。
「あとは適当に言っときゃいいさ。渋谷に寄る前に服をなんとかしようか、さくらのはもうダメだね。なんでもいいから買いに行って、昼飯を食べたら挨拶に行くんだよ。会社に戻ってもいつも通りにやるんだよ、ミキオや後藤くんに気付かれないようにね。何か言われたら適当に輸入雑貨の店を二人でまわってた、って言ってさ、何か聞かれてもごまかすんだ。私は秘密が好きなんだ」
「私もそうですよ、だってこの秘密は素敵だもの。心配がなくなった秘密だからなおさらよ!ミキオちゃんなんかに邪魔されたくないんだもの」
二人はついに立ち上がり、お互いの服に付いた芝生をはらいあった。
そして、とうとう図々しくなって佐倉の腕に手を入れたさくらは「今日だけだから」と言って、公園を出てもそのまま腕を組んで歩いていった。
お読みくださりありがとうございます。
次回は『やって来た魔法たち(四、ラムダス)』です。




