トロさんの優しい写真 (一、もう不要の1LDK)
堀田の攻撃はすぐに始まった。
堀田は卑劣な阿部を許せなかったので、佐倉の希望通りに徹底的にやった。
阿部は、佐倉の思った通り『あのこと』を母親には一切話していなかった。
堀田とその話をした時の様子からは、阿部の方でもこの件では相当に傷ついて……確かに傷ついていたらしい事がはっきりとわかった。
堀田は夏休みの事件について全てを知っていた訳ではなかったし、阿部の口からはっきりと何かを聞かされた訳でもなかった。
しかし堀田は、阿部が遠回しに何を言ってこようとも『全く知ったことじゃない』とばっさり斬り捨てた。
たとえ璃久の態度が多少気に入らなかったとしても、阿部が何度も璃久に言った卑劣な言葉や、その他の日常的な暴力、そして女性問題については決して許されるものではないという事をはっきりと伝えた。
また、阿部のあの日の行動をミキオが見ていたことと、他にもそれを知っているものがいるという事実をはっきりと伝えた時、阿部が震え上がっているのを堀田は見た。
璃久とさくらのこの家での最後の日、暴力と言葉とで璃久とさくらを酷く傷つけ、そのまま女性を家に入れた行いについては、たとえ公に争ったとしても阿部に勝ち目はないという事も丁寧に、ゆっくりと、恐ろしくしつこく話して聞かせた。
阿部はこれを公の場で争うつもりはない事を、その場で堀田に伝えてきた。
堀田が璃久やさくらに示したい、阿部からの『見返り』については、とりあえず阿部に少しだけ時間をやることにした。
堀田からは当然の相場としてこちら側の希望のようなものを阿部に渡したが、まあそのまんま受け入れられる内容のものではなかったので、堀田はせめてその半分くらい取り上げてやれればそれでよし、と考えていた。
阿部はその額を見てゾッとしたに違いないが、じっと何かを考えこんでいる様子で「後日連絡をします」とだけ言ってきたので近日中に連絡を取り合うことにして、その日は話し合いを終えたのだった。
堀田はこれをうきうきしながら電話で璃久に知らせて、性懲りもなく「また事務所に来ていただいた時、お茶でも飲みながらゆっくりお話し出来ますから」と言った。
璃久は優しい声でお礼を言って堀田を舞い上がらせてしまったが、堀田も佐倉から入ってくる恐ろしいチェックが怖かったので、まあまあ紳士的に行儀よく振る舞った。
佐倉は堀田が真面目にやってくれていることで、また友達への信頼を回復しつつあった。
堀田はあれからもよく佐倉の会社を訪れて、さくらや『会社で初めて会ったはずのミキオ』とも親しく話し、細かいやりとりを親切に知らせてきた。
「もう『紙切れ一枚』の件は目前だよ」と堀田から告げられると、さくらはすっきりした気分になって「もうすぐ私の名字は変わるんだわ。結婚を知らせるハガキみたいに友達に出しちゃおうかな」などと言って笑ったりした。
トロさんはこれを聞くと「さくらちゃん、そんなこと言うもんじゃないよ。お母さんの前では特にね。自然に慣れてくればいいんだから、まず自分が受け入れてからだよ」と声をかけてきた。
いつものトロさんとは違い、やけにきっぱりとした言い方だった。
さくらはトロさんが母のことまでも心配してこう言ってくれたのだと思った。
ただ、いつも控えめで口数の少ないトロさんがはっきりと言ったことに少し驚いてはいた。
入社した時からずっと心配のかけ通しだったからだと思ったさくらは、できるだけ明るい感じでさらりと返しておいた。
「でももう本当に平気だし、受け入れるも何も、自分がそうなりたかったんだから大丈夫」
それを聞いてトロさんは笑っていたが、何となく寂しそうに見えたので、さくらはそれ以上は何も言わないでおいた。
金曜の午前中に掘田から佐倉に電話があった。
堀田はかなりご機嫌で『さくらちゃんなら連絡が取れると思ってさ、あいつから連絡があって慰謝料としていいもんが手に入りそうなんだよ。さくらちゃんにかわってくれよ』と堀田は言った。
さくらが電話に出ると、堀田は阿部から支払われる慰謝料が決まりそうだ、と言った。
堀田の話だと、数百万の現金の他にマンションが手に入る、という事だった。
阿部は他にもいくつか小さなアパートを持っていたが、阿部の家からそう遠くない場所にある築十数年の1LDKのマンションの部屋を与えたいとの意向を自分から知らせてきたようだった。
さくらは電話でそれを伝えられると引き攣った顔で「それは堀田さんからそうするように、って父に提案したんですか?それとも、父の方から言ってきたんですか?」と訊ねた。
堀田が『それが、ご親切にもあちらさんのほうから言ってきたんだよ』と答えると、さくらはすぐに「そんなもの、絶対にいらないわ!私イヤよ、お母さんだってそう言うわ。そう言っておいて下さい。もう……何にもいらないから、いいです!」とつい大きな声で答えてしまった。
すぐそばにいた咲子はびっくりして「さくら、どうしたの?」と言って、すぐに受話器を取り上げた。
そして「あとでかけなおしますから」と堀田に伝え電話を切った。
咲子は、さくらの背中を支えるように後ろ側に立っていたが、何にも言わず震えているようなさくらを見て心配でたまらなくなり大声でミキオを呼んだ。
ミキオが作業室から出て来ると、さくらの目からは涙が零れ落ちた。
「サクランボどうした?」ミキオはすぐにさくらのそばに来た。
「お父さんはやっぱり酷い人なんだわ!あの女が今住んでる部屋を私達に慰謝料として渡すって!信じられないよ、どうしてそんなことが出来るの?そんなことお母さんに言えないよ。気持ちが悪くて吐き気がするわ。ミキオちゃん、堀田さんに電話して絶対にいらないってもう一度言ってよ。理由もはっきり言って構わないから」
ミキオは怒りのあまり机をどんと叩いた。
騒々しい物音を聞いて、佐倉の部屋から佐倉と後藤が飛び出して来た。
さくらがまた泣いているのを見ると二人はすぐに「どうしたんだ?」と言ってミキオを睨みつけた。
さくらもミキオも何も言えるはずがなかったので咲子が二人に説明すると、今度は後藤までが「もう住まないからいらないって?そんなもん誰がいるかよ!」と荒々しい声を出した。
佐倉は落ち着いていたが、その場で堀田に電話をかけて『そんなもん、のマンション』がどんなものだかを低い恐ろしい声で伝え、こういう場合どうしたらいいかを堀田に訊ねた。
堀田のほうはこの不動産がそんないわくつきの物件だと知らなかったので卑劣な阿部にますます怒りを覚えたが、取り敢えず阿部への返事は保留にしておくと言って電話を切った。
皆、さくらが可哀相でなんとかなぐさめようとあれこれやってみたが、しばらくはさくらだけでなく全員が全員ともひどくがっかりしてしまった。
さくらはすぐに自分の態度を後悔して「すみませんでした。またここで叫びまくって馬鹿をやっちゃいました」となどと言って少し笑ってみせたが、みんなの方は笑い返す事が出来なかった。
佐倉は作業室にみんなを追い払いさくらと二人だけになると、例の『さくら、さくら』を小声で歌った。
「先週の土曜日はあいつらに邪魔されて大きな木を探せなかっただろう?今から二人で探しにいかないか?今日は二人でさぼったっていいさ。私の予定は特にないんだよ、さくらだって急ぎの仕事はないじゃないか」
さくらはなんとか『さくら、さくら、今日もサボって、秘密の場所に、さくらの花は、とんでった……』と返しを歌ったが、佐倉がにっこりと両手を広げるとそのままその胸で泣いてしまった。
さくらが少し落ち着いたのを見てとると佐倉は作業室に入っていき、心配でたまらない顔をしている彼らにこう伝えた。
「今日は――これからさくらを連れてどこかでのんびりしてくるよ。そのまま家に帰らせるから、もしお母さんから連絡があったら心配させないように上手く言っておいてくれよ。私は戻って来るが、途中また連絡するから。こういう日もあるだろうさ、私だって、同じようにどうしようもない日があったから」
二人はまた逃げ出していなくなってしまった。
残されたミキオたちは佐倉とさくらの二人についてあれこれ話し合った。
後藤は「佐倉さんはさくらをちゃっかり呼び捨てになんてしてさ、もうすっかり親父みたいな気分でいるんだな」と言った。
ミキオに聞こえると思って咲子は慌ててしまい、後藤の背中をぎゅっとつねった。
後藤は「なんだよ、別に平気だよ」と小声で言ってからこう続けた。
「あの人は、さくらをよくわかってるんだよ。最初から色々あったのがかえって良かったんだ。二人にさせといた方がさくらは落ち着くかも知れないよ」
ミキオはなぜか落ち着いていて、楽し気にこんなことを言った。
「その通り!サクランボは佐倉さんに任せておいたほうがいいぜ。その方が話が早いし、面白いじゃないか」
後藤も咲子も一体何の『話が早い』 のかわからなかったが、二人はミキオには佐倉の秘密がばれていないと思っていたので、取り敢えずはミキオのことは放っておいた。
彼らは阿部のやり口についても話し合ったが、やはりこの件はいくら考えても不愉快でならなかった。
しかし、話しているうちにすぐに『いくら頭にきたといってもマンションをただ突き返すのは馬鹿らしい』ということに気付いた彼らは「それなら売っ払えばいい!」とみんな揃って言い出した。
佐倉が帰ってきたらその件について、さくらがいないところでしっかりと話し合い『後で佐倉に説得させよう』という事まで言い出して、ここでも仕事はそっちのけになってしまった。
今、さくらは多くの優しい手に守られていた。
逃げ出した二人は大胆な遠出をした。
佐倉は「プラネタリウムへ行こう」と言い出して、何本か電車を乗り継いで大きな緑地の中にある科学館までやってきた。
四十五分間、二人は途中うとうとしながら星を眺め夜空を楽しんだ。プラネタリウムを出た二人は広い芝生の上にそのまま座り込んだ。
佐倉は「木に登った人とあんな綺麗な星を見たことはなかったから……さくらが初めての相手なんだよ、私が星を語る相手としてはさ」と言ってさくらを持ち上げてやった。
さくらは佐倉の真似をして、わざと何にも答えずそっぽを向いて鼻歌を歌ってやった。
佐倉のほうも真似をして
―――『さくら、さくら、すぐに怒るが、すぐまた笑うよ、可愛い君の、綺麗な涙も、さくら、さくら、ひとしずく……』と歌った。
「さくらの歌に比べて私のは洒落てるだろう?口がなくなって、首が曲がったりしてないしさ。なんといっても『場所だあー』なんて伸ばしてもないだろう?『となりの奴に笑われた』なんて、もう最悪じゃないか」
さくらが返事もしないので、佐倉は二番を披露した。
―――『さくら、さくら、ほんとに君が、娘だったらと、星をみつめる、願いをかける、さくら、さくら、輝くよ……』
ね、なかなかいいだろう?即興だよ、同じ歌でも全然違うじゃないか」
しかしさくらは何も言わずわざとニヤついて見せた。そのうち佐倉も口元がゆるんできて「ふん」と言ってから「口をきくまで何もしゃべらないことにするよ」と言った。
さくらは降参してこう訊いた。
「これから本当に木を探しに行くんですか?それともそろそろ戻りますか?」
「今日の景色はこれでいいだろう?あとはここをのんびり散歩して、ご飯を食べたら帰るんだよ。だって堀田からお母さんに連絡が入ってるかもしれないじゃないか。あのことは今は忘れるんだよ、たいした事じゃないさ、きっとね。さくらはもう大丈夫だって言ってたじゃないか、こんな事で負けてちゃだめなんだ。君のお母さんだって気にしたりしないよ。そりゃ頭にはくるだろうが……どうってことないさ、勝手にやらしときゃいいんだよ、そんな最低野郎の負け惜しみの嫌がらせなんか!」
佐倉がいつもこんなふうに自分の代わりに怒ってくれるのだ。
さくらはそれだけで心が静まり落ち着くことができた。
「私、自分でも頭にきただけかと思って!でもやっぱり悲しいんです。こんなことをする人が父親だっていうのは。いくらさよならしたって私にとっては、それだけは変わらないんですから。どうしてお母さんは、」
さくらはつい言ってはいけない言葉を口にしかけた。しかし、璃久を思うとそのまま続けて言えなくなった。
佐倉は、またさくらが泣いてしまうのではないかと思って、そっとさくらの様子をうかがった。
しかし、さくらはいつものように涙を浮かべてはいなかった。
「佐倉さん、もう泣いたりしませんよ。私、大丈夫です。すみませんでした。佐倉さんが言った通りにきっとどうってことないことだったんです。だって、もうすぐ終わるんですから」さくらは心からこう言った。
そして目の前の大好きな顔を見ているうちに気持ちが落ち着いてきて「もう完全に復活した」と宣言した。
「私、秘密だとか言って結局佐倉さんを独占してるんですよね。こんなにしょっ中サボってるんだから最悪の社員ですね。きっと、気持ちの中にこうしてサボった時は土曜日にその分をやればいいや、なんて甘い事を考えてるのかもしれないわ。もちろん明日はちゃんとやるつもりだけど……もうこれ以上ずうずうしくこんなにしないようにしなくっちゃ。結局自分の事でみんなを振り回してる訳だし、最低最悪の馬鹿社員に違いないわ。私、みんなにも謝ってちゃんとします。堀田さんにもちゃんと電話して謝ります。堀田さんは色々考えてくださっているのに、私はもうどこをとっても最悪だわ!
―――『さくら、さくら、見捨てられたら、どこへ飛んでく、さくらのもとへは、もどれなくなる…… 』とか、そんなになったら絶対にイヤだもの。今日は本当にすみませんでした。許してくれますか?」
「許してあげるよ、大丈夫さ。君は家のことに決着をつけたら本来のさくらに戻って新しく始めるんだろう?誰だってどうしようもない時があるんだよ。私にだってあったんだから……そりゃもう最悪最低の馬鹿だったよ。堀田じゃないけど、それこそちゃらちゃらやってたよ」
「佐倉さんもう大丈夫です、私、仕事に戻ります。こんなにしてもらって感謝してます申し訳ありませんでした」
さくらの言葉に、佐倉は頷いただけで何も言わなかった。
佐倉はただ、この件を一日でも早く終わらせて、自分が長い間、決して開けようとしなかった固くて重い扉に、さくらが優しい手を掛けてくれることをはっきりと願うだけだった。
お読みくださりありがとうございます。
今回のエピソードは全部で三話となります。週末・日曜くらいまでに出来上がったらまた投稿いたします。




