銀の桜とセーラー服(二、面接)
いくら虚勢を張ろうとも、母と娘の反乱の火種は今にも吹き消されそうに弱弱しく揺らいでいて、その出だしにはチーンと半音下がった侘しい鐘の音が響いた。
この母娘が胸に抱えた強い決意を知らない者たちなら、これは決別などという大層なものではなく、虐げられた哀れな民が起こした惨めな反乱にすぎず、すぐに『阿部』という陰湿なお貴族様に捕らえられたあげく、打たれ痛めつけられ屈服させられるという哀れな結末が目の前にチラついただろう。
しかし幸運なことに、後に事実を知ったさくらの友人達が身内までをも巻き込んで、改めてこの家との決別に力を貸してくれた。
哀れな民の蜂起は、まだかろうじて惨めな結末を迎えてはいなかったのである。
当初、さくらと璃久はわずかな貯金だけをたよりに身一つで家を飛び出し、身内の者や友人にさえ行方を知らせず、薄汚れた週契約のマンションに二週間程泊まっていた。
衣類もろくに持たずに飛び出したため、さくらは間に合わせの服を何着か買うはめになった。
さくらは三月末に役所を退職することになっていたのだが、それまでの二週間、今まで以上に明るい感じで過ごすよう心がけた。
同僚達に詮索されたり同情の目を向けられたりしないよう、精いっぱい楽し気に振舞っていた。
しかし、いずれは阿部家の事情が知られてしまうことは分かっていた。
さくらの上司の中には阿部の知人が何人かおり、以前、阿部とあの女のことを心配してさくらにたずねてきたこともあったからだ。
しかし、さくらは最後まで意地でも落ち込んだ様子など見せるまいと、ごく自然に過ごすことに気を集中させて歯を食いしばった。
そして、最終日。
『さくらを送る昼食会』では同僚の一人がこんなスピーチをした。
―――「やけに楽しそうに最後の数週間を過ごした阿部さんだけど、そんなにここを出て行くのが嬉しかったのかい?先を越されてここに取り残される僕たちは、何だかひどくみじめな気持ちになってるよ。本当にすごく寂しくなるけどずっと応援しているからね」
優しい口調でこう言われた時、さくらは胸が一杯になり泣き出してしまい、自分でもわからないうちについ言ってしまった。
「本当は違うんです。個人的なことだけど知られるのが恥ずかしい、みっともないことがあって。でもきっとすぐにバレちゃうことなんです!でもみんなと別れるのは本当は……本当に寂しくって」
さくらのこの言葉が重い家庭の事情からきていると、この時点で知っている同僚は一人もいなかったが、さくらが退職して一週間程した頃に、上司の間で『阿部家の不倫騒動』が話題に話題に上ったため、昼食会を開いてくれた同僚全てがさくらの笑顔と涙の事情を理解した。
そして、さくらの同僚の中でも特に親しくしていた数人が、なんだかんだと理由をつけてさくらと璃久の新住所を阿部から聞き出した。
お金を貸しているとか、大切な本を貸しているとか、さくらに身に覚えのない不名誉なことばかり並べ立てたのだが、璃久から連絡先だけは聞いていた阿部は、娘の不始末は申し訳なく思うとしながらも、自分には関係ないとばかりに冷たく慇懃な態度で連絡先を伝えてきた。
後にさくらに会った時、その同僚は『金貸してるから返せってのはいくらなんでもひどかったよなあ。ただ力になりたくてさ』と住所を知ったいきさつを話したが、そのことでさくらが怒ったり気を悪くしたりすることは全くなかった。
むしろ、さくらは最後の数週間の自分の振る舞いを恥ずかしく思っていたのだから。
全く正直じゃなかったし自分のことに精一杯で、入職した時からずっと同僚達に抱いていた友情のような気持ちを思うと、あんなふうに意固地に過ごしてしまったことが悔やまれた。
職場のみんなへの尊敬や感謝の気持ちを振り返って噛み締めることができなかった最後の時間はもう取り戻せないが、連絡をくれた同僚たちにはその思いを正直に伝えることができた。
同僚にお金や本を借りてそのままにしていた恥知らずな娘だと父親や祖母に思われようが、もう別に知ったことか!とさくらは思っていた。
そして、この同僚達も同じように、さくらに心からの親愛と友情を感じていたので、さくら母娘が週契約の部屋に住んでいることを知ってから、まずはその方面で力になろうと考えた。
四月に入ってすぐ、さくらとは担当業務が一緒だった後輩の女の子が、
―――『自分の親が吉祥寺の駅から徒歩二十分程の静かな住宅地にのはずれに、女性が住むにはちょうど良い小さなアパートを持っているのだが、もう何ヶ月も借り手がつかないから困っていて、よかったら敷金も無しでいいから住んでくれないか』と持ちかけて来たのだった。
それはきっとさくらのために言ってくれたことで、本当のことではなかったに違いないが、さくらはありがたくこの話を受けることにした。
そして、いずれ落ち着いたら必ず規定の敷金を支払うことを約束した。
こうした親切な援助のおかげで四月の半ば、さくら母娘は新しい一歩を踏み出した。
小さな古いアパートは四畳程の和室と六畳の洋室、四畳あるかないかの台所続きの洋室があり、小さな洗面所と風呂場には窓もあり、明るく清潔な間取りになっていた。
家賃も管理会社を通さずに直接契約を結んでくれたところからすると、さくら母娘のために他よりかなり安い金額にしてくれているに違いなかった。
さくらは正規の家賃で、と申し出るべきだと言ったのだが、璃久はまずは自分たちの生活を固め、その上でなるべく早いうちに差額を返していくべきだと言った。
あまり借りを作りたくないというさくらの気持ちはわからないではないが、今、このせっかくの親切に対して金額のことでとやかく言うようなことはしたくないと、璃久がはっきりと言い切ったので、さくらのほうが折れて、しばらくはこの親切に甘えることになってしまった。
さて、こうした多くの親切によってさくらと璃久が得た新しい住所は、履歴書の住所欄に、清々しく清潔な気持ちで書き込まれたため、肝心のさくらの『就職活動』は精神的に非常に活発になった。
もうビクビクしながら仕方なく阿部家の住所を書き入れて、電話番号だけ別のところのものを書く必要もなくなったのだと思うと、さくらの胸ははずんでいた。
しかし、この業界の数少ない中途募集の中で、全く実務経験の無いさくらが短期間で仕事を決めることはかなり困難な状況だった。
つい一昨日も、初めて二次面接まで進んだ会社から不採用の通知を受け取ったばかりだった。
ところが今朝、さくらは一昨日の不採用通知など気にもしていない様子で、今日行く会社の二次面接用にと用意したデザイン画を数枚持って意気揚々と出かけて行った。
今回面接を受ける会社は、元々は社長が友人と二人で始めたシステムインテグレーション――SIを専門に手掛けるIT企業だった。
たまたまなのか、敢えてそうしたのかはわからないが、ブライダルやアパレル業界、そしてアニメやゲーム、小説作品等のIPコラボ、そのほか堅実な成長企業を顧客に抱え込んでかなりの業績を伸ばしたそうだ。
アニメキャラクターとのコラボジュエリーやウェディング企画は好評で、社長がジュエリー部門を開設して数年でこの業界では知る人ぞ知る優良企業となった。
社長は、本家本元のIT事業のほうは経験とアイデア豊富な友人と彼が集めた優秀な社員に任せ、ここ数年はジュエリー制作と販売、自社ECサイトとブライダル系のイベント企画を中心に活動的に動いており、少数精鋭で堅実な経営を行っていた。
めったに中途採用を行わないこの会社は、ジュエリーだけでなく銀細工の美しい箱や壁掛け、時計、飾り棚なども作っていて、それによく合うレースの敷物や小物、家具などの輸入も行っていた。
この会社を募集広告で見つけてから詳しく調べていくうちに、さくらはこれらの作品に魅せられてしまい、どうしてもここに入りたいと強く願うようになっていた。
そのためにさくらは何年ぶりかで徹夜もしたし、いつもの何倍もの時間をかけ、また何度もやり直しながら、やっと自分の納得の行く新しいデザイン画を一つ仕上げていた。
二次面接に持っていった作品のうち二点は数ヶ月前に面接用に仕上げていたパールのネックレスのデザインで、学校でも先生からお墨付きをもらったデザイン画だった。
他には太いシルバーの二連のブレスレットと揃いの指輪をデザインした大胆なものが一つ。
そして、アイボリー色のセーラー服の襟元からちらりと見えるシルバー細工の桜の花のデザインを描いたペンダントで、これはさくらの自信作だった。
これは、さくらの高校時代の制服をそのままに描いたもので、もし相手側が興味を持って色々きいてきたら、
『高校生が学校帰りにつけても上品で清楚な感じのするペンダントの提案』ということにして、その創作の原点であるとか、デザインのポイントなどを若い感性で思いっきり語ってみようと考えていた。
さくらはこのデザイン画が今回の面接中に面接官の目に止まり、採用を決めてもらうポイントになるかもしれないなどと自惚れた夢を描いていたので、まさかため息まじりに笑われて、机の端に避けられてしまうなど思いもしなかった。
憧れの会社の面接で、自信作のデザイン画があんなふうに端っこに追いやられている姿を見ているうちに、さくらは完全に打ちのめされてしまい、ひどくみじめな気持ちになった。
そのため、他のパールの作品やブレスレットについて専門的なことをきかれた時、もごもごと口ごもってしまい、まともに答えることが出来なかった。
若いほうの社員がフォローするように基本的な質問をしてきた時は、馬鹿にされているような気がして悲しくなり、情けないことに少し涙ぐんでしまった。
だめならさっさと終えてほしいのに面接は三十分か……もしかするともっと長く続いたので色々ぼろが出てしまい、途中互いに長い沈黙があったりもした。
さくらは自分が用意していた馬鹿馬鹿しい、若い人向けの可愛らしいデザインの提案などもうどうでもよくなった。
とにかくこんなイヤな会社に入ることにならなくて本当によかった、と懸命に思い込もうとしているのに、厳しい顔をした中年の社長が部屋の奥から次から次へと素晴らしい作品を持って来ては、それらについていちいち説明してくるので、それに目を奪われてついうっとりしてしまい、自分にはもう縁の無い空間にいるのだということを一瞬忘れてしまうのだった。
仕方なしに、さくらはもう目の前にある素晴らしい作品達のことは考えずに、ここにいる意地悪な社長のことだけを考えようと頑張った。
―――(ふん、こんな人の下で働いたら後できっと後悔するに違いない。入社する前にそれがわかってラッキー)
さくらは頭の中で何度もこのフレーズを繰り返した。
しかし、社長のほうは「何か気に入った作品はありますか?」と訊いてきたり「作り方やデザインのことで質問はありますか? 」などど、にこりともせずにさくらに問いかけてくるのだ。
さくらはまた馬鹿にされたような気分になって、その社長に負けないくらい無愛想に頷いたり「どれも素敵だと思います」などと言って、適当にいいかげんに答えながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
社長はそれでも同じような質問を繰り返すし、帽子を目深にかぶった冷めた顔つきの若い社員は社長の様子に呆れたように首を振り、どうしてだかわからないが分厚い眼鏡をかけたり外したりして落ち着きのない様子だった。
しまいには窓の方を向いて大きくため息をついたりしている。
さくらはもうたまらない気分だった。
出来ることならすぐにここから逃げ出したいとも思った。
そして、恐ろしく長い沈黙の数分間が過ぎた。
いたたまれなくなった若い社員がやっとのことで何か言おうと振り向いた時、
社長はぼんやりと「そうだ」とつぶやいた。
そして、はっとしたように立ち上がり「お前のあのパールのを持って来なさい」と、若い社員に言いつけた。
すると、その社員は急にムッととして「俺のなんか見せてもあまり参考にならないんじゃないですか?」と乱暴に言い返したが、社長はこれを馬鹿にしたように「ふん」と言ってせせら笑い、厳しい顔をさらに引きつらせて彼を睨みつけ、早く持ってくるようにせかした。
さくらはこの時も、この若い社員が口にした言葉にカチンときてしまい、
―――『へえ、つまり見せても私の実力じゃ参考になるどころか、どうにもならないって言いたいわけね!』
と、悪いほうへ悪いほうへと考えて必死で気を紛らわそうとしていた。
そのうち若い社員が目の前の机にそっと置いたデザイン画は、素晴らしくエレガントなラインのパールのネックレスだった。
さくらはそれを見て、また我を忘れてうっとりしてしまった。
そして根っからの意地悪に違いないこの社長が、
―――「これは去年、協会主催のコンテストに落ちた作品なんだが、」と指差しながら、机の引き出しから雑誌を取り出して、その時コンテストに入賞したという作品の写真をさくらの前に示した。
社長は真剣な顔つきで「こっちが入賞した作品。君はどう思う?」と訊いて来た。
さくらはこの時ばかりは、さっきのようにいいかげんに答えることが出来ず、感じたままを素直に口にしてしまった。
うっとりしながらこんなふうに。
―――「きれいな箱に入っていなくて路上に置かれていたとしても、私はこっちのパールが好きです」
さくらはこう言って、若い社員のデザイン画を指差した。
さくらの答えを聞くと、意地悪社長は満足したように「そうですか」と言ってかすかに微笑んでみせた。
社長はもうたくさんの作品を見せびらかすことはしなかったが、黙ったまま、まるで睨みつけるようにさくらをじっと見つめてきた。
さくらはその鋭い視線が怖くなった。
そのまま目をそらしたり、そっと顔を上げチラリと社長の視線の行方を確認したりしているうちに、
―――『私がごますりのチャンスにしがみついて、心にもないことを言ったと思われたのかしら?』
と、不安でたまらなくなった。
どんなにここに入りたいと思ってもそんな恥ずかしいことは言いませんよと、伝えたくてたまらなかったが、そんなことは出来るはずもなかった。
そしてまた数分間、気まずい沈黙が続いた後で意地悪社長はそっと言った。
「君のパールのデザイン画はなかなか良かったと思いますよ」
さくらはこれを聞いてかっとなり、また涙ぐんでしまった。
―――『あのエレガントなデザイン画を見せて感想を言わせた後になんてことを言うのだろう!いつもこうしてデザイナー志望の若い人達を馬鹿にして、いじめるのを楽しんでいるのかしら?』
今度は怒りが込み上げて来た。
さくらはもちろん何か言うつもりも態度で示すつもりもなかったが、自分が悔しさに涙ぐんでいるのをこの社長に見抜かれてしまったことに気付いたので、咳をするふりをして顔に両手をあて、指先で涙を拭ってごまかそうとした。
しかし、次から次へと涙が浮かんで来てしまうので、今度は汗を拭うまねをして手の甲で額を押さえながらこっそりと涙を拭った。
こうした作業を続けているうちに、さくらは自分でも馬鹿馬鹿しくなったのか気持ちが落ち着いてきて、うっすら浮かんだ涙は少しづつひいていった。
社長が何を思いながら、さくらの哀れな仕草を見ていたか見当もつかないが、社長は最後にこう言って面接の終わりを告げた。
「あと、先日君に書いてもらった作文だがとても良かったですよ。系列の会社もそうですが、うちの社員には入社する時必ず作文を書いてもらってます。ですから、そういうこともふまえて選考の参考にしますから」
これだけ言うと、社長はさっさと奥の部屋に入っていってしまったので、さっきの若い社員が慌てた様子で、後日合否にかかわらず電話連絡をすることを伝えてくれた。
さくらはがっかりというより、ひどく惨めな気分になって、もう持っていたくないデザインケースを乱暴に抱え、母の待つアパートに帰って行った。




