銀の桜とセーラー服(一、父親)
さくらが母親の璃久からの手紙を受け取る一年程前のことだが、この母娘にふりかかった屈辱的な騒動がそもそものきっかけだった。
しかし、この『騒動』のふりをした魔法のようなものが、次から次へとその姿を変えて行く様は大変面白い見ものだった。
この『騒動』は、まずは奇妙な謎を解く鍵に姿を変えてヒントを与えたかと思うと、次に淡く切ないロマンスを、美しい絵本の扉絵を開く時のようにドキドキさせながら、ゆっくりと目の前によみがえらせて、さくらと仲間達を大いに沸かせた。
そして首尾よく進化したその騒動は、誰もが憧れるようなめったにない絆を結び合わせる後押しをしてくれた。
この母娘にとって結果的には親切であったそれは、さくらの父親の不倫から始まった離婚問題であった。
離婚の原因は一方的にさくらの父親の『阿部』にあったのだが(少なくともさくらの常識では)――当の本人とさくらの祖母は、妻として嫁として世間様に出せない、まぬけで愚鈍で無知な、璃久のせいだと堂々と言い放っていた。
亡くなった父の後を継いで歯科医をしている阿部は、自分の病院で働いていた三十五歳の女を妊娠させ、家のそばに住まわせただけでなく、この恥知らずな女を璃久がいる前で祖母とさくらに『親しい友人』として紹介した。
その女は短大を卒業した後、働きもせずに花嫁修業をしたり、海外旅行に行ったりして過ごせるような恵まれた家庭の娘だったが、父親が亡くなった後はそう遊んでばかりもいられなくなり、誰でも出来るような簡単なアルバイトを始めた。
そして、色々な仕事を転々としていたが、阿部の母親の知人でもあるこの女の母親のすすめで、阿部の病院で働くようになった。
その女の母親の希望通りだったのかはわからないが、すぐにさくらの父親と親しくなり、半年も経たないうちにこの女はさくらの父親の持っているマンションに移り住んだ。
阿部がこの女に些細な家庭の愚痴をこぼしたり、疲れた様子を見せた時などはこの女の腕の見せ所だった。
そんな時には腕によりをかけて愚鈍な妻を持つこの男の苦労を慰めながら、また不釣り合いな結婚をした璃久の不幸にもご親切な同情をよせ、知的な優しい女性として阿部のひとりよがりな心に入り込んでいったのだ。
この女は初めて家に来た時、ソファの真ん中にどっかと座って少し膨らんだおなかを祖母に触らせなが ら「私の方が悪かったんです」と涙ぐんでみせた。
この女の下品なしたたかさにさくらは吐き気を催したが、阿部と祖母の方はこの女の話に優しく頷きながら、いつものように屈辱に耐え無言のままお茶を出している璃久を見下したようにじっと見つめていた。
この瞬間さくらは母を、絶対にこの汚れた家から連れ出そうと決心した。
そして、二度目にこの女がやって来たあの日、さくらは本当にこの決心を実行に移したのだった。
さくらは大学三年の終わり頃からずっと、夜間講義のある彫金の専門学校に通いジュエリーデザインの勉強をしていたのだが、ついにこの道でやっていくために役所勤めを辞める決心をつけた。
もちろん条件のいい役所勤めを辞めることに阿部も祖母も大反対だったが、璃久がめずらしく勇気を奮って阿部や祖母に立ち向かい、さくらの夢の実現を見守ってくれるよう何度も何度も頭を下げて頼んだので阿部がしぶしぶ折れる形となった。
本当なら今までの阿部家の常識では、再就職のあてもないまま役所を退職するような愚かな冒険は、さくらにとってはもちろんだが、ましてや父親の阿部の体面を考えると信じられない親不孝で、まさに愚行として決して許されるはずはなかった。
しかし、ちょうど『騒動』のさなかだったことも手伝って、璃久の懇願はわりとあっさり受け入れられた。
今回のことで、璃久がいつものようにひどく怒鳴られたり殴られたりすることにはならなかったが、自分のために必死で頭を下げる姿を、さくらは切ない思いで見つめながら、あることを誓っていた。
さくらには、もし自分がこの道でやっていけるようになったら『璃久のために何でも出来るではないか!ここから連れ出して自由にしてあげられるではないか!』という強い思いがあった。
また、さくら自身も、ずっとこの家から自由になりたいと思い続けていた。
今まで大学も就職も自分の夢や希望を通すことは許されなかったし、このままいくと結婚も阿部や祖母の思い通りに決められてしまうに違いなかった。
だからこそ早く自分の道を切り開いて行くためにあらゆる努力をしようと、力強く決心していたのだ。
さくらの新しい挑戦は、密かに阿部家との決別を胸に誓った力強いものであったが、二月のあの日、ふしだらな女が二度目に家に乗り込んで来た運命の時、この決別の誓いは怒りと屈辱のために汚されてしまい、しばらくはそれを拭き清めることが出来なかった。
璃久の屈辱はもはや阿部家では当たり前の日常であったが、この女の訪問はさくらを徹底的に辱め、どうしようもなく傷つけた。
どうやっても頭から消えないあの女の声、表情……璃久に聞こえるか聞こえないかの声で、さくらに囁いた意地の悪いあの声を、さくらはいつまでも忘れることが出来ないで苦しんだ。
―――「あなたの弟か妹が生まれるのを怒らないでなんて言わないけれど、血の繋がった兄弟だってことはわかってね。子供に罪は無いでしょう」
こう囁かれて、さくらは怒りのあまりその女の頬を思いっきり叩いてしまった。
『兄弟!兄弟ですって?血の繋がりですって?』
さくらの頭の中で女のその言葉がこだました。
女は泣き出し、叩かれてもいないお腹をかばうようにソファーの肘掛けに崩れ落ちて、祖母の右手に弱弱しくすがりついた。
阿部は「あっ」と叫ぶと同時にさくらのほうに突進し、娘の頬に向って利き手を振り上げたが、それをかばった璃久が耳と頬を強く殴られてしまった。
阿部は璃久の痛みやさくらの気持ちなどおかまいなしに怒鳴った。
「何をするんだ!どうしてそんなことが出来るんだ!恥ずかしくないのか?この家の人間ならみっともない真似をするな!この人のお腹にはお前の兄弟がいるっていうのに」
さくらは父親の口から平然と発せられた『兄弟』という言葉に逆上して興奮し、泣きながらこう言った。
「お父さんは本当に恥ずかしくないの?お母さんをあんなふうに打って!悪いのは誰なの?お母さんも私もどうしてぶたれなきゃならないの?」
しかし、阿部はさくらの言葉を当たり前のように無視して、今度こそ罰を与えなければといういやらしい決意を右手にこめて、それをさくらの頬に打ち付けた。
さくらは璃久の胸にはね飛ばされ、母親と同じように頬を腫らした。
「だまりなさい!私に向かってそんな生意気な口を聞くんじゃない。誰の真似だ?どうしてそんな風に育ったんだ?誰がそんな娘に育てたのか――育ちの悪い女の娘はそうなるのか?」
阿部は口元を歪めせせら笑った。
さくらがこう言われた時、璃久は打たれた頬に当てていた手をゆっくりとおろし、さくらをかばうように前に進み出てこう言った。
―――「この子を育てたのは私です。私は育ちも悪くなければ薄情でも卑怯者でもありません。この子は私だけの、誰のものでもない、ただ私一人だけの子です」
璃久は、打たれて赤くみみず腫れのようになった顔を傷ついた女王の様に真っすぐに起こすと、息もしていないかのような静かな表情で阿部を見据えた。
阿部は自分が与えた衝撃に、璃久がいつものように打ち負かされず、小さな顔をまっすぐに起こして目の前に立ちはだかった時、一瞬ビクッとしてひるんだ。
さくらは父親のその瞬間を確かに捉えて、璃久の後ろから父親の顔をじっと見つめた。
なぜかその時、璃久の目に捉えられている父親は、まるで誰かに殴られて顔を腫らしている惨めな男のように見えた。
璃久が叩かれている姿は何度も見たが、この日のように力強く真っすぐに立ち、父親に挑む母の姿をさくらは見たことがなかった。
さくらはぞくぞくする程興奮した。
いつものように父親の前に立ちふさがり必死で璃久を守ろうとわめきちらす自分に戻って、璃久のために抵抗しなければと思いながらも、今ここで璃久に守られる心地よさを感じるだけで何も出来ずにいた。
しかし、場をわきまえることも出来ず、また、璃久のこの変化を受け入れることも気付くことも出来ない哀れな祖母は、いつものように璃久をやりこめようと口汚く罵ったり睨んだりしていたが、璃久は祖母に一瞥をくれることもなく黙って上を向き、さくらの手をそっと取り居間を出て行こうとした。
さくらは母もまた決意をしていたことを知ったのだ。
さあ、そうして勇気を得て、その母の手を強く握り直し父親に向かってさくらは言った。
―――「さあもう安心して。あなたがたの恥ずかしい娘と嫁はここを出て行きます。
このいやらしい家から今すぐに!だからその恥知らずな女と楽しく暮らしたらいいわ!
私だってお母さんだって、もうあんたたちに怒鳴られたりぶたれたりするのはごめんだわ!
もううんざりよ!お父さん……もうあんたを二度とお父さんなんて呼ばないけれど、お母さんと私にこんな仕打ちをしたことを絶対に忘れないわよ。どんなにひどい父親でもここまで酷い奴はいないと思うわ!あんたなんか、そこにいる自分の母親にそっくりよ!
それでまた母親にそっくりの女と楽しくやればいいのよ!」
さくらはこの後、小さな荷物とともに阿部家を後にした。
こんな汚れた家にふさわしくない、素晴らしい優しい母とともに。




