さよなら青い国 (二、弁護士堀田)
駅前の並木道をずっと下りきったところにある古いマンションの一室が、佐倉の友人の事務所だった。
璃久は涙で流れ落ちた化粧をホールでそっと直してから、ミキオと一緒にベルを鳴らした。
中からがっしりとした中年の男が扉を開けてくれ「どうぞどうぞ」と言いながら丁寧な態度で二人を招き入れた。
堀田というその弁護士は肩くらいまでの髪を後ろに結んでいて、綺麗な緑色のシャツを着て下はジーンズ姿で裸足だった。
璃久は弁護士のラフな服装に少しホッとして『社長の友達』に会う緊張感がほんのちょっとだけほぐれた。
堀田という弁護士の方は、璃久があまりに若々しく美しいのでどぎまぎしてしまい、ミキオの方ばかりを見て真っすぐな道で迷うはずもないのに「ここまでの道を迷わずこれましたか」と訊ねたり、「あんまりオンボロの事務所なんでびっくりしたでしょう?」などと、どうでもいい話をしていたが、ミキオの目が真っ赤で涙の跡があり、璃久の方も明らかに泣いた跡があるのに気付いてからは、自分のするべき仕事を思い出し、なんとか落ち着きを取り戻した。
しかし堀田がちょっとした冗談を言った時に、一度だけ璃久がにっこり微笑んだのを見てしまうと、またどぎまぎしてしまい、ずるずると下らない時間が過ぎていった。
三十分くらいそうやって話し込んだ後、ついに璃久のほうから本題を持ち出した。
「私達が泣きはらしたような顔をしているのでびっくりされたでしょうね。実は、駅で二人で大喧嘩をしたんですよ。私もこの子もいい大人だっていうのに、泣きながら怒鳴りあったりして」
璃久の優し気な微笑みは堀田をまた攻撃したが、それには気付かずこう続けた。
「私は今日、甥がここに来るなんて思いもしなかったものですから、びっくりしてしまって……でもさっき二人で気持ちをぶつけ合って、もうすっかり心が決まったんです。私のことで、この子には本当に長い間、酷い苦痛を与え続けてしまったんです。今日はそれをすっかりお話しして、その事と、また他の理由とを合わせて、相手方に私の気持ちとしてはっきり伝えていただくようにお願いいたします」
璃久がさっぱりとした様子でこんなことを言ってきたので堀田は驚いてしまった。
ミキオもまた呆気にとられて、ぽかんとしてしまった。
璃久は「つまり、そういった事情で……それをこれからお話ししますけれど……ある事があってから、実際はそれよりももうずっと前からですが私は離婚したかったんです。本当を言えば結婚してすぐに。でも娘が生まれて私もどうしていいかわからなくなってしまって。気持ちはずっとそうだったのに、ちゃんと出来ないでいたんですよ。今思えば本当に馬鹿だったと思いますの。でも今さらそんなことを言ってもどうしようもないでしょう?今日からは娘やこの子と一緒に、すっかり始めていくつもりなんですよ。とにかく早くすっきり離婚して、まっさらに……この子がそう言ってくれたんですけど、まっさらになって始めたいんです」とすらすらと言った。
これを聞いて驚いたミキオはすぐ口を挟んできた。
「おばさん!俺が話すから大丈夫だよ。あいつらが言った下らない、下品な言葉を口にしたくないだろう?別にどうだっていいことだけど……確かにあいつらに脅されて、それで身動きがとれなかったんじゃないか!おばさん一人が馬鹿をやったわけじゃないんだから、結局俺も馬鹿だったんだから!」
ミキオは璃久をかばうようにこう言って堀田の方を見た。
堀田は急に興奮して早口でしゃべりだしたミキオの様子に驚いたが「うん、そうか」と言ってお茶をすすめ、まずミキオを落ち着かせようとした。
璃久はそんなミキオの様子に困惑しながらも内心は甥の気遣いが嬉しかった。璃久はミキオに微笑み優しく言い聞かせるようにこう言った。
「ミキオちゃん、今日は一緒に来てくれてほんとに良かったわ。私一人じゃきっと何にもならなかったのよ。余計な事は何も言わずに家にいる人のことだけを原因にしてただ別れられればいいなんて思ってたんだから。これってすごく、情けないことじゃない?根本をすっかり話して解決しなきゃ何にもならないのにね。言ったからってわかり合える相手じゃないけど、確かにミキオちゃんが言った通り、阿部に脅されていたんだと思うわ。私が弱かったのよ。でももう平気、しっかりしますからね」
ミキオは「そうだよ!脅されていたんだ。だからおばさんが馬鹿をやった訳じゃないんだよ!」と繰り返し言った。
璃久は笑っていたが、ミキオはまた泣き出しそうな顔をしていた。
堀田は二人の様子をしばらく観察していたが、佐倉が昨日電話で言っていた『ミキオを上手く促してやっつける方法を探る』というやり方をしないで、はっきりと璃久に聞いてみたいと思った。
璃久が平然としていて悟りきった様子をしているのが堀田には興味深く思えたのだ。
きっとここに来る前に駅で怒鳴りあったという、ほんのわずかな時間の出来事が璃久の覚悟を決めさせたのは間違いないだろうが、堀田はこんな美しいしっかりした女性が一体どんな苦しみや悲しみのためにここに来るはめになり、また佐倉の秘蔵っ子のこの甥をこんな様子にまでさせるはめになったのか、じっくりと聞き見極めるために腰を据えた。
「じゃあ作戦会議と行きましょうよ。時間が前後しても二人がごっちゃに話してもとりあえずは構わないから。僕は一緒になって怒ったり、怒鳴ったりするかもしれませんが呆れないでつき合って下さい。最後には責任を持ってちゃんとしますから」
堀田はこう言って璃久をじっと見つめた。
◇◇◇◇◇
璃久はここで堂々と自分の失敗と弱さを語り、一方で自分と娘の心からの怒りについても平然と伝えた。ミキオを巻き込んでしまい、苦しみを共有させてしまったあの日からのことも出来るだけ話そうとした。
もちろん二人は『わざわざ話す必要のない部分』については暗黙の了解で省略した。
しかし、たとえ真実の一部が抜け落ちていたとしても、まだ若かった璃久と少年だったミキオに阿部とその親が与えた残酷な苦痛の重さが和らげられることは決してなかった。
途中で堀田は『ちくしょう!』と言ったり、まるで佐倉のように『徹底的にやっつけてやる』と声をあげたりした。
また、同じようにミキオが興奮して阿部に対する憎しみの言葉を吐き出したりすることもあった。
そうして度々話が中断されたが、その都度どちらかが上手く本題に引き戻して大事なことは大体話し合う事が出来た。
堀田は佐倉が言った通り、親切でいい弁護士に違いなかった。
璃久は堀田が自分を軽蔑したりいやらしい同情で自分を傷つけたりしないことがよく分かったので、駅前でミキオと話した通りに、この事務所で過去を肩から下ろして堀田に『受け取ってもらう』ことを実際にやり遂げた。
堀田は「あちらの家には僕が行きますから、あなたがいやな思いをするようなことはもうありませんよ。お嬢さんには後日来ていただいて、彼女からもじっくり話を聞きましょう」と言った。
そして佐倉に値切られた相談料よりもっと安い金額をにこにこしながら提示した。
璃久はそんなはずはない、と用意してきた袋を差し出したが、堀田は「最初、くだらない世間話で時間を無駄にさせちゃったからね」などと言い出して、自分が示した額以上のものを受け取ろうとしなかった。
そのうちに金額のやり取りにうんざりしたミキオが『あとでサクランボにちゃんと持たすから』と、こそっと言ってきたので璃久はもうそれ以上言わなかった。
二人が立ち上がり深々と頭を下げお礼を述べた時、堀田はあわててこう言ってきた。
「車を出しますから、お昼はいかがですか?」
璃久は当然丁重に断ったが堀田はかなりしつこかった。
ミキオにはこの弁護士先生の気持ちが手に取るように分かったので実はかなり不愉快になった。
しかし、すぐにミキオはぴんと閃いて、やけに機嫌良くこう言ったのだ。
「ねえおばさん!お礼が出来るチャンスだよ。堀田さん、車を出していただけるんでしょう?それなら俺たちにごちそうさせて下さいよ。それなら行きますけど」
璃久はにっこりと笑っただけだったが、ミキオはますますご機嫌になり、親切な佐倉への素敵な手みやげになると思って最高の笑顔でもう一度言った。
「ね、いいでしょう?お願いだからそうさせて下さいよ」
堀田はもちろんそれに飛びついてきた。
「やあ、そうですか!じゃあごちそうになろうかな、お二人にお店はお任せしますね」
◇◇◇◇◇
さくらは璃久と一緒に早い時間に家を出たので会社には誰も来ていなかった。
特にやるべき仕事もなかったさくらは、後藤と一緒に模写したスケッチブックを取り出して、窓際の席で続きを描いていた。
そのうちそれもつまらなくなり、奥にある佐倉の柔らかい肘掛け椅子を窓の側まで引きずってきた。そして我が物顔でどすんと座り込み、背当て用の柔らかいクッションを膝の上に載せた。
さくらはほんの一休みのつもりだったが、いつの間にかうとうとと眠りこんでしまい、佐倉がジャケットを掛けてくれたことにも全く気付かなかった。
ぽかぽかした窓側の席で二時間近く『昼寝』をしたさくらは、ぼんやりと電話の音を聞いた。
さくらが目をこすっている間に、すぐ隣に座っていた佐倉が慌てて電話を取ると電話の相手は咲子だった。
咲子は三時過ぎには会社に行くのでトロさんが来たらその時間までいて欲しいと伝えてくれと言ってきた。
佐倉は小さな声で「わかった、メモを残すから」と言ってすぐに電話を切った。
さくらが目を覚ましたのを見て、佐倉は「やあ、もう少し寝かせてあげたかったのにね」と言った。
「佐倉さんはいったい何時ごろ来たんですか?」
「一時間くらい前かな?よく寝てたよ、疲れてたの?最近色々あったからね。それに今日はお母さんのことが心配で落ち着かないんだろう?もう終わっているかもしれないね。昼寝もしたし、帰るかい?」
さくらは「いいえ、今日はこれをやろうと思って」と言いスケッチブックを見せた。
佐倉が「そうか、それはいいことだよ」と言い、スケッチブックを取り上げてパラパラとめくると、さくらは昨日、後藤から聞いた話を思い出してそわそわした気分になった。
佐倉を試すような真似は出来るはずもなかったし、きっとさくらは目の前の優しい佐倉を失いたくなかった。
まさか木の上の女性が璃久であるはずはないと思おうとしても――しかし、もしもそうであったなら、佐倉がセーラー服のデザイン画を見て不愉快になった理由にはっきりと説明がついた。
そうはいっても、さくらには璃久があんなひどいことを言うとは思えなかった。
それに璃久の方は『佐倉』という名前を聞いても、動揺したり慌てた様子は全く見られなかったのだから、今の時点では木の上の女性と璃久を結びつけようがなかった。
さくらは佐倉のジャケットの中にくるまったままぼんやりと佐倉を見つめていた。
佐倉の大きなジャケットの中はとても居心地が良かったし、そうしていると幸せな気持ちになった。
「もうしばらくそうやってるかい?それとも予定通り昼飯に行く?四十半ばの年寄りで悪いが私も暇なんだよ」
佐倉はいつものように優しい声で誘ってきた。
そして、佐倉がにっこりしながらじっと見つめてくると、さくらはすぐにドキドキしてしまい、ついニヤついてしまうのだった。
さくらは自分でもどうしようもなく佐倉が大好きでしょうがなかった
ばっと身を起こして「すぐに出掛けましょう」とさくらは言った。
佐倉はメモを残してしっかり鍵をかけると、黒いジャケットをはおりサングラスをかけ、ポケットに手を突っ込みながら大股でゆったりと歩いた。
さくらが小走りになるとさりげなくゆっくりと歩き、何も言わずににっこり微笑んだ。
さくらが「今日は手伝う事はないんですか?」と訊ねると、佐倉は「特にないんだよ、今日はこのままゆっくりしようよ」と言い、さくらの髪をひっぱって「今日はまとめ髪じゃないんだね」と言ってきた。
こんなふうにされると、どうしても自分の理想の父親のイメージと重なり、一緒に歩くのが嬉しくてならなかった。
二人は電車に乗って郊外のほうへ出て個室のある和食の料理屋で楽しく昼食を取った。
「佐倉さんのおかげでしょっ中こんな贅沢してるけど、私にも一度くらいごちそうさせてほしいな」
にこにこしながらさくらは言った。
「へえ、嬉しいね!じゃあ給料日の次の日に連れてってくれよ。最初に二人でいったレストランはどう?」
「そうですね、あそこにしましょうか。すごく美味しかったから結局がつがつ全部食べちゃってデ
ザートまでぺろりだったし。あの時は私、馬鹿みたいに泣き出したりして。ミキオちゃんじゃないけど、佐倉さん、やっぱり恥ずかしかったですか?」
「そうだなあ、もう女の子を泣かせるのがカッコイイ、って年じゃないからな。でもあの時は嬉しかったよ、すごくね。残された連中には悪かったが色々な事がわかったよ、君の事も私の事もね。結局さ、たった一人でいたら、いくら考えても自分の事をいつまでたっても理解出来ないのかもしれないね。誰かと……もちろん自分にとって大切な相手とだよ?そういう相手とじっくり話したり、何も言わなくても一緒にいたりさ、そんな風に過ごしているうちに自分が見えてくるんだね」佐倉はこう言った。
さくらは、佐倉が木の上の女性の事を思い出してこう言っているのだと思った。
もしここで無神経に自分の方からその人の話を持ち出したら、佐倉はきっと不愉快になってしまうだろうし、佐倉には決して嫌われたくなかったので、このことでふざけた真似をしたり思い切った質問をすることはさくらには出来なかった。
しかし、驚いたことに佐倉の方から木の上の女性の話を持ち出してきたのだ。
「ねえ、君はさ、私があの人の……ほら、襲いかからせてもらえなかった人のことさ。私が彼女のことを探し出してこっそり遠くから見たりなんかしたら気味が悪いと思う?まるでストーカーみたいだって思うかい?別にどうしようって訳じゃなくって、一度だけこっそり会いたいと思ったり、幸せに暮らしてるかを確かめたいって思うのは、彼女にとってはいやらしい不気味なことに思えるのかな?」
佐倉はこう言って、さくらをじっと見た。
さくらはぎょっとしてしまい目をそらしたが、佐倉に自分が何かを気付き始めている事を決して知られたくなかったので『うーん』と考え込んだフリをしてからこう言った。
「もしかしたら、その人も佐倉さんを待っていたり探しているかもしれないでしょう?もしそうだったら佐倉さんがそうしたって悪いことなんて何もないってことになりませんか?それに、その人が悪かったと思って反省してるかもしれないでしょう?佐倉さんがその人を許してあげられるなら……そんな酷い事を言った人だけど。もう許せると思うなら、そうしたっていいじゃないですか」
さくらは自分でも気付かずに、この女性をこっそり璃久と重ね合わせてこんな風に言ってしまった。
「私が許す?彼女を?さくらくん、そりゃ違うんだよ。もしかしたら、私の方こそ彼女に酷い事を言っていたかもしれないんだから。それが何だかはっきりしている訳じゃないが……よく考えてみたら、そんなこともあるかもしれないだろう?」
佐倉は急にこんな事を言い出した。
そして、テーブルに両肘を付いて身を乗り出すようにしてさくらに顔を近づけてきた。
「さくらくん、私にとってあれは本当に大切な時間だったんだよ。もうあんな時間を持つことは出来ないだろうよ。本当になくしてしまったなら仕方ないが……なくしても取り戻す事が出来るなら、そうしたっていいと思わないか?」
佐倉はまるで怒っているようにも見えた。
さくらはぐっと締め付けられるような気持ちになってごくっと息をのんだ。
そして、この機会にしがみつくようにたった一つ、どうしても聞きたくて仕方がなかったことを口にした。さくらはこの時、きっと縋りつくような目をしていた。
決して佐倉の心を確かめようとした訳ではなかったが、そうせずにはいられなかった。
「私が……お母さんの箱を探す事も同じだと思いますか?もし本当にお母さんに好きな人がいたとして、娘の私が勝手にそんな風にやって昔のことを探り出したら、お母さんだけじゃなくって相手の人にも迷惑な話だって、佐倉さんはそう思いますか?私が、」
ここまで言ってさくらは、さらに身を乗り出してきた佐倉に邪魔され、先を続けられなくなった。
「迷惑なはずがないだろう?二人が好き合っていてその時の事を本当に『素敵だった頃』って思ってるんなら何が迷惑だっていうの?お母さんが好きだった人が、君と同じように箱を探そうとしていたらどうなるの?」
佐倉は目を輝かせてこう言ってきた。
さくらは、佐倉のむき出しの表情が怖くなり、話をそらした。
「でもよくよく考えたら……その人が結婚していたり子供がいたりするかもしれないんだわ。そうだったら私が余計な事をすることで、かえってお母さんを傷つけてしまうでしょう?だから私はこっそりやるしかないんだわ。佐倉さんだってこっそりするだけだったら誰にも迷惑なんてかかりませんよね」
「何を言ってるの?お互いが本物の相手だったなら絶対に不思議なめぐり合わせでまた出会えるように出来てるに決まってるじゃないか!どこの誰でも昔さよならした愛する人に、突然こんにちは、って会えるもんじゃないだろう?本当の本物の相手と繋がっていて、まだ糸が切れていない場合だけ魔法みたいに会えるんじゃないの?」
と、佐倉はますます興奮した声で、さくらを責めるように言ってきた。
そして、さくらがいつまでも黙っていると、佐倉は低い声でそっと「ねえ」と言って「お母さんの糸が繋がっている相手に、君は会ってみたいと思う?」と囁いた。
さくらはぞくっとして顔を起こした。
そして佐倉の真っすぐな瞳にとらえられ、身動きがとれなくなってしまった。
佐倉はさくらの答えを待たずにこう訊いた。
「君はその相手を受け入れられると思う?」
佐倉は、昨日も同じような事をさくらに訊ねていた。
さくらには、きっともうわかってしまっていた。この人こそが璃久の大切な時間を作っていた相手であると。
しかし、自分がわかってしまったことに、さくらはわざと気付こうとしなかった。
さくらはひどく臆病になっていて、大好きな佐倉を失い、璃久を傷つけるのが本当に怖かった。
佐倉の問いに答えなければならないと思って口を開こうとしたが、声のかわりにまたいつもの涙がこぼれ落ちた。
佐倉はやはり、その涙にうろたえてしまった。
「どうして泣いているの?お母さんが心配になった?どんな奴だかわからない相手のことを私があれこれ言ったから?」
さくらはこう言われてたまらなくなり、とうとう言ってしまった。
これはきっと本心であったから言うべきではなかったが――さくらはこんな時、どうしても黙っていられない性質だった。
「いいえいいえ、違うんです。どんな相手だって別にいいです。お母さんがそんな変な人を好きになる訳ないんだもの。でも私、もし佐倉さんがその人だったら、どんなに素敵かって、そう思っただけなんです!」
佐倉は鼓動が速くなり声が出せなくなった。またこうして、さくらに真っすぐに言われてどうしようもなくなった。
佐倉は自分が小出しにした質問に、さくらがほんのちょっぴりでも心地よい答えを言ってくれれば今の段階ではそれだけで満足だった。
これから時間をかけてゆっくり味わっていこうとしたささやかな幸せが、あまりに大きな形となって目の前に置かれてしまったのでそれを持て余して呆然としたまま、声には出さず胸の中でさくらの名前を呼んだ。
しばらくしてやっと佐倉は声を絞り出せた。
「さくらくん、君はこの間も私に幸せをくれたんだよ。君はあの公園で私から受け取ったものなら大切にする、なんて言ってさ――たまらない気持ちにさせたんだよ。それが本当であるとも言ってくれたね。私は忘れないよ、あの日の君の言葉をね。大切な時間が戻ってきたみたいだったから」
こう言って佐倉は指でさくらの涙をふいてやり、微笑みながらそっと、さっきのように髪の毛を引っ張った。
さくらはすっかり力が抜けてしまった。
しばらくして佐倉がいつものように笑いかけてくれているのに気が付くと、ホッとして自分も少しくらいは笑い返せるようになってきた。
もうどうしようもなくお互いが好きでたまらない二人のさくらは、互いに何も気づいておらず、また何も知らない振りをしながらどうでもいいおしゃべりをしたり、時々ゆったりと見つめ合って過ごした。
店を出た時に佐倉が買い物に行きたいと言ったので、二人はまた電車に乗った。
「彼氏いない歴が長いからデートなんてずっとしてないけど、買い物とか言われるとそんな感じがしちゃうじゃないですか!このまま会社に戻らないで遊びに行きたくなっちゃうな、なんてね」
「いいよ、映画にでも行く?木に登ってもいいよ。君が相手じゃ襲う気にはならないけど、まあ二人のさくらがどんな景色を楽しめるかやってみる?」
さくらはこれが気に入ったので、映画なんかより「もちろんそっちがいい!」と言い出して、二人の午後は大きな木を見つける探検になった。
今週もここまでお読みくださりありがとうございます。
またちょっと長くなってしまいました。
腕の痛みと仕事の関係もあり確実ではないですが、出来上がったら今週もう一話投稿する予定です。
読んでくださりありがとうございます。




