さよなら青い国(一、まっさらに)
その朝、さくらは少しだけ璃久を試してみたくなり、自分から佐倉の話題を持ち出した。
「お母さん、佐倉さんの友達ってどんな人だろうね?佐倉さんみたいにまあまあカッコいい人だったらいいのにね」
「さくらちゃん、いやらしい目つきの社長に取り込まれちゃったの?私は目つきの悪い人は好きになれないわね。温かみのある綺麗な顔が好きよ」
「お母さん、あの時は確かに言い過ぎたの。佐倉さんはなかなか素敵よ。昨日私が年寄り、って言ったら怒ってたわ。でも『佐倉』なんてありそうでいてあんまり聞かない名前だよね?私の名字だったら『さくらさくら』なんてさ!子供のいじめに合いそうよ」
さくらはドキドキしながらさらっと言って様子を見た。
「ほんとね、それじゃ歌みたいじゃないの!でもそうよね、佐倉なんてあんまり聞かないわね。それよりさくらちゃん、社長さんには本当にお世話になってしまったんだから、よくお礼を言っておいてちょうだい。来週何か、あなたに持たそうかしら?そんなことしたらかえって失礼かしらね?どうしよう……」
璃久は今、お礼のことで頭が一杯になっていて『佐倉』という名前についてはほとんど関心を示さなかった。
佐倉の名前は今までも何度も口にしていたので今さら確かめるまでもなかったが、さくらは佐倉の母親が沖縄出身であることや、以前に大森に住んでいたことをさりげなく話して様子を見たいと思っていた。
しかし、さすがに弁護士に会う前に余計な事はしない方がいいと思い直し、とりあえず今日は璃久を刺激せずに放っておくことにした。
さて、これから璃久は『さくらの勤め先の社長の友人』という大変な相手に会わねばならなかったので、服装には大層気を使った。
璃久は「さくらちゃん、私やっぱりちゃんとしたスーツの方がいいんじゃないかしら?でもそれだとかえって変?どうしよう、髪は結んだ方がいい?」などど言ってさくらに何度も何度も服を見させた。
さくらはイライラして「もう私の言う通りのものを着てよ!」と言って、璃久に一番良く似合うクリーム色のワンピースを持ち出した。
髪はゆったりと垂らし、柔らかく毛先を広げてあげた。
最近になって璃久は毛先にだけゆるいパーマをかけ、髪は明るく染めていた。
きっちりと化粧をした璃久の姿は相変わらず美しかった。
さくらは調子に乗って自分の香水を持ってきて璃久にかけようとしたが「やめてちょうだい!」と怒られたので、ハンカチに少しだけつけさせた。
さくらと璃久は九時過ぎに一緒にアパートを出た。
途中乗り換えの場所で別れ、さくらはイライラしないための『暇つぶし』に会社へ向かったし、璃久はこっそりミキオが待っているはずの、小さな弁護士事務所に重い気分で歩いていった。
璃久が目当ての駅に着くと、改札を出たところでサングラスをかけたひょろっとした背の高い若者が「璃久おばさん」と声をかけてきた。
璃久は最初誰だか分からず、不思議そうに見つめていたが、すぐに「あっ!」と叫んで「ミキオちゃん!ミキオちゃんでしょう?こんなところでどうしたの?さくらちゃんから聞いて近いうちに会いに行こうと思ってたのよ」と興奮した様子で近づいて来た。
「おばさん、今日は俺が会いに来たんだ。今度こそ璃久おばさんを助けたくて俺が勝手に来たんだよ。佐倉さんから上手くここの場所を聞き出して待ち伏せしてたんだ。サクランボは知らないよ……おばさんは俺に帰って欲しい?」ミキオは簡潔にきいた。
璃久は驚いてしまい、すぐには何も答えられなかった。
そのまま二人で改札の側に立っていたが、そのうちに下り線から降りて来た乗客に押されて、璃久は倒れそうになってしまった。
ミキオはしっかりと璃久を抱きとめて、こう言った。
「おばさん、もう約束なんか守りたくないんだよ、俺が馬鹿だったんだ。だから一緒に弁護士のところに行ってくれよ。絶対にサクランボにバレたりしないようにするから!おばさんが、すっかりおばさんに戻れるようにしたいだけなんだよ!追い返さないで、頼むから!」
ミキオは真剣だった。
璃久の肩を強く掴むと片手で荒々しくサングラスを外した。
ミキオは「俺にはまだ何も出来ないと思うの?」と言って、璃久を睨みつけるように見た。
璃久は完全にうろたえてしまい、少し震えているようだった。
ミキオが背中を押してやり、脇のほうへ連れて来たが、まだ何も言えずにいた。
二人ともじっと黙って見つめ合っていたが、やがて璃久のほうからゆっくりと口を開いた。
「ミキオちゃん、でも……社長さんのお友達じゃないの。私やっぱり知られたくないのよ。その人がもし社長さんに話したりしたら、私いやだわ。それにミキオちゃんだって、あの子だって、その社長に変な目で見られてしまうじゃないの!それにもう、あんなことどうだっていいことなのよ。私ははっきりさせて、すっかり……ミキオちゃんの言う通り、すっかりまた自分らしく始めたいだけなのよ。一緒にいてくれて心強いわ、私嬉しいわ、でも……あの話は無しにしてちょうだい。いい?」
璃久は厳しい表情でこう言った。
ミキオはこれが本来の璃久であると、ずっと前から知っていた。
しかし、ミキオは『徹底的にやる』と言った佐倉のやり方を支持した。
「璃久おばさん!俺はもうイヤだね、おばさんがなんと言ったって俺はあいつを許さないよ。それに、佐倉さんのことをそんな風に言わないでくれよ!あの人はそんな、俺たちを変な目で見るような人じゃないよ。佐倉さんの友達なら絶対に人の秘密をペラペラしゃべったりしない。弁護士には守秘義務ってのがあるんだよ!もう俺の親みたいに綺麗事を言ったり、おばさんみたいにあいつを軽蔑してるくせに放っておくのはイヤなんだ。全部俺が、俺が言うから!おばさんがイヤだったら席をはずしてもいい。あの事を全部吐き出して、すっかり捨ててしまうんだよ!そうしてまっさらになって、始めるんだ」
「ミキオちゃん、私がイヤだって言ってるのよ。そんなことを言って一体なんになるって言うの?社長が知らなくったって、その弁護士の人に色々思われるのだって私はイヤよ!いいのよ、お腹の大きな女性が家にいるってだけで十分離婚できるじゃないの。あんな人達をやっつけても何にもならないじゃないの。逆に私が責められたりして、これ以上不愉快になるのもごめんよ!いい?余計なことを言うんなら私は帰るわ。わかったわね!」
璃久はこう言って、ミキオを睨みつけた。
しかし、ミキオはこんなことで引き下がったりしなかった。
「ああわかったよ!じゃあ勝手に帰ればいいさ。事務所には俺が一人で行く事にするよ、それで洗いざらいすっかりしゃべってやるから」
ミキオはこう言って、璃久を挑発した。
璃久はカッとなり、ミキオの頬を叩いて叫んだ。
「そんなことはさせないわ!帰るのはミキオちゃんよ!」
「冗談じゃないね!俺は絶対帰らないよ、今度こそやってやるんだ。俺だって苦しかったんだ!おばさんのことをいつも思っていたんだよ、心配で眠れない時だってあったんだ!何にも知らないくせに、このまますまそうだなんてふざけた事言わないでくれよ!」
ミキオも大声で叫んだ。
コーヒーショップの前で怒鳴りあっている二人の姿は人目を引いた。
しかし、璃久もミキオもこのままやめたりしなかった。
「じゃあどうしろって言うの?全部話して、それを阿部に言って何がどうなるの?阿部がさくらに話したりしたら……気味が悪いじゃないの!あの人達の下品な口から、もうどんな話も聞きたくないのよ」
「ああそう!じゃあ俺も、おばさんも、一生あいつらの下品な言葉を、胸と、耳と、頭ん中に抱えて生きていきゃいいさ!いつまでも後生大事に抱えたまんま暮らしたいってのか?あんなこと……おばさんだって本当は、もうどうでもいい事なんじゃないの?俺は最近わかったんだ。あんなことさ、ほんとに表面的な下らない事じゃないか!だからもうすっかり吐き出すんだよ!聞き役が仕事の弁護士先生に全部吐き出して、それを受け取ってもらってさ、おばさんは他の大事な何かを……もし、そんなものがあるんだったら、これからそれを必死で探すんだよ!俺だってサクランボだっておばさんの一部じゃないか!違うの?一緒に抱えてやってきた同志じゃないか!一緒に捨ててしまおうよ。それを阿部の馬鹿親父にぶつけて、まっさらになって何が悪いんだ?」
ミキオはこう言って泣き出してしまった。
その目からは、次から次へとポロポロと涙が流れ落ちて、コンクリートの地面にしっかり跡をつけた。
璃久の目に、遠い日に自分のために泣いてくれたミキオの、あの日の姿がはっきりと甦ってきた。
そして今も目の前で、背が伸び大人になったあの時の少年が、自分のために人前で隠す事もなく涙を流し続ける姿を堂々と見せつけてきた。
ミキオの言葉のひと言ひと言は激しく胸に突き刺さった。
まだ少年だったミキオがどんな思いでその苦しみを抱えていたか……誰にも言えずに泣いていたはずのミキオがどんな気持ちで笑っていたか……自分の前ではいつも笑おうとしてくれたミキオと、明るくふざけあい、語り合い、ほんの時々共に泣いた懐かしいミキオとの時間を、璃久はまざまざと思い出してしっかりと胸に抱いた。
そして、ミキオがはっきりと『おばさんの一部』であると言ってくれたことを体中でかみしめた。
「ミキオちゃんは私の一部だって、一緒に抱えてやってきた同志だって、そんな風に思ってくれてたの?私に優しい同情を寄せてたんじゃなくって、そんな風に思って苦しんでたの?でも私は、自分のことだけ考えてやってきたのと同じだわ。私の一部だってミキオちゃんの中にあったのにね。私はずっと、そんなことに気付きもせずに勝手にやってきたのと同じじゃないの!」
璃久もまた、地面に涙の染みをつけた。
たくさんの人々が二人を横目でチラチラ見ながら通り過ぎて行った。
二人は『そんな奴ら関係ないね』と言わんばかりに我がもの顔でコンクリートを濡らし続けた。
「そうだよ、ずっとそう思ってやってきたんだ。おばさんが俺に、自分のことを恥ずかしく思うか、って訊いただろう?あの時からずっと、おばさんは俺の一部になったんだよ!本当に恥ずかしく思った事なんて一度もなかったよ!俺にはいつだって分かってたんだから。おばさんはいつかきっと、もう一度始めるんだってことをさ!だから一緒にあんな汚らわしい言葉やそんなものは捨てちまえばいいんだよ!そうしてまた始めれば、おばさんも俺も幸せになれるんだよ!」
「ミキオちゃん、ミキオちゃんと同じように私も始められると思うの?まだ遅くないと本当に思ってるの?」
「遅くなんかないさ。もしおばさんが始めたら、どこかで……やっぱり始められないで苦しんでいた馬鹿な奴らも嬉しくなってきて、きっとまた始めてみようと思うんだよ!―――それで、青色妖精が謝ってくるんだよ。でも俺たちはあんな奴らなんか放っておいてどんどん先へ行くんだ。サクランボだって水色の羽なんてもういらないって……綺麗なクリーム色の羽の方がいいって思うはずなんだよ!」
「苦しんでいた馬鹿な奴ら、って」
その意味を瞬時に理解してしまった璃久は、とうとう両手で顔を覆った。
ミキオはそっと頷いて「そうだよ」と言った。そしてこう続けた。
「おばさんと俺はずっと同じ場所でじたばたしてたんだよ。一緒にいなくたってそうだったんだ。それでも俺はいつだって信じてたんだ!言っただろう?きっとおばさんは始めるって。本当に大丈夫なんだ、遅くなんかないんだよ。だから一緒に行ってくれよ、頼むから!俺がそうしてほしいんだよ、だから」
璃久は顔を覆ったまま首を振っていた。
ミキオは璃久の顔を覗き込んでみたり「おばさん?」とそっと呼んでみたりした。
それでも何も答えてくれない璃久に、ミキオは辛抱強く立ち向かった。
ミキオはせつなそうに「お願いだからそうしてよ」と言った。
「いらないものは捨てちまえばいいんだよ。だってそうしないと前へ進めないじゃないか!おばさんだって本当はそうしたいんだろう?俺がそうしたいと思うように、まっさらになって始めてみたいと思わないの?俺のために……そう出来ないの?」
ついこんな風に言ってしまったミキオの声は可哀相なくらいかすれていた。
璃久はそう言われてやっと顔から両手をはずした。
目の前に現れた甥っ子の顔は、涙でくしゃくしゃになっていて、目は真っ赤に腫れてむくんでいた。
璃久はもうたまらなくなり、指でそっと涙を拭ってやった。
母親が小さな子供にするような仕草で涙を拭われたミキオは、馬鹿にされたような気分になって「やめてくれよ!おばさんは聞いてるの?ねえ!」と大声で怒鳴った。
璃久はミキオに怒鳴られてもびくともしなかったが、とうとう観念した。
いつも自分に対しては控えめだった甥っ子が、ここまで強く主張する姿と、溢れて止まらない涙を見つめているうちに、そうすることが正しいことであり、自分もミキオも救われる道であると信じて進むしかないと思えてきた。
「ミキオちゃんのために、って……素敵ね。そんな風に言ってくれるなんて本当に嬉しいわ。もちろんきっとそう出来ると思う……ミキオちゃんが、私のためにそうしてくれるようにね」
ミキオはこれを聞くと、まるでさっきの璃久のように両手でしっかりと顔を覆ってしまった。
璃久のほうは少し落ちついてきてはいたが、それでも二人の涙は止まらなかった。
このまま数分間、二人は駅の真ん前でさんざんに泣いていたが、とうとう璃久は涙を払い、ミキオの肩に手を掛けた。
「もうわかったわよミキオちゃん、私一緒に行くわ。それで二人一緒に頭からも、胸からも、耳からもすっかり追い払って、捨ててしまいましょう」
ミキオは子供のように「うん、おばさん!」と叫んだ。
「ああそうしようよ、今すぐに可哀相な弁護士先生に受け取ってもらうんだよ!」
二人はしっかりと頷き合った。
そして肩を寄せ合って、やっぱり我がもの顔で駅前の道を歩き出した。
璃久とミキオは青い国にはもう未練などなかったから、どんどん先へ先へと進んで行った。
中途半端な水色妖精が二人を見て首をかしげたり、くすくす笑っていたけれど、青い国を捨てた二人はもう小屋の中に隠れたりしなかった。
ゆったりと微笑んでしなやかに、優雅に歩き続けた。
この時の二人はもう知っていたのだ。たとえ青い国の水色妖精のように背中に羽がなくたって、お互いの一部を抱え持てるなら、それこそが光の衣のように輝けることを。
お読みくださりありがとうございます。
ちょっと面倒で厄介な性格の二人の回でした。次回は弁護士の先生が出てきます。こちらは単純でさっぱりした先生です。




