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目撃者ミキオ(四、透明)

 金曜の朝、佐倉とミキオは八時前には出社して自分の仕事に没頭していた。

 夕べの事などまるでなかったかのように淡々と歩き回り、必要最小限の会話だけをして過ごしていた。


 さくらが出社して来ると、ミキオは「ようサクランボ」と声をかけ、機嫌良くコーヒーを入れてやった。

 ミキオは「朝から馬鹿みたいに働きすぎたから少し休む」と言って椅子にどっかと腰を下ろした。


 ミキオはのんびり寛いでいたが、さくらが「佐倉さんは来ているの?」と聞いてきたので、佐倉のコーヒーも入れてやり、すぐにさくらに呼びに行かせた。

 佐倉はすぐに出てきて自分専用の肘掛け椅子にゆったりと座り込んで、にこにこしながらさくらとだけ話をした。

 さくらは水色のワンピースを着ており髪をすっきりと編み込んでいたのだが、佐倉はそれを見て「最初にここに来た時もそんな風に髪をやってたけど、自分で鏡を見ながらそうするの?」と訊ねてきた。


 「まさか、私が出来る訳ないじゃないですか。母が気が向いた時にやってくれるんですよ。一度自分でやろうとしたけど、じきに肩が凝っちゃうし、うっかりゴムを飛ばしたりなんかしてイライラしてやめたんです」さくらは笑いながらこう言った。


 「ふうん、なんか凝った髪型だと思ってさ、お母さんは器用なんだね」佐倉はこう言って、さくらの髪をじろじろと見つめてきた。


 「ええ、でもほんの時々なんです。母は真っすぐにおろしてサラサラさせたような、そんな髪が好きなんですって」さくらはぼんやりとつぶやいていたが、急に座り直して佐倉の方に向き直った。

 「佐倉さん、それで明日の事なんですけど母は一人で行くって言うんです。私がいると話ずらいから最初は一人がいいだなんて。どう思いますか?私の方は心配でしょうがないっていうのに」


 佐倉とミキオはビクッとして顔を見合わせた。

 昨日二人で話した段取りでは、佐倉が上手く話す事になっていたが、急にミキオが張り切ってしゃべりだした。

 「そりゃ当たり前だよ!璃久おばさんだって、夫婦のいろんな事をサクランボに聞かせたくなんかないだろう?例の女の事だってあるしさ、きみが横で聞いてたらすっかり話す事なんか出来ないよ、普通は」


 ミキオの様子を見て、佐倉は喉の奥で『お前は調子がいいな』と言ったが、ミキオにはそれがすっかり聞こえた。

 そして、ミキオは佐倉にニヤ付きながらこう言った。

 「佐倉はどう思います?サクランボは明日行かない方がいいですよね?それとも、惣菜屋の面接の時みたいにへばりついて行った方が賢明ですか?」


 「うーん、私には分からんよ。でもやっぱりさくらくんの気持ちを大切にしてやりたいな私は。お母さんの気持ちも大事だが、やっぱり娘にしたら心配でたまらないよね」

 佐倉はこう言ってミキオを見た。

 ミキオは『いやな人だよあんたは』と口を閉じたまま言った。

 もちろん佐倉にも良く聞こえた。


 佐倉は「明日は時間をたっぷり取ってあるし、別に一緒に行ってもいいかも知れないね。でもまあ、弁護士の方から具体的な、突っ込んだ話を聞いてくるかもしれないから、その辺がお母さんには辛いところかもしれないね。あんまり君の前でお父さんのことや、その馬鹿女の話をしたくないっていう気持ちもわかるよ。それでも明日で十分に話せなかったとしてもまた時間をとればいいんだし、そんなのは平気だよ」と、優しく言ってさくらの肩を持った。


 ミキオは呆れて、もう何も言わなかった。

 さくらは「そうなんだわ」とぽつりと言って、じっと考え込んでしまった。

 しばらく三人でむっつりとコーヒーを飲んでいたが、さくらは急にはっとして、慌てた様子でこう言った。

 「佐倉さん、私、相談料の事を忘れてました。一体いくら位かかるんでしょう?一時間で二万円とか言われたらどうしよう!明日際限なく話し込んだりしたら大変な事になっちゃう!やっぱり最初に時間をはっきり決めておかなくちゃなりませんよね」


 「大丈夫だよ。私の友人だって言ったじゃないか、そんな法外な金額を取ったりしないから。明日は充分に話してもそんな時給みたいにやらないよ。いい奴なんだからさ、もし妙なことになったら私の顔がなくなるじゃないか。安心するんだよ、気になるなら後で電話しておくから。それより、明日はどうするんだい?君はついて行くんだろう?」

 佐倉はにっこりしてこう言った。


 「いいえ、やっぱりお母さんの希望通りにします。だって私がいるからってちゃんと話せなかったら勿体ないもの!私は別の日に一人で行ったっていいですよね?その方がいいかもしれないわ、そうしよう」

 さくらはうんうんと頷きながらこう言い、そして慌ててこう付け加えた。

 「私、また変な事言っちゃって!別に佐倉さんのお友達がすごい金額を取るなんて思った訳じゃないんです。ただ焦って言っちゃっただけなんです、すみません」


 佐倉はげらげら笑って「また余計な心配を!何も気にしちゃいないよ。友人価格で値切っておくから安心するんだよ。あいつも暇な独身男だから美人が行けば大喜びなんだからさ!」と言い、ミキオをチラチラ見ながら勝ち誇った。


 ミキオは腕を組んで佐倉の意地の悪いやり口を眺めていたが、今度は、さて自分が行く事をどうさくらに納得させようかと、そっちの方で頭が一杯になっていた。


 そして、ついにミキオが言い出しにくそうに「サクランボ、あのさ……」と声をかけた時、佐倉が横から口を出した。

 「そう言えば、明日もう一人、助手みたいな男が一緒に話を聞くらしいよ。かなり変な奴らしいが、まあ一生懸命で悪い奴じゃあないってことだから、お母さんが困る事はないと思うよ。一対一ってのもきついしね」と、こう言ってミキオを見た。

 ミキオは唖然としてぷいっとそっぽを向き、煙草を取り出した。


 「そうですね、二人っきりじゃ暗くなっちゃうもの。でも明日は私イライラしそう。暇だからここに来ようかしら?たまった仕事手伝ってもいいし。佐倉さんのほうで何かあったら手伝いますよ」

 さくらはニコニコしながら佐倉を見た。


 「暇だからってのがいいね!ぜひ来てくれよ。私を手伝ってくれたらお昼をごちそうするよ。明日はまた別の店に連れてくよ」

 佐倉はこう言うと、ミキオをこっそり冷やかして思いっきり笑ってやった。


     ◇◇◇◇◇


 さくらは朝からずっと落ち着きがなかった。ムキになって自分の仕事をこなしていき、それが一段落すると、皆の書類仕事や雑務を余計なお世話でやりたがった。

 そのうちそれも終わってしまうと、咲子や後藤をせかすようにして、何か手伝うと言ったり、意味もなく机の上や棚を整理したりしてうろうろしながら午前中を過ごした。


 さくらがあまりに落ち着かないのでトロさんやミキオは作業室に逃げ込み、後藤は仕方なくうんざりしながら相手をした。

 咲子は佐倉の部屋で「ちょこちょこしてるから、さくらに何か面倒くさい仕事をやって!」と思いっきり言いつけたが、佐倉はげらげら笑って「冗談じゃないね、君たちに任せるよ」と言って、さくらのうろつくところを観察すると言い出す始末。

 昼前に、咲子とトロさんが逃げ出すように業者のところに行ってしまうと、さくらはぽつんとしてつまらない気分になり、何とかミキオを作業部屋から出させようと頑張ったが、だらだらと机にうつぶせになり椅子から立とうとしなかったので、ついに佐倉の部屋にまで行き「佐倉さん、一緒にお昼に行きませんか?」とはっきりと誘った。


 「ついに見捨てられたの?」と佐倉は笑い出した。

 「だって私のところにみんなのデータや作ったものの写真が出来てこないと何にも出来ないんです。もうそれを待ってるだけなんです。あと他のことだって、本当に何もないんです。佐倉さんだって自分一人で出来るって言うし、もう探しようもないでしょう?デザインの方は後藤さんからオーケーを貰ってるし。よく考えれば何かあるでしょうけど。でもきっと、そうして何かやり始めると、あとから大事な仕事を忘れてた!なあんて事になるんだわ……でも一緒にお昼にいきませんか?またちょっと話したい事もあるし、本当にだめですか?」と言った。


 佐倉は笑いながら「これも暇つぶしなの?実に失礼な話だよ」と言ってさくらを焦らしてからかった。

 そして「暇な時だってあるんだよ、私にも君にもね。ゆっくりつき合うからもうそこら中をうろうろしないんだよ」と言い、二人は出掛けて行った。


 二人で歩きながら、佐倉はさくらの服を見て青い国の妖精の話を思い出した。


 「ねえ、その服はやっぱり水色なの?」

 「そうですよ、薄い水色。佐倉さんの桜色ですよ。今日初めておろしたんです。似合ってますか?」

 「そうか!『さくら』が私の桜色を着ている訳か!実に素敵だね、すごくよく似合ってるよ。その色ってさ、私にはまるで妖精のドレスの色みたいに思えるよ」


 佐倉はミキオの忠告を無視して、青色妖精のことで思いっきりさくらをいじめてやるつもりだった。


 「妖精?佐倉さんがそんな事言うなんてびっくりだわ。でも私はあまり水色は着ないんです。これは母が買ってきたんですよ。お給料から買いたいって言って、先週プレゼントしてくれたんです」

 さくらは嬉しそうにこう言った。


 「ふうん、君のお母さんはどうして水色を選んだの?」佐倉はニヤついていた。

 「そんなの分かりません、どうしてそんなことを?佐倉さんは何色が好きなんです?いつも週末は黒ばっかりだけど、もっと派手なのでも素敵なのに。佐倉さんが白い上下のとかを着ても絶対にヤクザみたいに見えたりしないと思いますけど」

 「いやだよそんなのは、いい年してさ。もしまた木登りしたら汚れるじゃないか」

 「木登りして襲いかかった時に汚れちゃう?それって素敵!私ならそれで汚れても全然平気」

 さくらはいかにも本気だという感じでこう言った。


 「なんてことを言うんだよ、お母さんが聞いたら本気で心配するよ。そういえば君には恋人とかいるの?」佐倉は心配そうに訊ねた。


 「いるわけないじゃないですか『全く冗談じゃないね、私とつき合うような厚かましい男は一人だっていませんよ』……なあんて!でも本当にいませんよ。大学の時にちょっとだけいたけど、それっきり一人ぼっちですよ。でもいいの、だって面倒くさいんだもの。前に佐倉さんにあんな事言ったけど、厚かましく頑張ってまで好きになった人なんていないんです。これって寂しいことですかね?」

 さくらはヘラヘラとふざけた調子でこんなことを言った。


 「それを聞いて安心したよ。君がほんとに襲いかかられても平気な子には見えないが、変な、危ない奴もいるから気をつけるんだよ」佐倉は真剣だった。


 さくらは、佐倉にこんなふうに言われてドキッとしてしまった。

 「私、父にそんなふうに言われた事ないんです、びっくりでしょう?普通なら年頃の娘がいたら何かしら言ってくるものですよね?こう思うこと自体がおかしいのかしら。でも、父は私が外で何をしようが関心なんてなかったんです、きっと。今日ミキオちゃんが『サクランボ』って言ってたけど、あれはお母さんとミキオちゃんがずっと昔につけた呼び名なんですよ。私が甘えん坊だって『さくら』とかけたんです。なんかなつかしいな、私、ミキオちゃんによく遊んでもらったんですよ。しつこくまとわりついて、私が小学校の間くらいまでは本当にしょっ中遊びに行って、一緒に絵を描いたりしたんです。ミキオちゃんはとっても上手で、私きっと画家になるんじゃないか、なんて思ってたんです。まさかこの仕事についてるなんて思わなかった。しばらく『行方不明状態』の時もあったんですよ。でも佐倉さんは私より知ってるみたいですね?」


 「ああだいたいはね、あいつも色々あったんだよ。今は香月ちゃんがいるからそんな無責任は出来ないから、まあ落ち着いてるよ。ところでさ『サクランボ』ならまあまあいいじゃないか、咲子くんも許してくれそうな呼び名だよ」


 「そうですよね。相変わらずミキオちゃんはあんたとか、いとこの嬢ちゃんとか言ってたから咲ちゃんに怒られていましたから」

 さくらは明るくこう言ったが、それでも急に甦ってきた父親への冷たい感情で気持ちが一杯になり、どうしてもそれを振り切れなくなってしまった。

 さくらは歩いていることさえ忘れてしまったように次第に無表情になり、そのまま黙り込んでしまった。

 佐倉はさくらが心配になり、なんとか励まそうと冗談を言ったりミキオの悪口で気を引こうとしたりしたのだが、さくらが辛そうに笑い返してくる姿を見てたまらなくなり、佐倉もそれ以上はしゃべらなかった。


 最初の日に皆で行ったレストランで席につくと、佐倉はやっとこんな風に口を切った。

 「世の中父親も色々だからね……全く娘を信じきって何も言わないってのも妙だが、細かいことまで詮索してうるさく聞かれるのも迷惑な話だよな。私なら、きっと口うるさく言って『襲われないように』監視するかもしれないよ。君みたいにとんでもないことを言って心配かけるような娘ならなおさらだよ。とにかく『健全』に過ごすようにするんだよ」


 「佐倉さんに監視されるならいい子になりますよ、これは本当。だって恐ろしく怖そうだもの。もし親を自分で選ぶ事が出来たら、私は最高のガミガミ親父を選ぶわ」

 さくらはまた笑ってこんなことを言った。

 しかし話せば話す程せつなくなり、気分が落ち込んでくるのが自分でもわかった。

 現実の父親のことを話す時、笑い話の一つも思い出せない自分を思うとひどくみじめで、さくらは気分を変えたくて何か言おうとしたが、佐倉がじっと見つめているのでまごついてしまった。

 とりあえず何か言わなければと思って「昨日母が、弁護士のことではありがとうございます、って言ってました」とだけ言った。

 情けないことに、今はそれぐらいしか言葉にでなかったのだ。


 「いいんだよ、とにかく早く終わらせよう。全て片付いてすっきりしたら君はまず何をしたいの?トロさんの手伝いをして実際に作ってみたいかい?それとも、もう少しパソコンにかじりつく?仕事だけじゃないよ、もう何にも考えずに遊びまくったっていいさ!まあ健全にね。一度お母さんと二人で旅行に行くのもいいかもしれないよ、のんびりと温泉とかでもいいし、思い切って海外へ行ってみるのもいいじゃないか。休みなら取らせてあげるから」佐倉は優しく言った。


 「ありがとうございます佐倉さん、でも私、全て片付いたら思い切って箱を開けてみる事にしたんです」

 「箱を?どういうこと?」佐倉はこれを聞いてなぜかぞっとした。


 丁度その時ウェイターが注文の品を運んできたので、二人の話は中断されてしまった。

 佐倉はウェイターがのろのろしていつまでもテーブルの側にいるのでイライラして自分から場所を作ってやったり、さくらの分を取り上げたりしてさっさと追い払った。


 さくらはびっくりして「お腹が空いてるんですか?佐倉さん」と言って笑ったが、佐倉はそれには答えずただこう言った。

 「箱っていうのは何なの?今日はその話がしたかったの?」


 「ええ、そうなんです。また私の秘密を聞いて欲しかったんですよ。明日一緒にお昼に行った時に聞いてもらおうかなって思ったんですけど……」


 佐倉は『秘密』という言葉にもぞっとさせられ、さくらが何かを感づいたのではないかと思った。

 それでも佐倉はにこにこ笑いながらさらっとこう言った。

 「へえ、楽しみだな、どんな秘密の箱っていうんだい?」


 「それが箱っていうのはね、昨日見た不思議な夢のことなんです。全く妙な夢なんですけど、佐倉さんの『暇つぶし』に聞いてくれますか?佐倉さんにも関係あるんですよ」

 さくらもにっこりと笑いかけた。


 「私に関係があるってどういうこと?箱がどうしたの?」

 佐倉は心臓を掴まれたかのように胸がぐっと詰まった。


 「昨日、私見たんです。すごく欲しかった後藤さんの銀の箱の夢をはっきりと。あの箱を一次面接の次の日にもう一度見に行って、その時になくなっていたものだから私すごくがっかりしたんですよ。こことは縁がなかったのかしら、って思ったりして……

 でも今は逆に思えるんです。私、あれがもしあの時手に入っていたら、ここには入れなかったのかな、なんて思うんです。なんかあの箱と引き換えにしたようなそんな気がして。

 それでね、夢の中ではっきりと見たんです。あの箱を開けたら私の銀の桜のペンダントが入っていて、その下に絨毯みたいに桜の花びらが敷き詰めてあるのを!

 それで、夢の中で思ったんです……でも、佐倉さん、気を悪くしないでくださいね」

 さくらは言いにくそうにこう言った。


 「何?大丈夫だよ、怒ったりしないよ。何を見たの?」

 佐倉はぞっとした気持ちを引きずったままで訊ねた。


 「私、夢の中の自分がそう思ったのか、それともウトウトしながら現実の自分が思っていたのか、よく覚えていないんです……あのね、その桜の花びらは最初は()()だったんです。それで、この間、佐倉さんが私に教えてくれたでしょう?遠くに見える桜並木がきっと薄い水色に見えたって。

 私、そのことを思い出したんでしょうけど、夢の中で……夢の中でぐらい、佐倉さんの世界が見たいって思ったんです」さくらはこう言った。


 「私の、世界を?」

 佐倉はぞくぞくっと背筋が縦に震えた。


 「そうです、それで強く願ったんです。だって透明ならどうとでもなるでしょう?もしかしたら、じっと見つめていれば色が変わるような気がしたから。

 そうしたら……私見たんです!美しい水色の花びらを!本当に綺麗だったんです。しばらく眺めていてそれを手に取ってみようとしたら、さらさらと風に吹かれて遠くに飛んでいったんです。私はちょっとだけがっかりしてしまって……でも追いかけようとしませんでした。なぜかは分からないけど大丈夫、また取ってくればいいんだって思って、自分のペンダントを首にかけたんですよ。それで空っぽになった銀の箱を見てわかったんです」


 「何が?何がわかったの?」佐倉はひっくり返ったような声で訊いた。


 「空っぽなのは理解しようとしないからだ、ってことが。

 佐倉さんの世界を理解しようとして願ったら、ちゃんと透明な花びらが水色になったんです。だから大丈夫なんだって、私思いました。それで、あとは何を理解したいのかって考えたら……やっぱりお母さんの世界なんだってことがはっきりわかったんです。

 私は全く自分勝手にお母さんを理解していただけなんだって、何も知らないんだってことに、やっと気付いたんです。

 だからもう一度、現実の箱を必ず開けるつもりなんです。

 誰が何と言っても私はやります。そうしないといけないんですよ。

 だって!お母さんはきっと何かを思い出して始めようとしているんです。

 お母さんは『きちんと立ち戻ってやり直さなかったことを何かが責めているの?』って言ったんです。それはお父さんとのことじゃなくて、全く別のことに違いないんです!そんなことぐらい私にだって分かるんです。

 このことは佐倉さんが私に教えてくれたんですよ。

 公園で、木の上の話をしてくれて……昔の辛い思い出を私に話してくれて!悲しい結末に違いないけど美しい絵が私には見えたんですから!

 お母さんだって『素敵だった頃のこと』って笑っていたんです。

 それだって、きっと美しい絵のはずなんです。だから私は絶対にやるんです」


 さくらはまるで佐倉に向って宣言するかのようにこれを言った。 

 佐倉はまだぞっとしたまま何も言えなかった。


 さくらは、自分がまた余計な事を話しているとわかっていたが、佐倉があの日、自分の辛い思い出を話してくれた事をとても大切に思っていたから、どうしてもこの箱の話を自分の胸だけに留めておくことが出来なかった。


 「佐倉さん、いやな気持ちになりましたか?しつこくお昼に誘っておいてこんな話を聞かされてうんざりですか?」心配そうにさくらは訊ねた。


 佐倉は黙って首を振っていた。

 やがて絞り出すように「いや」と言い、こう続けた。

 「さくらくん、箱を探し出して、もう一度水色の花びらを敷き詰めてごらん。それを君は美しいと思ったんだろう?それは真実なんだろう?そうだったなら、私達はきっと理解し合えるね。きっとお母さんの真実も……それが素敵だったと思えるものだったなら、どんな結末で終わっていてもまた始められるかもしれないじゃないか。そうなったら君はどうするの?それを受け入れられると思う?」


 「私が受け入れられるかですって?もちろんです、どんな真実だって喜んで受け入れます。私、色々なことをパズルみたいに繋げてみましたよ、佐倉さんが話していた通りに。それで少しずつだけど、見えてきたような気がするんです」


 「どんなことが?言ってごらん」


 「お母さんは言ったんです……私を見ていると大切な時間をなくしたあの時のことを思い出す、って。時間だけじゃなくて、自分の本当の気持ちや夢もなくしてしまったって。そうしてヤケになったんだって!だから、私がそれを取り戻してあの箱につめてあげるんです。佐倉さんの花びらみたいに、絶対に!」さくらは涙を浮かべてこう言った。


 「本当の気持ち、って言ったの?大切な時間って、そう言ったの?」


 「ええそうなんです。きっとお母さんは好きな人がいたんです。あんな酷い父みたいな人じゃなくって、もっと本当の、素敵な、真実の人が絶対にいたはずなんです。その人とはきっともう会えないかも知れないけど、その思い出だけは空っぽの箱に詰められるでしょう?私がやるんです、絶対に!」


 「君が、やるんだね?銀の箱を一杯にするんだね?」

 佐倉はこう言ってからもう一度、

 「君がそうしたいんだね?」と確認するように訊いてきた。


 「そうです、絶対にやりとげるんです。家のことは出来るだけさっさと終わらせて、私は箱を探して開けるんです。私がそうしたら、またきっと聞いてくれますか?」さくらは涙を拭ってこう言った。


 「ああもちろんだよ、私が聞きたいんだ。だから本当にさっさと決着をつけよう。今月中にけじめをつけて、君はそれを始めるんだ。さくらくん、私もきっと始めるよ。どんなに遅すぎても、全く何もしないよりやった方がいいだろう?私達は互いに教え合ったね、君に負けてはいられないんだ。だから私もそれをするよ」


 「佐倉さんと私にはもう同じ世界が出来て、箱に詰まっているってことですよね。私嬉しかったんです、とっても」


 お読みくださりありがとうございます!

 次回が『目撃者ミキオ(五)』でこのエピソードは終わります。

 次は弁護士さんが出てきたりします。またよろしくお願いいたします。

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