目撃者ミキオ(三、モノクロの楽譜)
一時間近くが経った。
ミキオは置いてけぼりにされたような気分になって、佐倉の気に入りのワインを勝手に飲み続け、ほとんど一本空けてしまった。
ミキオがそれを手に取って耳の横で振っているのを見た時、やっと佐倉は自分一人ではない事を思い出した。
「ミキオ、どれでもいいから部屋から取ってきてくれよ。まだ足りないよ私は」
ミキオは「そんなこと言うなら高そうなのにしますよ」と言いながら、奥の部屋から適当にワインを持ち出してきた。
佐倉は「ふん」と言ってそれをミキオに開けさせると「新しいグラスを持ってこい」と言ってまたミキオを立たせた。
ミキオはお仕着せを着た使用人のように、わざとらしくカクカクとロボット歩きをしてそれに従い、ロボットのような声で『お持ちいたしましたご主人様』と言いニヤついて見せた。
佐倉は全くそれには反応せず「一人だと寂しいよ。まだ、怒ったり泣いたりしている方がいいな」とぽつりと言った。
そして、暗い窓の外を見ながら静かに話し出した。
「さっきから私が妙だったんで、お前も変だと思ってるだろう?時々こうなるんだよ、別にどうってことはないんだ。ただ、理不尽に踏みにじられている人のことを思うと自分と重なるだけなんだ。大学に入った年からずっと、いやな身内と一緒に過ごしたんだ。母方の伯母なんだけど、きつい人で、私の目のことでは酷く言われたよ。恥だから出来るだけ人に言うな、とかさ。
そう言えば、ミキオはピアノをやらされてたんだろう?それはお母さんの方針?お前のことだからまさか自分からって訳じゃないだろう?私はね、母に言われたんだ。といっても実際は母の考えじゃなくってさ、その伯母が母に言ってね、私にピアノとかバイオリンとかやらせたんだよ。
父はそんなことより外で元気よく遊んだり、お前じゃないが、虫取りしたりさ、そういうことが大事だって思ってたみたいだけどね……父のことはさくらくんの家と同じで軽く扱われたんだ。
まあ学がなかったし、貧しかったから伯母のような人には耐えられない人種みたいでね。自分の妹が結婚する相手としては伯母にも理想があったそうだから。
でも、父は私の教育のことでは一生懸命でね、自分がそうしたくても貧しくて受けられなかった教育を、私には必死になって与えようとしてくれたんだ。だから私は、まあ頑張ったんだ。父は大学に入ってすぐ病気で死んだんだよ、母はもうずっと前に……」
佐倉はこう言ってそっと微笑んだが、ミキオには佐倉の目が少しだけ潤んでいるように見えた。
ミキオは思わず「佐倉さん」と声をかけたが、佐倉はすぐににっこりと笑ってこう続けた。
「それでさ、伯母は自分が月謝を出すからって私に色々やらせてたんだけど、その理由がまたいいんだよ、伯母はなんて言ったと思う?
『楽譜は白黒だから問題ない』ってさ!それを母や父にだけでなく、平然と私にも言うんだ。はじめはさすがに傷ついたけど慣れてきて平気になったよ。
きっと人は、誰でも強い、激しい心を持っていて、それに慣れるように出来てるんだ。君のおばさんだって、いやらしい最低ばあさんに何を言われてもさ、そんな人間の下らない言葉にいつまでも心を傷つけられてた訳じゃあないさ!」佐倉はこう言った。
ミキオは佐倉の若い頃の話を、以前咲子から聞いたことがあった。
その時は、金持ちのいやな伯母さんといやな思いをしながら暮らしていたが、その伯母が亡くなって財産を相続したので、それからは悠々自適な気ままな暮らしをしている遊び人だ、とだけ聞いていた。
たった今、佐倉の口から冷酷な伯母の話や家族の話を聞かされたミキオは、佐倉の目に浮かんだ涙の意味を想像してひどく辛くなった。
佐倉はたった今、人は誰でも強く激しい心を持ち、辛いことがあってもそれに慣れるように出来ていると言っていたが、ミキオはそれは違うと思った。
そうした強さや激しさは誰もが持てるものではなく、それだけの価値のある人間だけが手にできる、そういう感情であるはずだと。
確かに佐倉の場合はそうならざるを得なかった部分があったかもしれないが、だからといって誰もが真っすぐに苦しんだり、悲しんだり、それを克服出来るものではないのだから。
「ありがとう佐倉さん、おばさんはきっと大丈夫だったんだ。俺が色々あって友達のところに転がり込んでやってたころは、おばさんに何にもしてやれなくて。ただ話を聞いてあげるだけでも違ったんだろうけど。そのまま見殺しにしていたあの頃だって、きっとおばさんは大丈夫だったに違いないんだ。
あの頃は俺の方が自分でもどうしようもなくなってたから、逆におばさんに聞いてもらいたいくらいだったんですよ。そんな風におばさんを信じてるのは、あの人が佐倉さんのように強くて激しい心を持ってるってことを、俺が知ってたからに違いないんですよ」
「ああ、あの人は確かに激しくて強い心を持っているはずだよ。さくらくんを見ていればわかるじゃないか!あの子の優しさや強さを、私は知っているんだから」
佐倉は生き生きとしてこう言った。
そしてミキオはこの瞬間、自分の直感が正しいと、完全に確信した。
佐倉は今日、何度も璃久のことを『あの人』と言っていた。
途中、佐倉はひどく興奮していたためにミキオにつられて、あるいは大切な何かを思い出してごっちゃになりそう言っていたのだろうと、ミキオはあまり気にしていなかった。
しかし、ミキオの鋭い目は、たった今、佐倉の秘密の入り口を見つけてしまった。
ただ、ミキオは今それを探ろうなどとは思わなかったので、自分がこの入り口に気付きそうだということが佐倉にばれないように、笑いながらすぐにこう言った。
「サクランボのはちょっとみっともないんですよ。初日に泣いてるのを見たときはやられたか、って思いましたよ。おばさんの言ってたあれか!ってね。面接の時は、俺はただあの子が可哀相でそれどころじゃなかったけど」
「お前はやっぱり何にも分かってないんだよ。あの子は偏屈じいさんの本物なんだよ。だいたいろくに女とつき合ったこともないくせに、やれみっともないだとか行儀が悪いだとかさ。咲子くんとはどうなんだ?あの子はお前にまんざらじゃないだろうが?」
佐倉はこんなことを言い出してミキオを困らせた。
「ちょっとそういうことを言うのはよしてもらいたいですね。あのお転婆が俺になんですって?あなたと喧嘩して作業室にいた時だって、恐ろしい力で俺の背中を突いたんですよ!『勝手にしな』とか言って。俺はびっくりしましたよ、あれが女ですか?あの子とサクランボが丁度いいって、佐倉さんが気付いたのは確かにすごいですよ。二人とも恐ろしく行儀の悪いお転婆なんだから」
ミキオは本気でそう思った。
「咲子くんはただのお転婆なんかじゃないよ。優しくて思いやりのあるいい子じゃないか、それに美人だし。だいたい会社に意地悪そうな不細工な女は入れたくないね、お前達だってその方が幸せだろうが。
ちょっと遊ぶんだって私は美人じゃなきゃいやだね、色が白くって髪が柔らかくてサラサラでさ、声が綺麗な人がいいんだよ。
理想ってものが大切だろうよ、ミキオは素敵なおばさんとくっついてばかりいたから、感覚がおかしくなっているんじゃないか?咲子くんにしてもサクランボにしてもなかなかの子達だってのにさ!」
佐倉は今日久々に陽気な声を出した。
「社員を選ぶ時に容姿を条件にするような、そんないやらしい社長だったとはね。明日あの二人に言ったら逆にうぬぼれて大変だから言わないでおきますよ。
佐倉さんの理想の人ってのはどんな感じなんです?色白で髪が長くてサラサラ、綺麗な声ってことの他にはどんな理想が?考え方とか主義とかそんなのはどうです?」
ミキオは佐倉をさりげなく誘った。
「そりゃ優しくてユーモアがあって、賢い人がいいよ。知的で優雅な雰囲気を持っていて、人の悲しみとか苦しみとかに自然に共感出来る人。
それでちょっと意地悪を言ってみたりさ、そんなことをするんだけど温かいんだ。そういう人がもしいたらお目にかかりたいね。
あとさ、その人の側に花はいらないんだよ、だって必要ないだろうが、その人そのものが花みたいなんだから。花は遠くに見えればいいんだよ」
佐倉は急に楽しげにしゃべった。
それを見て、ミキオはさらにこんなことを聞いてみた。
「ふうん、さすがに適当に遊び歩いてた金持ちの、激しくロマンチックな、ちょっと恥ずかしい理想ですね。でも、それを絵に例えたり、似ている人に例えるとどうです?
まさかあのお転婆二人みたいなのにはならないでしょうが?似ている女優とかモナリザとかみたいな例を出して具体的に言って下さいよ」
「お前モナリザはないだろう?笑わせないでくれよ!あの人に似ている女性なんてそうそういないんだよ。馬鹿らしい女優とも一緒にしないでほしいね。
本当の理想ってのは変わらないんだ、絶対に。だからそれで似てるとかそんなこと言って、ほんのぽっちりだって満足出来ないものなんだから。これだから、お前はわかってないって言われるんだよ」
佐倉は笑ってこう言った。
「あーあ、やっぱり好きな人がいるんですね。サクランボが怒って俺に言ったんですから。佐倉さんには、俺のあのネックレスをかけてあげたい人がいるんだって。これを聞いた時は嬉しかったっていうか、正直ずんときましたよ。
でもそういう人がいるってだけでもうらやましいですよ。
俺はただ、自分やおばさんが共通して持っている苦しみとか、そういうものを、何かこう、美しいもので忘れさせてもらいたいっていうか……そんな感じであれを作ったんですからね。
おばさんのためって言いながら自分を癒すためでもあった訳です。
だから本当にあれを気に入ってくれたんだったら、喜んであなたに差し上げますよ。
そしてそれを、その人の首に掛けてやって下さいよ。この気持ちは本当の本気ですよ」
この時、ミキオは真面目にこれを言った。本当にそう思ったからだった。
佐倉は少し下を向いてそっと微笑んだ。
「ミキオらしくなく洒落たことを言うね。私はあれが本当に気に入ってるんだ。さくらくんの言った通り、かけてあげたい人はいるんだよ。
でもそれは……きっと無理なことなんだから、もういいんだ。さくらくんの家のことで決着がついたらミキオがおばさんにプレゼントするといいよ。きっと喜んでくれると思うから。だってあれはとっても素敵なんだからさ。あんまりお前を褒めるのもしゃくだが、仕方ないさ」
「うーん、おばさんには他の何かをプレゼントしたいと思ってるんですよ。サクランボのあれとか……ほら、あなたがこきおろした桜のですよ。俺のネックレスはもう佐倉さんのものなんです。あんなふうに言ってくれて嬉しかったんですから!もう俺には必要ないものなんですしね、どこかの理想の人を喜ばせるのに使って下さいよ。おばさんには悪いけど、他ので埋め合わせますから」
ミキオはいかにもさらりとこう言った。
「無駄になってしまうじゃないか!いいから彼女に作ってやれよ、さくらくんだってかなり気に入ってるんだから。まあ勝手にすればいいさ、だいたいお前は女性のものを作ってるってのにもう少しこう、激しい感情とかロマンであるとかさ、そういうものを女性に真っすぐに向けられないのか?いつまでもそんなまんまでこの仕事をやっていくつもりなのか?」
佐倉は日頃からミキオに言いたかったことを持ち出して、説教じみたことを言い出した。ミキオはそれが面倒くさかったので、さっと本題に引き戻した。
「いいんですよ俺は別に。佐倉さんはさっき、理想の人を何かに例えるなんて無理だ、みたいに言ったけど、俺はそれをしたことがありますよ。
あなたより感性豊かなのか、めざといのか、どうでしょうね?」
「へえ!どんな人を?そのおばさん?それとも初恋の人?聞かせてくれよ」
佐倉はぐっと興味を惹かれて身を乗り出してきた。
「正解!別におばさんを理想化してる訳じゃないけど、あの人は確かに素敵なんです。佐倉さんだって、もし会ったらきっと好きになりますよ。そんな人だから、色々なものを見ておばさんを思ったことがたくさんあったんです。一番覚えてるのは……聞きたいですか?」
ミキオはいたずらっぽく笑って佐倉を見つめた。
佐倉は「ああ言ってくれよ。一体お前のおばさんは誰に似ているの?」とうきうきしながら聞いてきた。
ミキオは上手い具合に佐倉を観察しながら、静かに話し出した。
「俺が友達のところに、まるでヒモみたいに世話になってた頃の話なんですよ。あいつが急にイタリアに行ってみたいって言い出して、俺を誘ったんです。
まあ、あいつも家で色々あったらから逃げ出したかったみたいで。
それで、金は出すから一緒に来てくれって言うもんだから結局俺も行ったんですよ。でも言っときますけど、金は後から半分くらい返しましたから。
日雇いやったり警備の仕事で稼いでさ、まあどうでもいいけど……
あっちでは、ぷらぷらいろんなところに行きましたよ、美しい大聖堂や長い川のほとりで足をかけて一日中座ってたりして、別に何した訳じゃないんですよ。ただ時間を……忘れたかったんです。
二人とも、ただそんな風にして過ごしたかっただけなんですよ。
それで、小さな田舎の、並んだ屋根がすごく綺麗な村に行ったんですけど、そこの近くに若い画家の遺作を飾っている小さな美術館みたいなのがあったんですよ。多分その村出身の画家で、若くして亡くなった、そんな人だったんでしょうね。
俺は名前も何も覚えてないけど、その人の作品で『永遠の処女へ』ってのがあったんです。とても綺麗な、プラチナみたいな髪をしていてさ、両手で水を汲んでるんです。
真っ白い肌でクリーム色のドレスを着ていて……笑われそうですけど、すごく感動しましたよ。それを見て本当に美しいと思いました。
おばさんと似ていた訳じゃないんです。ただ『永遠の処女』っていう言葉が、その画家の思いの全てなんだって思ったら、すごく嬉しくなって、それでおばさんを思い出したんです。
あの人がそうなんだって俺は信じていたから、すごく嬉しかったんですよ。
ほら、どうです?佐倉さんみたいに頑なになって、何かに例えられないなんて変ですよ。俺だって充分にロマンチックなことが言えるんですよ。ロマンを仕事に生かしてる男ってことですよ」
ミキオはいつものように意地悪く笑いながら、勝ち誇った。
佐倉は『永遠の処女』と、つぶやいて黙り込んでしまった。
ミキオはそのまま佐倉をじっくりと観察しながら答えを待っていた。
佐倉はなかなか声を出さなかったが、やがてこう言った。
「きっと、青い国の水色妖精の王様も女王も、呆れて軽蔑するかも知れないがね、確かにお前は正しいよ。その若い画家の思いは、きっと美しい、真っすぐな光だったんだ。
だからその通りのはずだと思うよ。ミキオのおばさんもその絵の女性のような、その通りの人なんだ」
佐倉は、いつものように落ち着いた低い声で真剣にこう言った。
しかし、ミキオの好奇心は、今の佐倉の言葉だけでは満たされなかった。
「あなたもそう思いますか?でもこれからもし、あなたがおばさんに会うような事があったら、今日俺が話した他の色々な事を思い出して、やりきれない思いに辛くなったりしませんか?出来ればいやな部分は忘れて下さいよ」
ミキオは敢えて投げやりな言い方で佐倉を突ついた。
これはミキオらしいやり方であり、決して悪気はなかった。
「まだそんなことを言ってるのかお前は。私がそんな風に思う訳ないんだよ!イライラさせる事を言うんじゃないよ。
だいたいがお前のおばさんに会う機会なんて、ないから!
弁護士の事だって、私はただの後方支援なんだよ。途中つまずきそうになったらいくらでも出て行って復讐に力を貸すが、しゃしゃり出てっておばさんに会ったりするもんか!
私達が事情を知ってるとか、色々考えてるなんて彼女に知れたら、それこそいやな気持ちにさせてしまうじゃないか。お前ももう少し考えてからものを言え、全く馬鹿らしいよ」
と、佐倉はイライラとむきになりミキオを睨みつけた。
ミキオは、佐倉が璃久には会わない事をむきになって言ったのを聞いて、まあまあの満足を覚えた。
そして、ここで佐倉を刺激しじっくりと観察できたことで、今の段階で必要な感触を得ることができたため、もう余計な観察をやめることにした。
ミキオは独特の直感とちょっした言葉の状況証拠から、佐倉が璃久を知っているという事実を突き止めた。
これは驚くべき偶然で奇妙な話に違いなかったが、二人のどちらについても良く知っているミキオはこれを不愉快には感じなかった。
きっと普通なら、佐倉がここまでの激しい関心を示して、さくら親子を助けようとしている事が『璃久を知っている』ことからきていると感づいた時点で、佐倉を出来るだけ排除したいと思うはずだろうが、ミキオのように直感で動きまわる、非常識な人間は佐倉を喜んで身内の部屋に引き入れた。
こうしたミキオの荒っぽいやり方は確かに危険ではあった。
しかしそれは、奇妙な温かい感触の、長く一緒にいる人間だけが肌で感じられるミキオ独特の優しさの表し方に違いなかった。
ミキオはこの真相を探り出そうとした訳ではなく、自分の直感が受け取ったことを素のまま信じて、大切な人を助けたいと、ただそう思っただけだった。
最後にミキオはちょっとしたいたずら心からこんなことを言った。
「でもこれから弁護士のことやなんやかんやで絶対に世話になるんだから、きっと璃久おばさんは菓子折りの一つでも持って、あなたに挨拶に来るんじゃないかな?もちろん、あなたが何も知らないって、璃久おばさんが信じたまんま、ってことが前提ですけど。
その時に佐倉さんの理想の美女と、追放された人間の美人とどっちが良かったか、俺にだけはこっそり教えて下さいよ」
「そんなことをお前なんかに言いたくないよ。全く、なんて品のない言い方なんだ!どっちがいいか、なんていうような奴に何を言えって言うんだよ。お間には呆れてしまうよ、そんなの勝手に想像してればいいだろうが」
佐倉はこう言って不機嫌にそっぽを向き「まだ全然飲んでない」と言って、荒々しくワインを飲み干した。
お読みくださりありがとうございます!
次回は『目撃者ミキオ(四、透明)』となります。




