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目撃者ミキオ (二、白と黒の蝉)

 佐倉の部屋は、本当にがらんとして冷たかった。

 必要最低限の家具や電化製品の他には一人掛けのソファーが二台。

 片方にはいつも必ず何かが山積みになって置かれていた。大抵は好きな画集であったり、気に入りの本であった。

 佐倉はそのソファーを窓に向けて置いており、自分が座る方はスタンドの側の一番いい場所に配置していた。

 部屋に入ると、まずはソファーを片付けてから、奥の部屋からワインを持ってきた。

 佐倉のワインはいつもミキオや他のみんなが忘れられなくなるような素晴らしいものばかりだったので、ミキオは前回ここに来た時のことを思い出して図々しく催促した。

 「この間飲んだのは無いんですか?あれは俺みたいな素人が飲んでも最高でしたよ」


 「厚かましいってのは本当だな。今日はあれは無いんだよ。その代わり私のお気に入りを出すから、まあ満足するんじゃないか?いくらお前のような厚かましい素人でもわかるはずさ」


 佐倉とミキオはスタンドの明かりを二つ点けただけの薄暗い部屋で、まずはグラスを鳴らした。

 ミキオは生意気にも「美しい味ですね」などとつぶやいて、やっぱりこういうお酒を飲みながら話したくはないと言ったが、二杯飲み干した後、ついにこう切り出した。


 「佐倉さんは自分の中にイヤなものが……どうしても消せないイヤなものを抱えた苦しみってのが分かりますよね?俺には確かにありますよ。この話と関係ない事でも、関係した事でもね。そう思って話すんですから軽蔑したり哀れんだりして、いつもみたいに俺をやり込めようとしたり、笑ったりしないでほしいですね。俺は自分の事を言われるのは平気ですよ、だって別にどうってことないんだから。

 佐倉さんには悪いけど、俺自身を馬鹿にされたって全然平気なんですよ。

 俺は、俺の大事な人とか、モノとか、思いとか、そういうのをあなたにやられるのがいやなんですよ。どうせあなたは分かっててやってんだろうけど、今回はあなたのように先に言っときますよ。いいですね?」


 「全く素晴らしいよ!だからお前が好きなんだ、これは本当だよ。

 私はね、お前のそういうものの言い方が心地いいよ。私にだってまだ傷つく心があってさ、癒せない悲しみや美しい思い出があるんだってことを、全く関係ないお前なんかに踏みにじられてるような気がするんだよ。つまり、お前がそういう口の聞き方をすると、ぞっとしてぐっときて実にいいんだよ。

 まさに分かっててやってるんだろうよ、お前も私もさ!だから約束するよ。私がこのことでいつものようにふざけた馬鹿なマネをしないってことをね!するわけがないじゃないか!余計な事をわざわざ言って時間を無駄にするのはやめるんだ」


 「そいつはよかったです!だいたいこんなにまで言われて何故あなたに話さなきゃいけないんだ?全く馬鹿らしい話ですよ。でもまあいいですよ、これをここに置き去りにして、あんたに押し付けて少しは楽になるか確かめられるでしょうしね」

 ミキオは佐倉を横目でちらっと見て、いまいましそうに舌打ちをして話し出した。


 「きっと、追いかけてくるんでしょうね。自分が見たくないものや恐れているものってのは絶対にあとからやって来るってことですよ。

 俺はずっと自分でも見ないように、考えないようにしてたんだから!

 佐倉さんが俺を追いかけまわして、無理矢理それを見ろ、とか?そんなことを言う権利はないんですよ。でも別にいいですよ。俺だっていつまでも逃げ回ってたら……そうやってたら、何も始められないから」

 ミキオはこう言ってしばらく黙り込んだ。


 佐倉は何も言わずにミキオを見つめていたが、ミキオは深く長いため息をつき、勝手にワインをついでそれを一気に飲み干した。

 そしていつものようにニヤッと笑ってから、とうとう話し出した。


 「さくらんぼがまだ幼稚園の頃の話なんですよ。あの子は笑っちゃうくらい俺になついてて夏休みに俺を家に呼びたいって言い出して、おばさんだけでなく、あの親父にもギャーギャーせがんですごかったらしくて……それでついに折れたんですよ、あいつが!

 サクランボが、いつも俺んちに行くばっかりで一度も俺を呼ばないのは変だし、そういうのは悪いことだってわめいたことから始まったんだけど、ちょうどあの家の意地悪バアさんが海外旅行に行く事になったもんで、その間一泊か二泊だけ俺が行く事になったんですよ。

 俺は面倒くさかったけど、まあしょうがなかったし、おばさんと遊べるから我慢して行ったんですよ。結局二泊して、最初の日は大きな自然公園に連れてってもらって蝉取りしたり、バッタを探したりして過ごしたんです。

 サクランボは大喜びで俺にくっついて回ってさ、おばさんもすごく楽しそうで、まあよかったんです。

 で、二日目は買い物に行ったんですよ。おばさんが俺に素敵な絵の具セットを買ってくれるって言い出して、俺はうきうきしながら見に行ってそれを買って帰って、午後はずっとそれを見てたから、あんまりサクランボの相手はしなかったんですよ。

 サクランボはまとわりついてきてうざったかったけど、そのうち昼寝しちゃったから、まあ邪魔者は消えた訳で、午後はおばさんと色々話したりして過ごしたんですよ」


 「ミキオがそこの家に行ってた時、その親父さんはずっといたの?」


 「ええそれが、一日目は帰ってこなかったんです。あいつは子供が大嫌いだったから、サクランボだけでもうるさくってしょうがないのに、俺が二日も三日も居座る訳でしょ?

 だからどっか他の、女の家とかホテルとか、泊まったんじゃないかな?

 おばさんにとっちゃ意地悪ババアもあの親父もいなかった訳だからとっても寛いでいてね、なんかすごく偉そうに見えましたよ。

 でも俺は、こういう姿が本当のおばさんだって事をずっと小さい頃から知ってました。だってさ!あの人はズバリ刺すんですよ、それも極端にね。

 でも言っときますけどいつも刺す訳じゃないんですよ。おばさんは優しいから言葉を柔らかくして言ったり、場合に応じて嘘も交えて話したりして、相手によって結構姿を変えてうまくやるんです。

 俺はこれが悪い事とは思いませんでした。だって、言っても分からない相手に本音でぶつかる必要があるんですか?いつも真正面から正直に言えってんですか?別にいいじゃないですか」


 ミキオは途中すぐに脱線して、まるで佐倉を責めるように感情的にくってかかってきた。佐倉はそんなミキオに驚いたが、わざとふざけてこう言った。


 「そりゃまるでお前と同じじゃないか!そうだろう?つまり私も刺された事がたくさんあるってことだよ。ミキオは私が何を聞いても言われても傷つかないとでも思っているのか?まあもし、他の奴らの事は、言っても分からない相手だから適当にやってるっていうんなら、少しは満足を感じるよ。こう言われると『冗談じゃない』ってな感じで怒るんだろう?」

 佐倉は楽しげに笑った。


 ミキオは「ほら!これだよ、こうやって馬鹿にするんだ。真剣に言ってるってのにちゃかしたり色々言うのがイヤなんですよ」と言って煙草を持ち出した。


 佐倉はミキオの言葉を気にも留めず「それで、どんなふうにお前を刺すんだ?その人は」とせかした。


 「ええ、とにかく痛いとこを突くってことです。別に悪気無く何の気無しに言っただけよ、って風な感じで言うんだけど、実はしっかり考えていて、まるでチャンスを伺ってたみたいにやってくるんですよ。

 俺はそういうところがすごく好きだけど、普通はいやなのかもしれない。特にあの親父なんかはどう思ったでしょうね?おばさんは、」


 「何も感じないさ。そいつはあの人の『相手にならない』正真正銘の馬鹿なんだよ!何も傷ついたり感じたりなんてことはないんだよ。そいつの話はどうでもいいよ」

 佐倉は急に不機嫌になりミキオを更にせかした。


 「ええ、俺だって別に話したくて言ってるんじゃないんだから。とにかくなんだ、あいつがいなかったって話ですよね?それで、二日目の夜は帰宅したんですよ、いなくてもいいのにさ。

 まあ感じ良くやろうとしてましたよ、愛想がよかったわけでもないけど俺にこずかいをくれたり、俺の親の事をちょっと聞いてきただけですけどね。次の日は土曜日であいつは朝から家にいたんです。

 部屋に閉じこもりっきりで出てこないんだけど、おばさんは緊張した様子になってきて、俺はすごく居ずらくなってきたんです。昼飯を食べて、とうとう帰る頃になってあいつは出てきて、またこずかいをくれたんです。まるでとっとと帰ってくれって感じでした。その通りに俺は急いでおさらばしたんですよ」


 「ふうん、それでその夏休みに何がどうしたっての?」

 佐倉はため息をついて、冷たくこう訊いた。


 「だから、嫌なものを見たって言ったでしょ?もう考えりゃ大体分かるでしょう。俺はあの家に忘れたんですよ、おばさんに買ってもらった絵の具セットをね。駅の方まで歩いて行ってからやっと気が付いたんですよ。俺はどうしても家に持って帰って、すぐにそれを使いたかったから戻ったんです。

 そういうことです、もういいですか?気分が悪くなる話なんですよ、あんたにだってもう大体想像がつくでしょう?」

 ミキオは不機嫌な顔で煙草をくわえこう言った。


 「いいや、全く分からんよ。何がどうしたんだか想像もつかんね。お前はその家に戻ってドアを開けて中に入ったのか?」

 佐倉はこう言ってから、馬鹿にしたように煙草の煙を手で払った。


 「そうですよ、玄関の扉の鍵が開いてたから下駄箱の側に立っておばさんを呼んだんです。でもそしたら……恐ろしい怒鳴り声とすごい音がしたんですよ」

 ミキオはこう言って黙り込んだ。


 佐倉はイライラして「それで?」ときいたがミキオは何も答えなかった。

 佐倉はミキオの代わりに先を続けた。


 「わかったよ。だからお前は中に入っていって、あの人がその親父に殴られてるのを見たんだな?そうだろう、どんな音だって言うんだ!それでついでにお前まで怒鳴られたり殴られたりしたのか?それとも彼女にさらに酷くやったのか?」

 佐倉は完全に興奮していた。


 「違いますよ、俺は足がすくんでそこにそのままいたんですよ。

 あなたもしつこいですね、全部すっかり知りたいんですか?俺がこんなに嫌がってるってのに」

 ミキオは冷めた声でこう言った。


 「ああ知りたいね。それで、玄関に立ちんぼうのお前は何を見たっての?彼女はさんざん殴られた挙げ句どうなったの?」

 佐倉は少し落ち着きを取り戻してこう訊いた。


 「おばさんは、あいつに乱暴されそうになっていて……服が乱れてました。真っ青になって怯えていて、」

 ミキオはゆっくりこう言い、佐倉をちらっと見た。


 「乱暴って、だって、」佐倉は驚いて訊き返した。


 「ああ乱暴なんですよ、おばさんにとっちゃ恐ろしい乱暴なんですよきっと!殴られたって蹴られたってあの人なら平気なはずなんです。

 どんなに殴られたっておばさんは青い国を追放されたりしないんだから!

 でもあいつがおばさんを汚したんです。おばさんはどんな仕打ちだって平気なはずだけど、あいつにそんなにされたら、もうどうしようもなくなっちゃうんですよ!サクランボが生まれた事が追放の原因だって言うんですか?一体どんな王様がそんなことを言うんだ?あの子は、あいつの娘なんかじゃないはずなんだ!」


  佐倉はこれを聞くとぞっとして動けなくなった。

 そしてそのまま、ミキオの冷たい声だけを聞いた。


 「おばさんは泣きながらそこら中を逃げ回るみたいにやってたんだと思いますよ。リビングの何か大きな物が倒れる音も聞きました、あいつが殴る音と一緒に。

 でもそのうち、おばさんがあいつに向かって言ったんですよ『恥ずかしくないんですか?』って。そうしたら、あいつはまたおばさんを叩いて、恥知らずはお前の方だ、って怒鳴ったんですよ。あいつの意地悪ババアがこう言ってたって。

 『お前は絶対に本当はいやらしい女で、見た目も体つきもそういう女そのものだ』って!ババアがそう言ったってあいつは言ったんだ!」ミキオは叫んだ。


 佐倉はこれを聞いてかっとなり、ソファーの肘掛けを叩いた。


 「誰が言ったって?そのばあさんか?彼女のどこがそんなだって言うんだ!」佐倉も怒鳴った。


 ミキオはもう自分でもどうしようもなくなって叫ぶようにこう続けた。

 「おばさんはあんな風に言われて『お義母さんがなんと言ったんですって?』って叫んだんですよ。そしたらあいつ!気味の悪いことを言ったよ。

 『母さんはお前を見て知性や理性を感じないって言ってた、ただ成長しただけの女そのものだ』ってさ!それで、こうも言ったんだよ!

 結婚したのはおばさんみたいに貧しくて、学がなくて、使用人みたいに使えてさ、おとなしいのが一番だって父さんが言ってたからだって!

 死んだあいつの親父が無理矢理結婚させたようなもんなんだよ、おばさんは最初断ってたんだから!きっとうちのばあちゃんが、ほんとに馬鹿をやって、うっかり真実を見逃したんだ!だってさ、いくら金持ちで生活が安定してるって言ったって、それが何だってんだ!あいつはおばさんを徹底的にやろうとしてまた言ったんだ!『ちょっと綺麗だと思っているのか?お前位の女など、どこにだっているんだ、だから馬鹿なくせにお高くとまったみたいな、似合わないマネをしても無駄なんだ』って――それであいつは自分が気が向いた時くらい、」


 ミキオは自分でもぞっとして口をつぐんだが、佐倉はどうしても最後まで言わせようとした。


 「気が向いた時に何だって?そいつはあの人に何を言ったんだ?ちゃんと言え!」佐倉はミキオを指差して怒鳴った。


 「気が向いた時くらいしおらしくしろ、って。はけ口って言葉を知ってるか、って!」


 ミキオは佐倉を睨みつけて『さあどうだ?これで全部聞いたから満足したか?』と、言いたそうに煙草の煙を吹きかけた。

 佐倉はこれを手で払いのけてじっとミキオを睨みつけた。


 ミキオの涙はこの告白に流すには温かすぎた。だからほんの一滴だって流れなかった。佐倉にしても同じだった。この告白に流す涙など、ほんのぽっちりでも持っているはずがなかった。

 二人は睨み合って、そのうちに静かに見つめ合って、そうしているうちにきっと少しくらいは慰め合えたはずだった。


 佐倉は最後の告白を促す為に自分から口を切った。

 もう別に、聞いても聞かなくてもどうでもよかったかもしれないが、全てを話してくれたミキオに、もう忘れ物をさせたくなかった。


 「それで、彼女はどうなったの?やっぱり酷い事をされたの?さんざんに傷ついてしまったの?」


 「いいや、それっきり二人とも黙り込んで何も言わないでいたんですよ。

 でもしばらくしておばさんの方からこう言ったんだ。『さくらを連れて出て行きます。ですから離婚して下さい』ってね」

 ミキオは静かにこう言った。


 「それで?どうしてあの人はそうしなかったの?だって、さくらくんが幼稚園の頃の話なんだろ?そんなに卑劣な最低な奴のところに、どうしていつまでも我慢してやっていたんだ?」


 「ほら!そうやって言ってくるんだ。まるでおばさんが『諦めた可哀相な人』であるとか『我慢強い、辛抱強い人』とかって――それとも『やっぱり社会的な安定をはかりにかけた計算高い苦労人』とかって言いたいんですか?あんた、自分なら絶対に我慢出来ないからって、それをやってきたおばさんに同情しながら、実は軽蔑してみせるって訳ですか?

 それを俺に言って、俺に気付かせようとしてるとか?あんた、おばさんをそんな風に言ったら俺は絶対に許しませんよ。辛抱して我慢した訳じゃないんだよ!小さな小屋を建ててサクランボにへばりついて、あの子を守り通して、ついでに自分の誇りだって必死で守り通したんだよ!」


 ミキオは佐倉の言葉尻だけに反応して怒鳴り散らした。

 しかし、佐倉もまたミキオのように大声で返す。


 「誰がそんなことを言った?ふざけたことを言うんじゃないよ!お前は本当に私が、彼女の事をそんな風に考えると……お前は私の事を本気でそう思うのか?教えてくれよ!私は卑怯で卑劣な男なのか?」


 ミキオは、自分が興奮して心にもないことを言ってしまった事に気付いたが、すぐにそのことを口に出来なかった。そしてごまかす為に話の先を持ち出した。


 「ふん。別に聞きたくもないでしょうが、あいつは絶対に離婚させないって言ったんですよ」


 「どうして?そんないやらしい、どこからどこまでも卑怯な馬鹿みたいな男なら、彼女じゃなくてもいいじゃないか?ついでに金持ちで権力志向の男なら、それがよくてついてくる女なんて山ほどいるじゃないか。どうして離婚しないんだ?」


 佐倉はミキオに話をそらされたことに全く気付かず『本題』に食いついて自分から戻ってきた。

 ミキオはほっとして、すかさず話を続けた。


 「だから、あいつは離婚したりなんかしたら自分に傷がつくって思ったんじゃないですか?そんなこと、あのヤローの真実なんて俺にだって分からないんですよ。ただあいつは本気でこう言ったんです。サクランボは絶対におばさんには渡さないし、どんなに頑張ってもおばさんにサクランボを連れて行く事は出来ないんだ、って」


 「どうして?そんな暴力的で卑劣な夫から逃げ出そうとしている女性をさ、何が邪魔して子供を取り上げるって言うんだ?」

 佐倉はまたミキオに向かって激しく言ってきた。

 ミキオは佐倉のこういうところが……ここが好きなんだ、という表情をして佐倉をじっと見つめた。


 「だからおばさんは仕事をさせてもらえなかったんだ。家ん中で女中みたいに動き回って、くたくたにさせられてさ、おばさんの能力や可能性をつぶそうとしたんですよ!あいつは離婚になってもサクランボをおばさんに取られない自信があったんだ。実際それを盾に言ってたよ『絶対にさくらには会わせないぞ』ってさ!

 それでこんなことまで言ったんですよ、俺のばあちゃんの事まで持ち出して『お前の母親も二号さんから追い出されたんだろう?お前もいつかそうなって、その時になって初めてここから出て行けるんだよ』って……あいつはそう言って笑ったんだ!

 俺のばあちゃんは自分から出てきたんだ!よくは知らないけど、その為に大変な苦労をして子供を育ててさ、ずっと働き詰めでやせ細って!

 でもあいつらみたいに誇りや美しさが全くないような、そんな人間と違うんだ!いつだってしゃんとして、皺だらけになっても、手が荒れ放題でも、絶対にいい人間だったんだから」

 こう言ってミキオは泣いた。


 「それで、お前はどうしたんだ?まだそこで何かを見たり聞いたりしたのか?」

 佐倉は静かに訊ねた。


 「ええ、最後にあいつは身の程をわきまえろとか怒鳴って、サクランボの賢いところや可愛いところは絶対におばさんのものじゃなくって、自分とこの家系からきたちゃんとしたものだって言ったんですよ。自分の親だけじゃなくて、爺さんや婆さんのそのまた親戚まで持ち出してさ、全く笑っちゃいますよ!

 それでね、サクランボがあんなふうな……カーッとして怒ったりお行儀が悪かったり、そんなところだけおばさんに似てしまって、意地悪ババアが悲しんでるって。『母さんは心を痛めてる』なあんて言うんですよ。サクランボの中にはあいつらのものは何にもないんだ!青い国の子なんだから!おばさんは、いくらその国がくだらない、冷たいものだって分かってても、サクランボの世界を否定したりしなかったよ。だからとりあえず時期を見たんだ、きっとね!」


 ミキオは息もつかずに話し切った。

 佐倉はこれを聞いて、公園でさくらが言っていた言葉を思い出した。


 「さくらくんは、きっとそういうことを言われ続けて来たんだろうな。お母さんのことを酷く言われたり、逆に何か彼女の美点を語る時、それがそいつらの……最低の、みっともない、気持ちの悪い、そういう流れをくんでるって!ふざけたことを!さくらくんは確かに青い国の子なんだよ。だってあの子は魔法みたいな力で私に幸せをくれたんだ。『本当です』って言って、私の腕をとったんだ」


 佐倉は涙を流していた。

 ミキオはそれを見て、とうとう佐倉にこう言った。


 「俺はさっき、あなたに八つ当たりをしたんです。本当はあんな風にあなたのことを思ったりしてないんです。今までだって、最初に会った時からそんなこと知ってました。ただ言ってしまったんですよ。自分の事をああだこうだ言われても平気だって言ったくせに、本当はそんな図太い、強い人間じゃなくって、ちょっとしたことを自分と繋げて考えるような情けない男かもしれないんです。おばさんを思って言ってるのは本当だけど、実際それが自分に繋がっているように思えてるだけなんですかね?ここんところは俺がこれからも考えていくことなんですよ」


 「そうか、でもいいんだ。私もそれは同じなんだから。いつもお前に酷く言って後悔するんだよ。それで?今日私が知りたい事はそれだけなのか?私にだって分からないんだよ。おかしな話だが、まだ釈然としないよ」


 「ええまあ、そんな感じですかねえ。俺はそのまま馬鹿みたいにずっと玄関にいたんですよ。あいつはドアをバタンと閉めて奥の部屋に入って行って、おばさんは泣きながら二階へ行こうとして俺を見つけたんです。真っ青でしたよ、きっと血が凍ったんだと思いますよ。ずっと俺を見つめて、じきに震え出して、泣いたんです。

 でもそっと口に手を当てて、俺に近くの公園に行って待っていて、って言ったんです。おばさんはしばらくしてから寝ているサクランボを抱っこして公園に来ましたよ。それで『全部聞いてしまったの?』って言って俺に謝ってきたんです。

 俺も泣きながら謝りましたよ!だって、何もしてやれなかったんですよ!

 おばさんは大丈夫だから心配しないでって言って、真剣な顔でこう言いました。『姉さんや母さんには知られたくない、私にだって恥ずかしいことがある』って。俺を信じるから、決して人に言わないって約束させられたんです。

 それに俺はもう六年生だったから、何となく分かるでしょうねって言って、泣いてました。おばさんは『私の事を恥ずかしく思うか』って俺にきいたんですよ。そんなこと!はっきり言いましたよ。ずっと大好きだって!そんなことが変わるはずがないって!それで今すぐ一緒に俺の家に行こうって言ったんですよ。でもおばさんは今日はサクランボを連れてどこかに行って泊まるから心配するなって言いました。小さな荷物を持ってたからきっとホテルかなんかに行ったんでしょうね。その時は、まだ俺には分かっていなかったけど、多分……意地悪ばあさんが戻るまで『危険』を避ける為に逃げたんですよ。それだって一時しのぎにすぎないけど、ばあさんがいる時の方が危険は少なかったんでしょうね」


 「そうか。ミキオはそれからもおばさんとちょくちょく会って話したりしてたんだね?」


 「そうです。結局絵の具セットは忘れてしまって、あの家に置き去りにしたんです。なんかもう買ったときの魅力はなくなっちゃって実はどうでもよくなったんですよ」


 「まあそうだろうね、ミキオならあっさりそれを捨てたくなったか?」


 「まあね。でも一週間位してからおばさんがサクランボと一緒に来たんですよ、それを持ってね。おばさんは、これを使って『蝉の絵』を描いて自分に送って欲しいって言い出して……俺はちゃんとそれを送りました。白と黒で描いたやつなんです。

 おばさんはすごく気に入ってくれてサクランボの部屋に額に入れて飾ったって言ってました。もしかしたら今もあるんじゃないかな?それで、その時俺と二人きりで出掛けて『もうすっかり大丈夫になった、仕事を見つけた』って言ったんです。

 俺は『でもあいつが……』ってうっかり言っちゃって、おばさんはたまらない顔をしてたけど、こう言いましたよ。『もう全部、きっと分かっているのよね、でも私はさくらに朝から晩まで引っ付いて、さくらがいない時は外をうろつくから平気』って。

 佐倉さん、それはきっと真実で、おばさんはそれをきっとやり遂げるって俺は思いました。佐倉さんは俺があの時そう思ったのは、そう思い込むことで、ただ自分が安心したかっただけだって思いますか?」


 ミキオは真剣にこう訊ねた。


 「いいや、きっと彼女ならそうしたんだよ。私は……その人を良く知らないが、きっとそうだと思う。間違いなくそれを成功させたんだ!大丈夫だよ」

 佐倉はまるで自分に言い聞かせるかのようにこう言った。


 「そうなら……本当にそうならどんなにか俺は救われたか知りません。こんな馬鹿は確かにどこにもいませんよ。だから俺も佐倉さんに馬鹿にされると、たしかにぐっときてぞっとしますよ!」こう言ってミキオは少しだけ微笑んだ。


 「それで、彼女は仕事を見つけたんだって?」佐倉はイライラしながら訊ねた。


 「ええ、でもあいつらに邪魔されて……なんか職場に電話をされたみたいですよ。意地悪ばあさんか誰かわからないけど、とにかくおばさんが外に出れないようにしてたんですよ」


 ミキオはこう言ってから、何かを馬鹿にするように意地悪くにやついて煙草をふかしていた。

 しかし、佐倉がいつまでも自分を見つめているのに気が付くと、面倒くさそうにこう言った。


 「佐倉さん、これが俺の秘密の全てですよ。どうです?気持ちが悪くなりましたか?それとも何かあなたの秘密を思い出してせつなくなりましたか?

 俺はあなたがおばさんのことをまるで自分の身内のように思いやってくれるのを聞いて正直感動しましたよ。

 もしかしたら……厚かましい俺の言う事ですから軽く聞き流して下さいよ。

 もしかして佐倉さんの恋人とか、お母さんとか、そういう人の中で、これと同じような酷い目に会った人を知ってるんですか?そうなら、」


 ここまで言って、ミキオは話の腰を折られた。


 「当たり!お前は相変わらず嫌な事を言うね、まさにそうなんだ。私の大切な人が苦しい結婚生活を送っていたのを知ってしまったんだよ、そりゃきつい話でさ!私はそれを思い出して、」


 佐倉も言いかけてミキオに止められた。


 「別にいいですよ。そんなわざとらしい、言い訳みたいじゃないですか。平気ですよ、嘘でも何でも。とにかく俺はここにこれを置いてきますよ。それを佐倉さんがどう思おうと構いませんし俺はあなたを信じますよ。サクランボを思って聞いてくれたってことは真実でしょう?」


 ミキオはこれだけはふざけたりせず真面目な顔でこう訊ねた。


 「ああ。このことでそいつらをやっつけて、立ち上がれない程に苦しめてやるんだよ。さくらくんの心を傷つけた卑劣な男は決してそのままにしちゃならないんだ。どうするんだお前は?これを弁護士に上手く話せばきっと面白い事になるぞ」


 佐倉はまた、ぞっとする表情で何かを考えている様子だった。

 ミキオはその顔が見たくなかったので話を現実に引き戻した。


 「佐倉さん、でもこの事でおばさんの方が……つまり、()()()()()()()()っていうんですか?気味が悪い!

 そんなこんなでおばさんが責められたりしませんか?もしそうなったら最悪ですよね」

 ミキオは不安そうに、苦しそうに訊ねた。


 「ふん、お前も馬鹿だな。そんなことを公表する馬鹿がいるわけないだろうが!そいつは自分の母親にもそのことを言ってないはずだよ。

 そんなみじめな、みっともないことをさ!実に爽快じゃないか、拒絶されて軽蔑された馬鹿な男の苦しむ姿が目に浮かぶよ!だから話し合いで持っていくんだよ、どんな事をしたっていいさ。お前の他にだって彼女の……おばさんの知り合いや友達の中には、おばさんが殴られたりいじめられてることを知っていたり、気付いていた人が絶対にいるはずなんだ!それを首を揃えて出さなくたって脅すだけでいいんだよ。だから土曜日に、お前はおばさんと行くんだ」


 佐倉はその表情を崩さずにこう言った。

 ミキオはその顔にぞっとして、ただ頷いた。


 「でも、サクランボがいるとこでこんな話はしたくないんですよ。だってそうでしょう?おばさんだって困りますよきっと」

 ミキオはふと気が付いてこう言った。


 「だから、さくらくんはその日行かせないんだよ、そんなこと当たり前じゃないか!あの子が行くのは別の日に、彼女が行かない日に設定するんだ。だから明日お前がさくらくんが行かないように上手く説得しておくんだよ」

 佐倉はイライラしながらミキオに言った。


 「嫌ですよ俺は。サクランボになんて言えっていうんです?君のかわりに俺がおばさんを連れてくよ、なんて!変でしょうが」 


 「お前が言えないんなら私が言うよ。全く、そんなことでああだこうだと、うるさいなお前は。とにかくそいつを恥にまみれさせて、苦しめて、徹底的につぶすんだ!ちゃんと考えるんだ、じっくりと。だから他に何かそいつのことで面白い情報はないのか?死んでしまいそうになるくらいみっともない何かは?」

 佐倉はずっとじりじりとイラついた様子で言い続けた。


 ミキオは、佐倉が冷たく顔を引きつらせて阿部の弱点を探ろうとしたり、あの家にいるさくらの祖母や『関係のない女』のことを酷く罵りながら『徹底的にやる』のはその女達に対しても同じだと言い、近所を歩けなくしてやるとか、全て取り上げてやるなどど、恐ろしい表情でつぶやく姿を黙って見つめていたが、さっきからゆっくりと湧き上がってきた漠然とした疑問がふと頭をよぎった。

―――なぜ佐倉はここまでに昂っているのだろう?

 さくらを大切に思ったり、可愛いと思うだけで、普通ここまで鬼の形相になるだろうか?まるでミキオがいることを忘れてしまったかのようにひとり言を言い続け、急に足を踏み鳴らしたり、ソファーに八つ当たりをする姿は、実際佐倉ではなくなっていた。


 ミキオはさっきまでは、佐倉がさくらを見て何かを思い出して感情を乱されたり、璃久に優しい同情を寄せ一緒になって怒っているのは、親しい身内や愛する人が、これと同様の厳しい環境に身を置いていたり、またはその姿が重なってしまうために……そのために佐倉の中で、それらがごっちゃになって激しい怒りを生んでいるのだと思っていた。

 しかし、ミキオは佐倉のぞっとさせる表情を横目でちらっと見ながら、この復讐鬼は単なる助っ人や代理人ではなく、真からの鬼だということを感じ取った。

 佐倉は確かに()()()()()それをするつもりでいるようだった。


 佐倉はもともと感情的で激しいところがあった。

 それは、長く一緒にやってきたミキオにも充分に分かっていた。

 しかし、踏みにじられた獣が叫ぶように、荒れた佐倉の姿はミキオにとっても初めての恐怖だった。

 さっきから口を挟む事も出来ず、まるであの時、玄関にいた時のように、ミキオはしばらくの間じっと動けずにいた。



 ここまでお読みくださりありがとうございます。

 次回はまた週半ば、木曜日を基本に投稿いたします。

 続きは『目撃者ミキオ(三、モノクロの楽譜)』となります。少しでも続きが気になりましたらブックマークいただけたら嬉しいです。

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