佐倉さんの世界(一、危険)
初出勤の璃久はさくらと同じように早めに仕事に出掛けていった。
出社したさくらは朝からずっと気もそぞろで、咲子や後藤はそんなさくらの様子にすぐに気が付き、時々さくらのそばにやって来ては『今日も変装してこっそり見るのか?』などと言ってからかったりしながら、軽い冗談を言ってさくらがなるべく気を抜けるようにしてやった。
彼らの気遣いに気が付いたさくらはすぐに気を取り直し、佐倉が“手つかずになって困っている”と言っていた事務処理を早く済ますことに集中して頑張った。
この仕事への姿勢は、佐倉だけでなく社員全員のさくらへの信頼を生んでいった。
実際さくらの作業は素早く、とにかくいつも真剣にやっていたのでほとんどミスもなく順調に進んで行った。
後藤は『俺たちの数倍くらいのスピードでやってくれてるよ』と言い、佐倉もその通りだと言ってそれを高く買った。
さくらは阿部のうちにいた時より仕事が楽しくてならなかった。
もちろん気に入った会社の好きな仕事だからということもあるが、璃久との生活をささえるこの仕事を心底大切に思っていたので、いいかげんに適当にすまそうなどどは全く思わなかったし、たとえどんな作業であっても必死で取り組んでいた。
そのうちに、全くもって奇妙で不思議な事件が起こり、さくらも、また他のみんなもそれどころではなくなるのだが、今はとにかく懸命に仕事に打ち込んでいた。
昼になると咲子もさくらも今日は何か買って来てここで食べよう、ということになり丸いテーブルの上でおしゃべりをしながら昼食をとった。
さくらはどんな時もだいたいは楽しい性格であったし、それはここのみんなも同じだった。
さくらは本当にここで居心地が良かったし、また、さくらが来た事で他のみんなの居心地が悪くなる事は全くなかった。
互いに無理せずとも笑ったり励まし合ったりと、そういったことを重ねていくうちに、きっと男女の区別や年齢なども、そんなことはどうでもよくなって、きっと親友や身内のような温かい間柄になれることが保証されたかのようだった。
佐倉は普段は自分の部屋にこもって仕事をしていることが多かったのだが、今日は朝からずっとさくらの様子を見守りつつ細かく指示を出したり、また、さくらが根を詰めてやりすぎることを注意したりしながら、ほとんどを大部屋で過ごしていた。
三時過ぎになると、それぞれが勝手にコーヒーを入れて丸テーブルに集まり、しばらく仕事と関係のないおしゃべりをして寛ぐのがここの日課になっているようだった。
このゆったりとした休憩タイムは佐倉が容認している事だった。
それはここの社員が誰一人として、仕事を怠けようとしたり、うまくやろうとしてごまかすような性質を持っていない事を佐倉がよくわかっているからであったし、また、佐倉がこうして寛ぐひと時を大事に思っているからに違いなかった。
佐倉が『独身で気ままにくらす金持ち』であることを知ったさくらはコーヒーを飲みながらこんなことを言った。
「私は絶対に、女の子のお父さんだって思ってたのに」
「そりゃまたどうして?」と後藤。
「きっと佐倉さんに苛められて、その後ちょっと優しくされたもんだから、今はそのギャップのせいでそんなことを感じてるんじゃないの?」トロさんの見解はこうだ。
佐倉は『自分は父親向きじゃないよ』などと言って微笑んでいたが、ミキオが『本当にその通りですよね』と言ったのを受けて皮肉な口調でこう言った。
「全くね!私はミキオなんかよりもっと家庭向きじゃないんだよ。でもお前も人の事は笑えんぞ、女の一人もいないくせにさ」
すると咲子が「佐倉さん本当の事教えて。佐倉さんの彼女って美人?」と、こう訊ねた。
「私の彼女だって?何を言ってるんだ?そんな厚かましい女は一人としていないよ」
佐倉はふんと言ってぷいっと横を向いたが、咲子はニヤつきながら続けた。
「私知ってるわよ。好きな人がいるはずでしょ?だってさ……」
さくらはぎょっとして、すぐに咲子を軽く睨みつけた。
それを見て佐倉が「そうか、このおしゃべり娘め!全く」と言って同じようにさくらを睨みつけてきたので、ミキオは慌てて「何の話なんだ?」と言ってごまかそうとした。
しかし、佐倉はいつものようにミキオをせせら笑った。
「私に恋人なんてもんがいるわけないだろう?そんな面倒くさいやぼったいもの。適当に遊んでる方がよっぽどいいね。だいたい時間の無駄じゃないか、馬鹿な女どもにしつこくつきまとわれたり、楽しくもないのにどっかに連れてけだの、飲みに行こうだのされたらたまんないよ。私はこれからも……今までだって女などに興味はないんだよ。だから気の毒な厚かましい女は一人としていないんだ」と、こう言った。
これを聞いて、さくらは璃久のように、全く璃久のように、ついちくりと言ってしまった。
「ふうん、じゃあ佐倉さんが厚かましくなることはなかったんですね。でももし、誰も厚かましくやらなかったら恋愛なんてなくなっちゃうわ、そうなると困っちゃうでしょう?なら私は厚かましくやぼったく、気の毒にやって行こうかしら、きっと」
さくらの発言は、佐倉だけでなく咲子すらも黙らせてしまった。
しかし、さくらは何もなかったかのように、そのまま堂々とこう続けてしまった。
「時間の無駄なんてことは……確かにあるかもしれないけど、その無駄な時間をつぶして他にやって楽しい事があれば素敵だけど、それは例えば何なのかしら?仕事、とか勉強とか趣味とか、そうゆうものですか?私はどうも実感がわかないんです。こうなるとどちらの経験も少ないってことがばれちゃうんですけど」
さくらが真面目にこれを言ったのは誰の目にもあきらかだった。
さくらは自分が言ってはいけないことを言ったなどどは思ってもいなかったし、実際佐倉の発言の方がよっぽど無礼であった。
しかし、いつもの佐倉を知っている一同は凍り付いたようになり、何かを口にすることができなかった。
本当におかしなことに、さくらはなぜかこの時それに全く気付かず、そのまま佐倉の顔をにっこりと見つめてしまった。
佐倉はこれにぎょっとして驚き、ごくんと唾を飲み込んだ後に慌ててこう言うはめになった。
「君が厚かましくやるなんてのは全く信じられないし、まあないだろうよ。だいたい自分でも言ってる通り、君はいろいろな……経験そのものが少ないだろうしね」
「いいえ、私きっとそう出来ると思います。だってよくよく考えたら恋愛だけじゃないですよね?そんなことを言ったら、ここを受けたのだって『厚かましい』でしょう?思いっきりやらないと幸せもないんだわ。もともと幸せな人なら厚かましくやる必要なんてないけれど、私はその点で頑張らないといけないんですよ、きっと」
さくらははっきりとこう言ってそのままコーヒーを飲んだ。
さくらには佐倉をやり込めたつもりは全くなかったのだが、佐倉は実際そう感じた。
そして、こんなことを言った。
「じゃあ『幸せでない人』の場合の話だがね、どうすればいいの?主義として厚かましい、なんてことをしたくない人間の場合は。例えばさ、そうしたくてもその資格みたいなのがなくって、諦めるしかない場合だってあるかもしれないじゃないか。その場合、幸せになるためにどんなふうに頑張ったらいいの?」
「資格、ですか?厚かましくする資格だなんて、すごくおかしな話だけど、主義として出来ないなら……」
さくらはかなり長い間じっと考え込んだ。
そしてやっとこう言った。
「私わからないんですけど、例えば仕事だったらどうでしょう……自分自身や能力をはっきりと確立させたとして、それをこちらから積極的に営業をかけていくのではなくて、外側からその能力に気づいて認めてもらえるように、評価される場や機会を利用するというのは?例えばオーディションじゃなくってスカウトとかみたいに。歌手とかアーチストとかならそんな場合もあるでしょう?でも、やっぱりちょっと違いますか?やっぱりわかりません」
さくらは真剣に考えながら、逆に佐倉に質問をするように答えた。
「ふうん、なかなか良く出来たじゃないか。じゃあ君が厚かましく頑張るって言ったもう一つのほうはどうなの?つまり……恋愛とかそういうことはさ。どうしたらいいか教えて欲しいね」
佐倉は馬鹿にしたように笑っていたが、それでもその顔つきは真剣だった。
咲子やミキオ、また他の二人も、佐倉が今見せたような時々出てしまう『表情』に気がついて慌てた。みんな『さくらがやられる!』と思った。
しかし、さくらは平然と「主義として厚かましく出来ない相手を好きになった場合ってことですか?それなら簡単じゃないですか、こっちからやっていけばいいんでしょう?」と言い、
そして確認するように「それともやっぱり……逆の場合を言っているんですか?」と訊いた。
「もちろんそれを聞きたいんだよ。いくら好きでもその人のところに厚かましく近づいたり、思いを伝えたり出来ない場合だよ!さあどうするの?教えてくれよ」
佐倉は嘲笑うような表情でこれを言った。
しかし、さくらはまだ佐倉を不快に思わなかった。そして真剣に答えた。
「佐倉さんはその人が、諦めて我慢すべきだなんて思うんですか?きっと、家とか義務とか、そんな下らないものに縛られて、がんじがらめになって動けないでいるような人に『さあ君は恋愛なんてやってちゃいけないんだよ、自分の義務だけに没頭したまえ!』なあんてことを言うんですか?そんなら、もしそんななら、たまらなくて生きていけないわ!誰だって思いっきりやっていいいはずでしょう?一度くらい、たった一度くらいそうやったって誰も責めたり出来ないはずでしょう?」
さくらは璃久を思い、ついこんな風に言ってしまった。
佐倉にも他の誰にもそれが伝わった。さくらはすぐにこう続けた。
「私に佐倉さんが言う『資格』がなかったとしたらだけど、それでももしかしたら、どうしても誰かを好きになってしまったら……ずるいと言われようが構わないわ!相手の方からスカウトみたいにやってくるよう仕向けるわ!ふらふらその辺を着飾って歩いたらどうでしょう?それとも友達に頼んでさりげなく紹介してもらうとか?これだって、そうしたからってそれほど悪いことではないでしょう?きっと、途中で自分がイヤになるだろうけど……でも、相手が自分を好きになるかもしれないでしょう?そしたら多分幸せになれるんだわ、違いますか?」
佐倉はもう笑っていなかった。
そして穏やかな顔で、ただこう言った。
「そうか、君は資格の無い人間にも優しくなれるんだね。でもそれは君が幸せで、そういう人間に出会ったことが無いからなんだ。きっとそういう相手に出会ったら、君は決して自分から寄ってったりしないだろうよ。それにきっと、自分の大切な人もそういう相手に寄せつけたくないと思うんだよ」
「いいえ、私は資格が無いなんて言われそうな人間を知っています。けれど本当は、その人は誰よりもその資格を持っているんです!私はそのことも知っているんです。だから今佐倉さんが言ったようなことは私に限っては全くありません。いつだってどこまでも近づいていくつもりなんです」
さくらはこう言って璃久を思い、佐倉はただ黙ってさくらを見つめ、その優しい気持ちを愛しく思うだけだった。
咲子はこの後そっと作業室に戻り、ミキオやトロさん達を合図して呼びつけた。
そして、いつになく不安げな表情で彼らにこう言った。
「私はやっぱり、さくらにはいろいろな事を……佐倉さんのああいうこととか、全てあらかじめ言っておいた方がいいと思う。さっきの様子は正直言ってかなりやばかったじゃない。だからその方が、佐倉さんにとっても、あの子にとってもいいんだよ。危険があるってわかってるのに放っておいたら、きっと二人共傷ついてしまうかもしれないし……佐倉さんがあんなことを言ったのはきっと、自分のことを思ったからじゃない?さくらは何にも知らないから仕方ないし、あの子はあの子できっとお母さんの事ばかり考えてあんな風に言ったんだと思う。きちんと言っておいたほうがいい」
咲子がこの時こう言った事は実に正しかった。
しかし、誰も急いでそれをしなかったため、この先咲子の予想通りに二人は傷つくしかなくなった。
後藤とミキオは「わかってる。でももう少し様子を見よう」と言い、
そして、トロさんはこんな事を言った。
――「僕は必ずしも焦る必要は無いと思うんだよ。あの子はすごくいい子なんだしね」
◇◇◇◇◇
さくらは六時半を過ぎて大部屋で佐倉と二人だけになった時に、佐倉にしか聞こえないほどの小さな声で『佐倉さん』と、そうっと呼びかけた。
「佐倉さん、私さっき話した事を色々考えてみたんです。でもサボってた訳じゃないですよ」
さくらはにこっとしてこう言った。
佐倉も同じようににっこりと笑う。
「わかってるよ、君はちゃんとやってたよ。それで、どう考えたって?」
「私、お母さんに……母に聞いてみようかと思って。もしかしたら母は、さっき佐倉さんが言ったみたいに誰か好きな人がいたんじゃないかって、そんなことを思ったんです。それにあの日、母は言ったんです。『もう仕方のない事かもしれないけどちゃんと話してけじめをつけなくちゃ』って。だから私のほうからはっきり聞いてみた方が話しやすいんじゃないかって思ったんです。どう思いますか?急にそんなことを聞いたら母は傷ついたり腹を立てたりするでしょうか?」
佐倉は、自分を信じきった様子でさくらがこんな話をしてきたので、どきんとして驚いてしまった。
しかし、同時になんとも温かい心地良さを感じてしまって、さくらがびっくりするほど優しい、父親のような表情でこんなふうに答えた。
「そうだね、でももう少し待ってあげたらどう?お母さんは少し時間がほしいんじゃないのかな?やっぱり焦ったらいけないと私は思うよ。君はじりじりするかもしれないが、その間に今までお母さんが言った言葉とか、お母さんの様子とか、全て一つ一つ思い出してごらん。それをパズルみたいに繋げていくんだ……そうしているうちに、きっと以前にはわからなかったことがはっきりしてくるかもしれないよ。それからでも多分、遅くないと思う。まず君がゆっくり考えてからにしたほうがいいんだよ。
それに……また誤解されたくないから言っておくよ。きっと君のお母さんなら、どんな立派な『資格』だってあるはずなんだ。
さっきあんな風に言ったのはね、私自身の事を思って言っただけなんだ。
君の言葉を借りれば、もし私がそうしても、きっと誰も責めたりしないんじゃないかと思うけど、私にはそれが出来なかったから。だから君が言ってくれた事は、嬉しかったよ」
さくらはこの声を聞いていると、どうしてもドキドキしてぐっと惹き込まれそうになってしまう。
そして、その憧れと信頼が溢れてくるようなこの気持ちをもう隠せなかった。
「佐倉さん、こんな話をするなんて……入ったばかりの会社の社長に向かっての態度じゃないってわかっているんです、だからそれが悪いとわかっているんです。佐倉さんはきっと私のために、この間みたいに『気にしてないよ』って言うんでしょうけれど、私が恥知らずだって知ってます。私、もう一度だけ聞いてもらったらもう二度とこんなことは言いませんから。母に聞いてみたあとで、また話を聞いてもらえますか?そしたら私、もうすっかりちゃんとしますから」
佐倉はこんなふうに激しい信頼を向けられてすっかり動揺してしまった。
だからといって、さくらの気持ちを迷惑に思う事などなかったし、むしろ何とか自分に繋ぎ止めておきたくなり、その魅力的な声を存分に使いこう言ったのだ。
「まさか!君を恥知らずだなんて思わないよ。それを言うならここにいる連中はどうなるんだ?私も含めて大変な馬鹿連中になってしまうよ。
あの日、私達は秘密を打ち明け合ったんだから、いつでも、どんなことでも話し合えたら素敵じゃないか?
節度ってものを気にしてるのかい?私はいかに企業にとって節度のある人間を取るかってやってきたが、もうそんなものはどうでもよくなったよ。君の偏屈じいさんじゃないが、そんなものは『本物』の魅力の前では全く石ころ同然なんだ!だから時には節度なんてものを取り払って、互いにダイヤの原石になって話し合いたいよ。君は実に楽しい光を放ってるんだから」
さくらはまた泣き出しそうになったが、佐倉は慌ててそれを止めた。
「いいか、まだ咲子くん達が残ってるんだ。万年筆を隠すような奴だよ?しっかりしてしゃんとするんだよ。近いうちにまたランチに逃げ出していこう。その時にお互いにまた話し合うんだ」
佐倉のこの言葉にさくらはほっとしたようだった。
すぐに椅子に腰掛けて、そのまま二人で穏やかに笑い合った。
しばらくすると、長い時間閉まっていた奥の扉がさっと開いた。
帰り支度を終えた『万年筆を隠す連中』がぞろぞろと出てきたが、二人の『さくら』が和やかに丸テーブルを囲っている光景に、その四人は同時にぎょっとして、咲子は特に転びそうになった。
そして、彼らは不思議そうにこう囁き合った。
『なぜだかわからないけど、あの二人はきっと波長が合うんだわ』
ここまでお読みくださりありがとうございます。
次回はちょっときつい部分もありますが、ここらあたりから先の展開がわかるようになるかと思いますので、少しでも気になる方はぜひお読みくださいね。




