名前の呼べないいとこ(十一、おばさん)
さくらは後藤から『土曜日は午後四時位には会社に来て、ちょっとみんなの作業を見てみたら』と言われていたので、ちょうどその時間になるように会社へ出掛けた。
ドアが開いていたので中に入ると大部屋には誰もおらず、声を掛けても返事が無いので、さくらはきっと作業室にいるのだと思ってノックして中に入った。
最初に後藤が「よう、さくら」と言って声を掛けてきた。
他のみんなも集まっていたが作業らしい作業はしておらず、コーヒーを飲みながら寛いでいる様子だった。
ミキオは両肘をテーブルについて何かぼんやりと考え込んでいて、さくらを見ても口元をちょっとあげて笑っただけで話しかけてもこなかった。
トロさんと咲子は自分が作った作品を棚から持ち出してきて、さくらに見せてくれた。
「これは人気アニメの主人公がいつも付けている形見のペンダントをイメージして作ったものよ。このキャラクター知ってるわよね?ここのチームはこういうのを作ったのが始まりなんだよ。聞いたでしょ?こういうコラボ、これがまたどんどん増えてんの。他には映画のキャラクターや小説なんかもね。キャラクターコラボっていってもうちのは結構本格的なジュエリーだから、継続して購入してくれる人が多いんだ。ブライダルとの連携もあってかなり売上が伸びてるんだよ。もちろん今も本社と連携してあっちからくる仕事もやってるけど、うちではコラボのジュエリーや小物の販促やネット販売も全てやってるから結構な仕事量なんだよね。だからあんたにも色々やってもらうから覚悟して」
仕事が多ければ多いほど助かる――さくらはそう思った。
佐倉が言っていた本社での研修が始まる前に、色々なことを経験できるのはありがたいことだ。全く畑違いの世界からやって来たさくらにとって、小さな経験を積み重ねてちょっとずつでも自信を付けていきたいところだ。
咲子はさくらのために丁寧に説明を続けた。
「でも今日みたいに土曜にここで作業しているのは会社の仕事とは全く別だから。材料はもちろん個人が買うんだけど、最初は佐倉さんが購入の相談にのってくれるから安心して。作った物をうちのホームページで売るんだけど、もうけは全部私達のものになるのよ。佐倉さんは自由にやらせてくれてるの。ただ『みっともないものは売らせない』ってチェックがすごいけどね。でもそうしてくれたほうがいいじゃない?私達にとっても会社にとっても。それに言っとくけど、佐倉さんは全然もうけを取らないんだから!普通ならそんなことさせないわ。最近は本当に人気が出てきてお互いのをセットにしたりして、それを単品で買うより割引して売るんだ。面白そうでしょ?とにかく土曜だけは好きなことができるってわけよ。」
「私ホームページを見ました、募集を見てからここを受ける前に学校で見たんです。これは正真正銘本当のことだけど、私それを見てここに入りたくなったんです。あと、他の商品とかを取引しているお店にも行ったんです、買うふりしてこっそりと。すごく、素敵でした。お店にはたくさんありすぎて見つけ出すのが大変だったけど、奥の方にシリーズみたいになって、まとめておいてあったからわかったんです。私それを手に取ってはめてみました。首にかけたりもしたんです。それで思わず買いそうになったんだけど、ここを落ちた時、それを見るたびに思い出すことになるでしょう?それで思いとどまったんですよ、まあお金も無かったけど」
さくらはあちこち歩きまわったその時のことを思い出してくすりと笑った。
一同は真面目な顔をして『ほんとに?』と訊いてきた。
「本当の事です。私が買いそうになったのは沢山あるんですけど……チューリップの花びらが三枚、指輪を囲むようになってる指輪と、長めのペンダントでひねった部分の片側に葉っぱがついてるゴールドのもの。あと、そこのお店にはなかったんだけど、三鷹のお店でやっと見つけた手のひらに乗るくらいの銀の箱!これもホームページの最初のところの写真で目をつけて本物が見たくて探したんですよ。最後のところに取引業者が載ってたでしょう?近いところで何件か回って……銀の箱も本当に綺麗だったから、私、母に買ってあげようと思ったんです。でもやっぱり思いとどまったんですよ。あとね、太いシルバーので横に斜めのラインが入っていてオパールが乗ってるのも気に入りました。横に細めの指輪をもう一本はめたらどんなかな、って思ったりして」
さくらが話すのを聞いているうちに、後藤も、咲子も、トロさんも、顔を赤く染めて顔を見合わせた。
そして後藤が赤くなった顔を押さえながらこう言った。
「なんか聞いてたら恥ずかしくなってきたよ。あのね、銀の箱は俺とトロさんの合作なんだよ。俺がデザインしてトロさんが仕上げたんだ。何度もやり直してかなり時間かけたやつなんだ。佐倉さんも珍しくほめてくれたよ。ホームページで売らないで買い取るって言ってくれて……」
「でも、あれはもう売れてしまったんです。私もう一度だけ見に行きました、ちょうど一次面接の次の日に。その時に見てやっぱり欲しくなったら母に買ってあげたいと思ったんです。でもお店の人にちょうど昨日売れてしまったって言われて……その時は私、すごくいやな予感がして、こことは縁がなかったのかしら、なんて思ったんですよ」
「そうだったのか。なんか、恥ずかしいけど嬉しいな。あれが売れたのは知ってたよ。いったい誰が買ったんだ?そんなに言うなら君にやったってよかったよ!」
後藤はこう言って嬉しそうにトロさんと顔を見合わせた。
「あんたの言ったことが本当なら最高よ!オパールのは私のなのよ、あれはまあまあの出来ね。それにチューリップのとリーフのゴールドのはミキオのやつよ。この三つはまだ売れてないけど……ちょっとなんかドキドキしてきたじゃない!あんた本当にわざわざ見に行ったの?」
咲子は探るように訊いた。
「ええ、私はいつも調べるんです。なんか生意気かしら?でもやっぱり実物を見てみたいって思うんです」
さくらがこう答えたとき、ミキオが「あのさ」と口を挟んできた。
「きみ、佐倉さんにもいろいろ探して見に行ったって話したのか?」
ミキオはむっつりしてこう言ってきた。
「うん、でも何が見たかったとか、どこまで行ったかなんてことまでは言ってないけど。ただ気になるから見に行ったって言っただけよ。どうしてそんな事きくの?」
さくらはまた不安になってこうきいた。
するとミキオは『はーっ』と息をついて投げやりにこう言った。
「あの人にそんなこと言ったら、またからかわれて笑われるぞ。馬鹿にされたり、ふざけてなんだかんだ言われたりするのはあんただって嫌だろ?これからは、あんまりぺらぺらあの人に言わない方がいいよ」
ミキオは、ここにいる新入社員の……蝉取りをして遊んであげた、小さかったいとこの女の子が、皮肉な口調の佐倉にあれこれ言われて傷つく姿を見たくなかったので、ついこんな風に言ってしまった。しかしさくらのほうは、佐倉が自分にそんな嫌味を言うはずがないと、この時点で完全に信じきっていたので、はっきりいとこに言い返した。
「ミキオちゃん!そんなこと言ったりしないと思うよ。佐倉さんはミキオちゃんのパールのネックレスのことを話してくれたのよ、あのレストランで。あれを本当に美しいと思ったって言ってたわ。それにひきかえあの入賞作品のことは酷く言ってた、下品なデザインだって。だからあんなものが入賞して耐えられなかったって言ったの。だから私があのネックレスを気に入ったことがすごく嬉しかったって本気で言ってたわ。私は私で、佐倉さんがミキオちゃんのネックレスをそこまで思ってくれた事が嬉しかったの。佐倉さんはね、あれを好きな人の首に掛けてあげたいと思った、って話してたんだから!本当の事よ!」
さくらの声は本人は気づいていないが、だんだん大きくなっていった。
ミキオは驚いて何も言えないでいたが、同じように驚いていた後藤が代わりにこう訊いた。
「好きな人に、って言ったのか?あの人がか?それはちょっとびっくりだな。あの佐倉さんにしちゃ可愛いすぎないか?」
「ええ本当だもの!本気だったって私わかったんです。馬鹿にして言ったりしてなかったもの!」さくらはますますムキになって言った。
「どっかで聞いたセリフだな。佐倉さんも言ってたよ、君が本気であのパールをほめてたってさ!こうなるとミキオ、お前はひとり馬鹿みたいってお決まりの構図になってきたじゃないか!」
後藤がこう言ったことに、ミキオは言い返したり怒ったりはしなかった。
ただ黙って首を振り、そのうちに肘をついて考え込んでしまった。
しかし、さくらがこんな話をしたことで、ここにいる誰もが昨日よりもっとさくらを好きになった。
さくらはうまくやろうとしたわけでもなかったし、彼らのほうにしてもさくらの『ホームページの話や作品偵察の話』に満足を覚えたから、という訳ではなかった。
さくらが、ミキオのネックレスにまつわる多くのことを興奮しながら話したことは、さくらに対する親近感をより深めた。
彼らもまた佐倉を心から慕っていたから、さくらがこんなふうに自分達の社長をかばってくれたことが本当に嬉しかったのだ。
ミキオにしてもきっと、時間をかけてよく考えたら……さくらの話が真実であると、自分自身で元から知っていたに違いなかった。
さくらはしばらく皆のそれぞれの作業を見たり、部屋の中を歩き回ったりしてゆったりと過ごしていた。
五時を少し過ぎた頃、佐倉が部屋に入って来た。
佐倉はサングラスをかけていて上から下まで真っ黒のスタイルだった。
ラフなジャケットの中にモスグリーンのシャツを着ているその姿はなかなかいかしているな、とさくらは思った。
佐倉は何も言わずにどすんと肘掛け椅子に腰を下ろしてさくらに微笑んだ。
さくらは『この人はいくつくらいなんだろう?お母さんよりどのくらい上かしら?』などど思いながら、じっと見つめてしまった。
佐倉はその視線に気がつくと、珍しく照れたように笑って「じっと見つめられると恥ずかしいよ。何かおかしいかい?」と言った。
「いいえ、全然」こう言われるとさくらも恥ずかしくなってしまった。
咲子が「佐倉さんがスーツじゃないとかなり若く見えるわ。ね、あんたもそう思ったでしょ?」と言うと、さくらは「そうね、ほんとに」とだけ言って黙っていた。
すると佐倉がこう訊いてきた。
「ふうん、じゃあいくつだと思うの?当たったら何かあげるよ」
さくらは「ほんとに?」と言って笑ったが、サングラス姿の佐倉をじっと見つめる再チャンスを密かに喜びながらしばらく考えた。
「じゃあ四十六歳。どうですか?当たりましたか?」
年齢を当ててしまったさくらに「やばいぞ!どうするか、何をやればいいかな」佐倉が真剣に悩んでいるふりをする。
「またみんなにごちそうしてよ、今度は寿司がいいなあ」と咲子が言うと、
「なんでそうなるんだ?まあ何かプレゼントするよ。しかし、若く見えるとか言っといてぴったり当てるとは失礼じゃないか?」
佐倉がこう言って機嫌良く笑い出すと、ミキオが口を出してきた。
「四十とか言っときゃよかったんだよ」
ミキオのこれを聞いて咲子やトロさんが嬉しそうに顔を見合わせて笑ったが、佐倉はどうしてみんなが笑ったかわからなかった。
「もうみんな今日は終わりにしたんですよ、もう行きますか?」
後藤は佐倉にこう訊ねたが、佐倉は一杯コーヒーでも飲んでからにしよう、と言って席を立った。
さくらは背の高い佐倉の後ろ姿を見ながら、昨日璃久に言いそうになった、あることを思い出した。
『この人がもし、お父さんだったらどんなに素敵かしら?』さくらは、自分にも母にも冷たく厳しいだけだった父親の事を思い出した。
『お父さんが何か私にプレゼントしてくれたことがあったかしら?小さい頃のことまでは覚えていないけど……お金をくれることはあってもお父さんが私に何かを選んでくれたり、買ってきてくれた事なんて一度だってなかったわ!』
さくらはこんなことを考えながら、佐倉のような人の子供だったらどんなに幸せだったろう、家庭の幸せなどということを考えた場合、なんて不公平に出来ているんだろう……などと思って寂しい気持ちになった。
六時少し前に彼らは揃って会社を出た。
駅の裏側の個室のある綺麗な居酒屋でビールを飲みながら一同は楽しい時間を過ごした。
ミキオは昨日のようにむっつりしてはいなかったし、それは佐倉も同じだった。
二人は直接は口をきかなかったが、誰かの発言にそれぞれが答えようとする時、互いにさりげなく同意してみたり、また時には反対意見を唱えたりしているうちに、間接的に少しづつではあるが節度のある会話を取り戻していった。
さくらはこれを見て咲子が言っていた事を思い出した。
――(確かに仲が悪いわけじゃないんだわ、二人とも意地っ張りでてれやなだけなんだわ)
さくらは急におかしくなってきて思わずぷっと吹き出してしまった。
「また一人笑いをしているぞ!昨日も何か笑っていたな?いったい何を思い出したんだ?正直に言うんだ!」と佐倉。
するとミキオがふと思い出したようにこう言った。
「そういやきみ、あの時、ほら水曜日の朝も一人で笑ってたけどありゃ不気味だったよ。いったい何を笑ってたの?」
さくらはびっくりして「うわっ」と叫んだ。
見られていたとなると、あの朝の自分の姿が思い出され恥ずかしくなり顔がみるみる赤くなった。
咲子が「何のことよ?」とミキオにきいたのでミキオがこう説明した。
「だから早く来すぎてうろうろしてたって日さ。俺が立ち寄り先から戻って来た時この子の姿が見えたんだけどさ、角の家の前で笑ってんだから!俺心配になったよ」
さくらは「お願いだから忘れて欲しい」と言ったが、みんなは真相を聞かせろ、と迫ったのでさくらは仕方なく「長くなりそうで」と前置きをした上で『偏屈じいさん』の面接事件を面白おかしく話し出した。
みんなは偏屈じいさんに続いて璃久が出てきて『めがね』を取り上げたところで盛り上がった。
「私は死にたくなったわ!いじわる顔の八百屋さんが私に返してくれたサングラスをお母さんが取り上げて、これは何のマネ?って睨みつけたんだから。その後私は、じいさんの店の中に入るはめになって……こんなふうに怒られたの。『昼間っから仕事もしないで馬鹿やってるくせに』って。
佐倉さんから電話をもらって仕事が決まった日だったのに、ケチがついちゃったわ。でもまあ結局は、偏屈じいさんは会ってみるととっても良さそうな人だったからよかったんです」
さくらがこう言うと、ミキオは笑いながら、しかし少し心配そうにこう言った。
「でもそんなべらんめえ調のじいさんとこで璃久おばさんはやっていけるかな?」
「それがじいさんはね、お母さんを気に入ってくれたみたいなの。今までろくな奴しか応募して来なかった、って言ってたわ。何度も広告を出した理由はお母さんの推理と少し違ったけど、私嬉しかった!本物を雇いたかったなんて、お世辞でもいってくれたのよ。だから私はあのじいさんが好きになったわ!多分いじめたりしないと思う、まあ少しはこき使ったりするかもしれないけど」
さくらがこう言ったとき、そこにいるみんなはますますさくらを気に入った。
さくらが母親を思って心配している様子は微笑ましかった。
いくら『母』と言おうとしても、すぐについつい『お母さん』と言ってしまう様子が彼らにはすごく愛らしく見えて、この母子を身内のように感じた。
トロさんが「母子そろって同じ日に仕事が決まるなんてすごいね。なんかのめぐりあわせじゃあるまいし」と不思議そうに言った。
さくらは「私も不思議に思ってたの」と言って嬉しそうにしていたが、ミキオはまだ心配そうにきいてきた。
「璃久おばさんは……だいぶ働いたりしてないんだろ?そんな強烈爺さんのとこで本当に大丈夫だと思うのか?いくら気に入られたって言っても多分きつい仕事じゃないの?もっと他にあるだろうに、おばさんなら」ミキオは真剣にこれを言った。
さくらはミキオの心配を有り難く思ったが『実は自分も初めはそう思っていた』としながらも、あの日の璃久の嬉しそうな姿や偏屈じいさんの言葉を思い出しきっぱりとこう言った。
「何よりお母さんがそうしたいと言ってたしね、私もここなら大丈夫だと感じたのよ、だからなんとかなるよ」
さくらは自分の下らない話をしすぎたみたい、ごめんなさい、と笑ったがみんなはこんな風に励ました。
「俺もそのじいさん悪くないと思うよ、多分ね。いやだったらすぐにやめればいいんだよ、いくらでもあるさ仕事なんて」後藤はさくらににっこりしながらこう言った。
咲子もそう思うと言って、ミキオに「あんたは余計な事を言うんじゃないよ」と軽く怒ったりした。
佐倉はずっと黙って聞いていたが、心配そうに顔をしかめながらさくらにこう聞いた。
「仕事をしていないって、いつからしていなかったの?もうかなり長い間?」
「はい、母は結婚してからずっと家にいたんです。本当は何度も……働きたがっていたけど、なかなかそう出来なくて」
さくらはうっかりこう言ってしまったが、すぐに笑いながら「まあ最初の仕事が強烈だとあとはラクよね!」などと言って、なんとかうまく取り繕った。
しかしさくらが化粧室に立つと、すぐに咲子がこう言いだした。
「ミキオさ、私気になってたんだけど……あの子、家で何かゴタゴタがあるんじゃないの?ずっと働いてなかったお母さんが急に働きに出るなんて、もしかしたらその……」
後藤はうなずいて聞いていたが、トロさんもずっと気になっていた様子だった。
「ああ、僕も気になってたんだ。彼女、最初にミキオに言ったじゃないか。なんか、お前のおふくろさんから何か聞いてないのか、みたいな事をさ。それだったもんでちょっと気になってたんだよ」
トロさんが心配そうにこう言ったのを佐倉はうなずきながら聞いていた。
佐倉は、彼らがこういったデリケートな問題を気遣う姿を見て、それを少し嬉しく感じていた。
自分が選んで会社に入れた彼らに、佐倉は心からの愛情を抱いていたからなおさらだった。
ミキオは何か考えていたようだったが、何と言っていいか自分でもわからない、という様子で『うーん』とうなっていた。
しばらくしてからミキオは、額に手をあてて体を後ろに反らしながら面倒くさそうにこう言った。
「やっぱりあんまりきかない方がいいよ。おばさんの事は正直心配だけど……俺は昔からあの子の家の事を、まあ知ってるから。でもほっといたほうがいいことかもしれないし」
これをきくと佐倉が間髪入れずすぐにこう言った。
「冷たいな、お前は。きっと放っといても何にもなんないぞ。あの子のほうから話してくるのを待つ、なんてのは実際優しいようで冷たい事なんだ。誰かに相談したかったり、誰かの方から自分にきいてきてもらいたかったり……今あの子の気持ちがそんなふうだったら可哀相じゃないか。時期を見てお前の方からきいてやった方がいいぞ。まあいずれお前のお母さんから聞くだろうが、同じ会社で朝から晩まで働くんだったら少し気遣ってやれよ。みんなだって聞いてやったとして、ここのみんなはそれを気遣ってやれるだろうから」
佐倉の言ったことに、ミキオは何も言い返さなかった。
この言葉に反発の気持ちを持つ事もなかった。
ミキオ自身も確かに迷っていたことは確かだった。
ただ、佐倉のこの言葉はミキオよりせっかちな、人情深さが表に出ている咲子の背中を押した。
佐倉の狙いがあたったのかどうかはわからないが、咲子はさくらが化粧室から戻ると、すぐにこんなふうに切り出した。
「さくら、あんたのお母さんはいつから働くの?そんなジジイんとこで働いて家の人は何か文句言ったりしなかった?」
さくらはぎょっとして一瞬言葉に詰まってしまった。
そして佐倉のほうをちらっと見てから、覚悟を決めた様子でこう告げた。
「仕事は月曜から……でも大丈夫なの、私以外に母に文句を言う人はもういないの。私達、今二人で暮らしてるんです、吉祥寺でね。父との間に色々あったものだから三月に家を出たんです。そんなわけで私イライラしてて変だったでしょう?初日から泣いたりなんかして、みなさんには心配かけて。ほんとうにすみませんでした」
「心配なんていいの!私達は佐倉さんをやっつけただけなんだから。日頃の恨みってやつよ。そんなことよりお母さんは……その、大丈夫なの?あんたもだけど」
咲子はさくらの顔を覗き込むようにして心配そうに訊ねた。
「ええ、二人ともすごく楽しくやってるのよ、これは本当。お母さんはすごく明るくなって、かえってよかったんだと思うの。私あんな母を見たのは初めてなんです。母があんなに楽しい人だって今まで知らなかったような、そんな気までしたりして……だから本当にそのへんは心配いらないんですよ。でもありがとう」さくらは心から言った。それはみんなにも伝わった。
ミキオはずっとぼんやりとしていて、ただおとなしく頷いているだけだったが、そのうちに心配そうな表情はだんだんと消え去っていった。
そして、何かに気付いたようにはっとして目を輝かせたかと思うと、急にうきうきとしてご機嫌になった。しまいにははずむような声でさくらにこんなことを言ってきた。
「へえ、そう。本当にそうなら、俺ははっきり言わせてもらうけど、そりゃよかったかもしれないぜ。俺は昔からあんたの……これ言っちゃ悪いような気もするけど、あんたの親父が嫌いだったんだよ。正直言うと大っ嫌いってやつさ!璃久おばさんのことを考えたら結構な事さ!俺は……」
ここまで言った時、後藤が怒鳴った。
「ミキオ、お前黙れよ!酔ってんのか?そんなこと言うもんじゃない!さくらのお父さんのことをそこまで言うことないだろ?」
後藤の言う事はもっともなことで、トロさんも咲子もそれを支持した。
しかし、佐倉は黙ったままミキオを見つめた。
ミキオは意地になったわけでも、酔っていたわけでもなかった。
そして誰に臆する事もなく、続けてはっきりこう言い切った。
「いいや、別に訂正するつもりもないよ。あんただって俺が失言したよって、謝ってほしくないだろう?俺はおばさんが好きだったし、今もさ!だからあんたのためにも誰のためにもよかったってことが分かるのさ。もうあいつらのことを隠し立てしたり、かばってやったりする必要はないんだよ。遅すぎたくらいなんだ!よかったじゃないか」
ミキオの言葉にさくらはそっと微笑んだ。
「ミキオちゃんありがとう、お母さんに言っておくね。お母さんは確かに幸せになったんだと思う、実 は私もね」
「そうに決まってるのさ!もう安心していいんだ!」ミキオはこんな事を言った。




