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名前の呼べないいとこ(十、二人)

 佐倉と二人、会社に戻ると咲子が鬼の形相で待っていた。

 三時をとうに過ぎていたが会社に取り残された四人はまだあの昼休みを引きずっていて、お互い口を利くこともなく、部屋にはどんよりとした空気が充満していた。


 ミキオはもう作業場を占領しておらずみんなと大部屋で仕事をしていたが、さくらの顔を見ると『よお』と言って片手を上げてきた。

 相変わらず佐倉のことは無視し続けていたが、佐倉のほうは小馬鹿にしたような笑みを浮かべミキオに話しかけた。


 「ミキオ、あれは作り終わったのか?今日中に私に見せてくれ。それから咲子くん、そんな恐ろしい顔で睨みつけてないで書類を出してくれよ。今日は何を隠したんだ?」


 「佐倉さん、ふざけてないでちゃんと説明してくださいよ!そうでなきゃ私なんにも渡さないから」

 咲子は本気で怒っていた。


 「頼むから返してくれよ、もうあっちこっち探すのはごめんなんだ。だいたい何を説明しろって言ってるの?私が彼女をいじめて泣かせたってことを言ってるのか?」


 「実際そうなんでしょう?私がっかりしたわ。どうしてそんなことになったのか、なぜそうしたのかをはっきり言って欲しいだけよ私は」


 佐倉が「君が話してもよければ説明させてほしい」と言って側にある椅子に腰掛けると、さくらはのほうはお願いしますと言い、咲子を申し訳なさそうに見つめた。


 佐倉は何度もため息をつきながら、土曜日の面接から今日に至るまでに起こったさくらとのやり取りについて淡々と説明した。

 しかし、さくらにとって不都合と思われる事柄については何も語らなかったし、また佐倉自身が興味本位に探られたくない部分、については実に上手く包んで話した。


 佐倉が力を入れて話したのは『ミキオとのやりとりと誤解』についてだけだった。

 そして、最後をこんなふうにまとめた。


 「だから言っただろう?結局ミキオは何も分かっていなかったって事さ!さくらくんがあの日、お前のネックレスをほめた事を()()()()、彼女がここに入りたいが為のお世辞を言っているんだと受け取って、そのことでお前が彼女をかばったりなんかしたせいで喧嘩になったと思ったんだよ。そりゃ全く逆じゃないか?聞いていて笑ってしまったよ。そら!こんなわけなんだよ。だから早く書類を返してくれよ」


 これを聞いてもオフィスに取り残されていた四人全員が納得出来なかった。

 『でもあんなに泣かせたくせに』と、彼らが佐倉を責めるような目で見つめてきたので、さくらがたまらず口を出した。

 「すみませんでしたほんとうに。最近私は家のことでイライラしていて確かにおかしかったんです。だから馬鹿みたいに神経質になっていたんです。本当に心配をかけてしまって、ごめんなさい。心から反省しています」


 さくらがこうまで言ったので咲子も「取り敢えずは仕方ないわね」と、腑に落ちないながらも頷いて、しぶしぶ佐倉の計算機や時計とお気に入りの万年筆を返してやった。


 後藤やトロさんは「まあよかったよ」と苦笑いをしていたが、ミキオだけは憮然としたままぷいっとタバコを吸いに外へ行ってしまった。


 ミキオの態度を見て佐倉が勝ち誇ったように笑ったので、咲子が呆れ返って短く怒鳴っていたが、佐倉は面白そうに万年筆を振りながら咲子を見ているだけだった。


 さくらは午後のほとんどを『私事』に費やしてしまい、本来の急ぎの仕事が途中になってしまったことが申し訳なくて、とにかく残りの数時間を午前のスピードに負けない早さでこなそうと決心し、またそれを見事にやり遂げた。

 佐倉に印刷したもの一式を渡した時にはもう七時を過ぎていたが、さくらはさっき六時の時点で既にタイムカードを押していた。


 帰り際に佐倉が「明日は来るのかい?部屋の道具を使って色々やってみてもいいんだよ」と言ったので、さくらはどう答えていいものか困ってしまった。

 そんなことをするのにはまだ早いように思えたし、また、いくらそう言ってくれたからといってのこのこ出掛けて来ることは、いかにもずうずうしいことのような気がして明日はやめておこうと思った。


 さくらはそれをうまく言おうとしたのだが、ちょうどその時後藤がこう言ってきた。

 「明日歓迎会をしたいんだよ、六時くらいからと思ってるんだ。どうかな?無理なら来週にするけど……ミキオもちゃんと来させるから飲みに行こうよ」


 さくらはこれもどうしたらいいかと迷っていた。

 しかし、咲子やトロさんも是非にと一生懸命誘ってくれるのでどうしても断りきれなかった。

 璃久一人を家に残して来るのは忍びなかったが、参加することを告げて初めての仕事を終えた。


 まさに波乱の一日であった。

 さくらのここでの初日は、仕事とは別の、何かの始まりを予感させるものだった。

 レストランで佐倉につい打ち明けてしまった『母が抱えている秘密』についてだが、さくらは今日この話をした後に、この秘密をうまい具合に探ろうと密かに決心していた。


 佐倉が『ひとりで抱え込まないで』と言ってくれたことは不安定なさくらの神経を落ち着かせ、その小さな背中を押した。


 さくらにとってこの佐倉という男は、包容力のある大きな胸でさくらの心配事を『喜んで聞く』と言ってくれた初めての相手に違いなかった。

 これは、さくらにとっても、また佐倉という男にとっても大切な秘密になった。

 

 帰宅したさくらは、出勤第一日目をどんな風に過ごしたか、なかなか話すことが出来なかった。

 璃久は璃久でまだ水曜日のことを引きずっていたので、さくらがうまく第一日目を過ごせたかどうかを訊ねることが出来ず、ソワソワとしてさくらを見つめたり、やっぱり目をそらしたりしながら、さくらの告白を待っていた。


 さくらは「遅くなったのに連絡も出来なくてごめんね」と言っただけで夕食をとったりお風呂に入ったりして、璃久の顔を見ないで済むように狭い家の中をうろうろしながら過ごしていたが、璃久の心配そうな顔を見ているうちに耐えられなくなり、ついに観念した。


 「お母さん心配させちゃったね、でも少しだけ安心して欲しいんだ。今日佐倉さんにちゃんと謝ったよ、水曜のことも面接の事もね。そしたらね、あの人、気にしてたのは自分の方なんだって言って笑ってくれたのよ。自分はひどくイラついていたから土曜の面接で私に当たり散らした、ってずっと気にしてたみたいなのよ。水曜のことは……こう言ってたの。『いやな身内と過ごす気持ちはよくわかるよ』ってね。だから本当に気にも留めてなかったって大笑いしてたの。きっと私のためにそう言ったんでしょうけど、でもお互いそれぞれが気にしていた事を話し合えてよかった、って言ってすごくすっきり出来たのよ」

 「本当なの?何か言われたりしなかったの?他の人達の様子はどうだった?みんな良さそうだった?仕事はどんなだったの?」璃久はここぞとばかりに一気に訊いて来た。


 さくらは笑って璃久の顔すれすれに自分の顔を近づけてこう言った。

 「お母さんごめんね、ほんとに心配だったのね。でもすごく楽しかったのよ。仕事は当分入力処理中心だけど、これはそんなにきつくないの、だって慣れたもんなんだから。それに朝ね、社員の女の子が、私が一人では中に入りずらいんじゃないかって駅で待っててくれたのよ、初日だから一緒に行こうって。みんなすごくいい感じの人たちばかりなの、私ラッキーだったよ。明日は歓迎会をしてくれるって」


 「ほんとに?もう私ったら一日中気になって気になって!さくらちゃん帰って来ても何も言ってくれないんだもの。もしかしたらって……でもよかったわ、じゃあうまくやっていけそうなのね?辛くなさそうなのね?」璃久は真剣だった。


 「当たり前だよ、ちょっと言いにくかっただけ。あの社長に謝ったなんて、まあくやしいじゃん。お母さんにも『ほらね』なんて言われそうだしさ。でも、佐倉さんはすごく優しい人だったよ。もしあんな人が……」

 さくらはここで言ってはいけないことを口走りそうになった。

 しかし、さくらは瞬間、すぐに気がついてこう続けた。


 「もしあんな人が社長でなかったら、みんなをきちんとまとめられないと思うよ。すごく個性的な人達なのよ。咲子さんって子はすごくきつい子でね、私のことは気に入ったらしいんだけど、ずっと前に佐倉さんがミキオちゃんと喧嘩した時はミキオちゃんの肩を持ってくれたようなんだけど、佐倉さんの書類を隠したんだって!」さくらは上手く話を持っていった。


 「隠す?社長の書類を?」璃久はそっちに驚いたようだった。

 「そうなのよ。佐倉さんも笑ってたわ、子供みたいによくやるんだって。だからもし、佐倉さんが私をいじめたりしたら彼女に何か隠されるから怖いよ、なんて笑ってたよ」

 「そうなの?それはなんとも心強いけど、どんな子なの?あなた大丈夫なの?」

 璃久はなんだか咲子のことが気になってきいてきた。


 「何?お母さんたら、彼女は本当に感じのいい人よ。佐倉さんも私と彼女は気が合いそうだって言ってたもの。私が来るのを楽しみにしてくれてたらしいし、何があっても味方するなんて言ってくれたんだから。私がちょっと……疲れた感じにしてただけで声をかけてきたり、書類仕事は私だけに押し付けたりしないから安心してって」

 「そうなの?あなたがそう言うなら、きっといい子なんでしょうけど。でもあなたの書類を隠されたりしたら大変じゃないの!だってもし、」

 璃久は心配のあまりにこういったのだが、さくらはこれを笑い飛ばした。

 「大丈夫!彼女は絶対にそんなことはしないわ。そのぐらい私にだってわかるのよ。お母さん、悪者みたいに言わないで、大丈夫よ」


 璃久はそれでもまだ少し気にしていたようだったが、「でも彼女がどんな子かはしばらくすれば、さくらちゃん自身がわかることよね」と言ってそれ以上何も言わなかった。

 二人は少しだけ以前のままの二人に戻って、小さな報告を楽しみ、励まし合い、久しぶりに穏やかに一日を終えたのだった。


お読みくださりありがとうございます。

次回は土曜日に投稿する予定です。

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