名前の呼べないいとこ(九、佐倉)
二人が出て行った後、残りの四人は呆然として顔を見合わせた。
何がどうしてこうなったのかが全くわからないこの状況では何をするべきか見当もつかない。
心配でたまらず二人を追いかけようかと言って焦っている咲子に対して、ミキオが「ほっとけよ!」と言い捨てたので咲子はそれ以上はもう何も言わなかった。
ずっと考えこんでいた後藤が「一体何がどうなったんだか俺にはもう分からないよ。女の子をあんなに泣かせるまで何を言ったっていうんだ?」と言うと、咲子が申し訳なさそうに朝の出来事を打ち明けた。
「実は、朝来る途中にミキオと佐倉さんが喧嘩したっていう例のことを私があの子に話しちゃったもんで、あの子ったらもう可哀相なくらいがっくりしちゃってさ……それで佐倉さんも朝は心配してたんだよ。私に『余計なことを!』って怒ってさ、ずいぶんと心配してたみたいだったのに、どうしてさらにあんなふうになるまでやったのか、私だってわかんないよもう」
これを聞いたミキオが、はーっとため息をつく。
「あんたほんとに余計なこと言ったんだ。なんでまたそんな意味のないことをしたんだよ、あの子には関係ないじゃないか……佐倉さんも困ったろうに」
すると、ずっと黙っていたトロさんがぽつりと言った。
「でも佐倉さん笑ってたじゃないか。いくらなんでも人を叱りつけたり怒鳴ったりしたとして、それで相手が泣いているってのに、ああやってげらげら笑うようなことはしないと思うよ、あの人に限って。佐倉さんはやっぱりいつだって優しい人じゃないか、そんな、人を徹底的に傷つけるようなことはしないよ。だからちょっと考えたら……」
しかしミキオがこれを遮る。
「いいや!ふざけて馬鹿にしたんだよ。わかるだろ?」
こう言ってどすんと椅子に腰を下ろし『は―っ』と溜息をつくミキオにどんよりとさせられた三人は、もういたたまれない気持ちになり、しばらくは何かを口にできそうもなかった。
◇◇◇◇◇
さて、駅の近くでタクシーに乗り込んだ二人。
佐倉は会社から少し離れたところにある戸建て風の洒落たレストランにさくらを連れて来た。
席に案内されてしばらくの間、佐倉はずっとさくらの様子を見守るように黙ったままだった。
さくらもまだ何も話せず、佐倉の視線を避けながらテーブルに置かれた花瓶の柄を見たり、その下に敷かれたレースの端に付いているガラス玉がキラキラと光る様子を見つめて気持を落ち着かせようとしていた。
若いウェイターが注文を取りに来た時、とうとう佐倉のほうから声をかけた。
「そろそろお腹がすいてきたんじゃないかい?無理しなくていいが、とりあえず注文して一口も食べられないかどうか確かめることにしようか」
さくらはこれにただ頷いた。
佐倉は適当に注文を済ませ、肘をテーブルにつきながらこんな風に切り出した。
「もうすっかり白状させてもらうが……」
こう言って赤くなったさくらの目元を見て、気まずそうに頷いてから一気にこう言った。
「君が何を気にしていたんだかやっとわかったよ、でもそれは全く不要の心配だよ。君はさっき面接での態度がどうこう言っていたが、私はそれには驚いたよ。だってさ、あの時のことをうじうじ気にしていたのは私なんだから!あんな失礼なやり方で君を、泣き出しそうになるくらい痛めつけてしまって……せっかく応募してくれた君に対して本当に悪かったと思ってたんだからね。だからといって君を採ったのは『悪かったから』という気持からじゃないから誤解しないで欲しい。一次面接の時から君をとても感じの良い子だと思っていたが、後藤君も君を推していたんだよ。もちろん私もだがね。作文も、私は実に気に入ったよ。デザイン画だって、ミキオは『ろくに見てもいなかった』って怒っていたが、ちゃんとそれは評価したんだよ。それにミキオのネックレスのことでは笑ってしまったよ。だって、ミキオが言ったんだよ『仕方なく君がほめた』ってなことを!……このことを君に言いつけて男らしくないと思うだろうが言わせてもらうよ。私はすごく嬉しかったんだよ、あのネックレスをあんな風に言ってくれた君がさ!私はあれがすごく気に入っていてね、もうこの上なく、本当に美しいと思ったんだ。あれを好きな人の首に掛けてあげたいと思うくらいにさ。だから、あんな下品なデザインの入賞作品を見た時、本当に耐えられなかったんだ。ミキオなんかにゃわからんだろうが……私は、君があの時、ああ言ってくれて嬉しかったんだ」
ここまで話すと佐倉はさくらの様子を見て笑い、さっき濡らした自分のハンカチをさくらにそっと渡した。
「君があんなに泣いていたんで、あいつらは私がまたいじめたんじゃないかって心配してるよ。咲子くんはまた私の書類を隠してるだろうな」
「書類を隠す?」さくらはおうむがえしにきいた。
「そうなんだよ、全く子供みたいにさ。いつかミキオにひどく言ってあいつをやり込めた時なんて私がちょっと席を立ったすきに業者に持っていく書類を隠したんだから」
さくらは「まさか!」と言って驚いたが、ちょっと考えてからはっきりとこう言った。
「でも私はあの人が好きです。まだ会ったばかりですがきっと!今朝彼女は私のことを駅の喫茶店で早くからずっと待っていてくれたんですよ。ミキオちゃんがあんなだからって心配したみたいで、それで私を一人では行かせられないって言ってくれて」
佐倉はこれを聞いて嬉しそうに微笑んだ。
「そうか。あの子はね、ああ見えて気持ちの優しい子なんだよ。後藤くんやトロさんは私が甘いなんて言うが、見かけによらず繊細な神経の子だから私もあんまり怒りたくないんだよ。ミキオにはちょうどいい相手でね、いつもなんだかんだあの子がミキオを助けてやったり気にかけてやったりしてさ。咲子くんは君のことがとても気に入ったって言ってたよ、それで私から昨日、面接で君に当たり散らしたってことを聞いたもんだから、相当気にしてたみたいだな」
佐倉はふうっとため息をついてからこう続けた。
「だから帰ったら大変なんだ、何をされてるか恐ろしいよ。それでも私はあんまりあの子を怒れないんだから。ミキオにはつい言ってしまうんだがね、心にもないことまで色々とさ……どうもあいつを見ているとイライラするんだよ、こう、自分の思い出したくないイヤな一面を見せつけられてるような気がしてね。君のいとこだってのに悪いが、まあそんなわけで今回のことは、本当に全く君は悪くないんだよ。すっかり言えば一昨日のことだって、君のお父さんが生きてるって聞いたからって私は気を悪くなんかしていないよ。きっと君の気持を考えたら……何か辛いことがあったんじゃないかって思うくらいで。だからもう余計な心配はしないんだよ」
これを聞いてさくらは『この会社には恐ろしい看守はいなかった』ということを、佐倉から渡されたハンカチで涙を拭きながら今やっと理解した。
さくらは何度もすみませんでした、と謝りながら涙を拭ったが、しまいには安心したため気が抜けてしまい、佐倉のように笑い出してしまった。
これを見て安心したのだろう、佐倉もまた微笑んでこう続けた。
「よかったよ。君をまるで人さらいのように連れ出して、自分でも妙な感じだったからね。実は君が、今日あんなふうに仕事をしてるのを見てどうしようかってオロオロしていたんだよ。戻ったらもう少しゆったりとやるんだよ、さあもう食べられるんじゃないか?どうだ?」
さくらはそれほど空腹という訳ではなかったが、贅沢な美味しい料理を食べているうちにどんどん元気が出て来て、しまいには全て綺麗に平らげた。
佐倉がそれを見て「嘘つくんじゃないよ、君は腹ぺこだったんじゃないか!」と笑ってデザートを注文しようとしたのでさくらは慌ててそれを止めた。
「佐倉さん、もう帰ったら三時を過ぎてしまいますよ。それに早く行かないとみんなもきっと心配してると思いますよ」
佐倉は笑いながらそれを無視し、結局は勝手にデザートを頼んだ。
「君は恐ろしい声を出して私を転ばそうとするまで必死に仕事をしたんだからいいんだよ。今日はお互いの気持ちを全て話し合った記念日みたいじゃないか。仕事が気になるなら少し残業してもいいだろう?あと少しゆっくりしていこう」
さくらはもう余計なことは言わなかった。
この佐倉という人の低い静かな声を聞いているとどんどん気持がゆったりしていくのが自分でもよくわかった。
さくらは土曜日の面接の後、あんなひどい悪口を璃久に言った自分を思い出し、くすっと一人笑いをしてしまった。
「何を笑ってるんだ?今のはすごくいやらしかったね、何か私に言わなくちゃならないような悪さをしたの?」
佐倉は機嫌良くこう訊いてきた。
「いいえ、ちょっと思い出しただけです、土曜日にがっくりして帰ったことを。あの日は本当に立ち直れないと思いましたけど……でももう忘れてしまいそうです」
「本当に?どうもいやな笑い方だった気がするな、まあ言えないだろうがね。ところで君は女子校だったね?あの制服は君が着ていたんだろう?」
佐倉は普通にこう訊ねてきた。
さくらはこの人が嫌いだというセーラー服の話をしてもいいのかと不思議に思ったがあまり深く考えずにこう言った。
「そうです、私の高校のです。アイボリーの、割と人気の制服だったんですよ」
「ふうん、男にはわからんが。君は制服が気に入ってそこに入ったの?」
「まあそれも無いとは言えませんが、一番の理由はあそこが母の母校だったっていうことでしょうか」さくらは学校を選んだ理由を、つい正直に言ってしまった。
「へえ、お母さんが娘を自分と同じ高校に入れたくて勧めたのかい?」
「いいえ、実は全く逆だったんですよ。先日初めて聞いたんですが母は私に北女に……北女って言われてるんですが、ここには入って欲しくなかったみたいなんです。どうもいやな思い出があるらしくて。私のデザイン画もまあ、ほめてはくれたんですが、最初はすごくいやな気持になったらしいんです。母も、その、北女の制服が嫌いだって言ってましたから。私はてっきり母が……私が自分の母校に入ったのを喜んでくれているとばかり思っていたので実はびっくりしました。多分、他の高校とのことでイヤな思い出があるんだと思うんです」
さくらはあの時の璃久の様子を思い出してこんなことまで言ってしまった。
「他の高校?どういうこと?」
佐倉はまるで自分の事のように親身になってきいてきた。
「それがよくわからないんです。母が通っていた頃と今とではずいぶん事情が違っていたのは確かなんですが、多分……近くにある女子校の生徒に嫌がらせをされたとか、もしかしたら馬鹿にされたとか、そんな高校生同士のトラブルとかそんなことだと思うんですが……」
さくらは自分が余計なことを言っていることに全く気がつかず、自分が今日まで璃久に対して持っていた疑問や心配を、ぼんやりと告白するように話し続けた。
「私は母があんまり……あんまり辛そうだったんで、その時はそれ以上聞けなかったんです。でも一昨日、母は自分から……いつか聞いて欲しいことがあるって私に言ったんです」
「いつか聞いて欲しいことがある?へえ、そんなことを言ったの?」
佐倉は本当に親身に、そして優しい気持ちからさくらを気遣ってきているように見えた。
さくらはひとり思い悩んでいたこの疑問を初めて誰かに打ち明けることが出来たので、このチャンスにすがりつくようにこんなことまで口にした。
「母は、きっと何かを後悔していたんだと思うんです。私は最近まで母の若い頃の話を聞いたことがなかったんです。聞いてもはぐらかされたり、ごまかされたりして、ずっとそんな感じだったので私のほうからあまり聞かないようにしてたんですよ。でもこの間、あのデザイン画のペンダントを見たら昔のことを思い出したって言って、ちょっと様子がおかしかったので私、すごく気になっていたんです。もしかしたら、私が制服を着ているのを見る度に母は辛いことを思い出して……それなのに私、あんなものを描いてしまって!でも土曜日に私が落ちたと思ってがっくりして帰ると、私を慰めようとして色々言ってきたんです」
「昔のことっていうのは君のお母さんにとって、辛いだけのことだったんだろうか?それとも他に、何かあったように話してたの?」
「いいえ、でもきっと何か、私の知らない何かが母を動かそうとしているんです。母は急に外へ出ようとして仕事も見つけました。きっと何かを思い出して、もう一度やってみようとか思ったんじゃないかしら?若い頃の夢とか、そんな色々な何かを……そう言えばあの時に『ちょっと素敵だった頃のことも』って言って笑ったんです。私はきっと、」
「ちょっと素敵だった頃の?そりゃどんなことだろうね?君はきかなかったの?」
佐倉はいかにもさらっと訊ねてきた。
しかしさくらのほうは、今こう訊かれてぎくっとした。
母に対してはなぜか……何かを訊きたくてもそれを訊ねたり確かめたり出来ない時がある。
そんな情けない自分に気が付くと、急に不安が押し寄せてきた。
そのためにさくらは、この佐倉という男が立ち入ったことに非常な興味を持っていることに気付けなかった。
この時のさくらは、あの日の母との会話を思い出すことや『なぜ自分は母に大切なことを何も訊ねられないのか?』という自身への問いかけに全ての神経がいっていたため、佐倉の目つきが急に鋭くなったことも、顔がかすかに赤らんで慌ててハンカチで汗を拭っていたことも……そして、テーブルの半分くらいまで身を乗り出していたことにすらも、気付くことが出来なかった。
何も言わないさくらに、佐倉は心配そうに「大丈夫かい?」と声をかけた。
すると、さくらは急に一昨日のことを思い出し、興奮してついこう言ってしまった。
「いいえ、 母は決して余計なことを言わないんです。私とは全然違うんです。私はいつだって、今だって!こうやってこんなことを……仕事中に時間を無駄にして話してしまうような馬鹿なんです!」
佐倉は、さくらが父親のことを興奮して言った時のようにびっくりしてしまった。
しかし、さくらのこの発言を、この佐倉という男は非常に上手にオブラートのようなものに優しく包み込み、その端をきれいに止める作業に取りかかろうとしていた。
さっき佐倉は『男らしくない』という言葉を使ったが、それこそ今、実に男らしくないずるいやり方でうまくさくらを丸め込んで落ち着かせ、先に何かをつなげるために、こっそり鍵を投げた。
「いいや、それは違うよ。誰だっていつまでも秘密を胸に秘めたままじゃたまらなくて生きて行けないと私は思うね。君だって、お母さんのことをそんなに心配しているんじゃないか。君のデザイン画に誰かがなんだかんだ言ったとしても……まあ私みたいにね。たとえお母さんがそれを見て辛いことを思い出して心を痛めたとしても、もしそれがきっかけで新しく何かを始めようと思ったり、前に進もうとしてるんだったら実にいいことじゃないか?きっと君が辛抱強く待ってれば、お母さんも君に打ち明けてくると思うよ。どんなことだか知らないが……全く妙な話だったり、不思議なことだったりするかもしれないがね。それでも君は聞いてあげるべきだ。それに君だって、何でも一人で抱え込んでないで誰かに話したって何も悪くないじゃないか。時間をかけてゆっくり考えたり、人に話すことで君がらくになるんなら、どんな人間だって喜んでそれを聞くと思うね」
佐倉のこの言葉は、さくらの耳に実に心地よく、温かく響いた。
そして、さくらは目を輝かせてこう言った。
「秘密を胸に秘めたままじゃ生きて行けない……そう思いますか?機会を作ってはっきりきいてみてもいいと思いますか?」
「ああ、ただ時期を見ないとね。いきなり無理矢理聞き出そうとしても、お母さんを傷つけたり……そんなあせってやったりしたら、話がこんがらがって悪いほうへ悪いほうへって進んで行ったりするかもしれないよ。だからまず君がじっくり考えて、いい具合に段取りをつけるんだね。まあ一人で考え込まないことだよ、あせらないで」
佐倉は言い聞かせるようにこう言って、そろそろ帰ろうかとさくらに微笑んだ。
お読みくださりありがとうございます。
次回は金曜日に投稿する予定です。




